市場に朝が来るのは、空より先だ。
まだ星の残る時刻に魚が揚がり、氷が砕かれ、パン屋の煙突が最初の煙を吐く。港町ナビアの一日は、太陽を待たずに動きはじめる。
「キーラ! リンゴあと二山、頼む!」
「はーい、いま行く!」
倉庫から木箱を抱えて表へ出ると、冷えた空気の中に氷と塩と、焼きたてのパンの匂いが順番に混ざった。石畳はまだ夜の色をしているのに、市場通りはもう人だらけだ。魚箱を担いだ荷担ぎが駆けていき、天秤棒がしなり、どこかで景気のいい値付けの声が上がる。
すれ違う顔なじみたちが、袖をまくった腕を上げて挨拶をくれる。その右腕の内側、手首に近いところでは、小さな結晶がそれぞれに光っていた。青白く澄んでいるのは若い衆。少しだけ色の濃いのは年配組。
市場の朝は、みんなの時間が透けて見える。
キーラの家は、市場通りの角で食料品店を営んでいる。パンに豆、干し魚、季節の野菜、香草の束。それから、店の看板がわりの棚に積み上げるリンゴ。艶のいいやつを選んで山にするのが、キーラの朝いちばんの仕事だ。
「いちばん上のは、くるっと回して器量よしの面を出しな。山のてっぺんが今日の店の顔だ」
「わかってるってば、お父さん」
「わかってるって顔が半分寝てるぞ」
「寝てません!」
言い合うあいだも手は止めない。父のマルコは太い腕で樽をひょいと動かし、量り皿を布で拭き上げる。奥からは母のテレサの声が飛んでくる。
「ふたりとも、朝ごはん先に食べちゃいなさい」
「「あとで!」」
返事だけは親子できれいに揃った。
最初の客は、鉢巻きを締めた向かいのおかみさんだった。
「おはよ、キーラちゃん。リンゴふた山ちょうだいな」
「はい、リンゴふた山で3Øです!」
「2Øにまけられない?」
「まけません! ……その代わり、傷ありを一個おまけしちゃいます」
「言うようになったねえ、マルコんとこの娘は」
「父さん譲りですから!」
笑い合って、右手をがっちり握る。手首をくいと捻ると、てのひらの奥を、ぬるい流れがひとつ通り抜けていった。誰かが三時間はたらいて得た時間が、いま、うちの店の売り上げに変わった。
キーラはこの感覚が嫌いではない。重たくて、ちゃんとしている。
「まいどありがとうございます!」
そこからは商いの本番だった。豆を量り、干し魚を数え、香草の束の匂いを客と一緒に確かめる。使い走りの子どもには、釣り銭がわりに飴をひとつ。呼び込みの声はだんだん温まって、通りの端まで届くようになる。声の大きさなら、この市場でも負けない自信があった。
途中、船宿のまかない頭が来て、干し魚をまとめて三十匹欲しいと言った。
「三十! ありがとうございます。……でも、うち今日は在庫が二十六なんです」
「じゃあ二十六でいい。まけてくれるかい」
「うーん……四匹ぶん届かなかったお詫びに、端数を切って12Øちょうどで。そのかわり、明日の朝いちばんの分から四匹、取り置きしておきます」
「明日も来いってか。……はは、商売上手め」
「お待ちしてます!」
握手して、捻る。半日ぶんの時間がてのひらを流れていくのを、背中で父が聞いているのがわかった。振り向くと、マルコはなにも言わずに、樽を拭きながらちょっとだけ口の端を上げていた。褒めるかわりに黙る。それが父の褒め方だった。
日が屋根の高さを越えるころ、常連のおばあさんが、ゆっくりと杖をついてやってきた。
「おはよう、嬢ちゃん」
「サリおばあちゃん、おはよう! いつもの?」
「いつもの」
豆をひと袋と、小さな魚を一匹。注文は、季節が変わっても同じだ。
「しめて2Øです」
差し出された細い手首の内側で、結晶が鈍い黄色に光っていた。
——去年までは、たしか、もう少し青かった。
キーラは声には出さず、袋へ魚をもう一匹すべりこませる。
「おや。嬢ちゃん、多いよ」
「今日は二匹で一山なんです。仕入れすぎちゃって」
「……そうかい。じゃあ、遠慮なく」
嘘は商人の恥だと、父は言う。でも、こういう嘘だけは、たぶん怒られない。
こつ、こつ、と杖の音が角を曲がって聞こえなくなるまで見送ってから、キーラは次の客へ向き直った。
✦ ✦ ✦
時刻が正午になるとき、教会の鐘が十二回鳴った。
一つ、二つと数えるうちに、市場通りの空気が変わっていく。商人たちは示し合わせたように店じまいを始め、路地から晴れ着の子どもが飛び出してくる。今日は十二日。月に一度の、成星式の日だ。
成星式はかならず星曜日にあたり、神さまを仰ぐための休みの日に、十五を迎えた子らの時間が動き出す。町の人はそれを、成人したとしてお祝いする。おかげでナビアの十二日は、市も店も昼で看板を下ろし、あとは町じゅうがお祭りだ。
「キーラ、棚のリンゴはそのままでいい。式の帰りに買ってく客がいる」
「はーい」
店の前を、見慣れた顔が硬い表情で通りかかった。隣のパン屋の息子のルカだ。糊のきいた式服に着られたみたいになって、歩き方まで右手と右足がいっしょに出ている。
「ルカ、おめでとう! ……って、顔、ガチガチだよ」
「う、うるさいな。……別に、緊張なんかしてないし」
「してるしてる。大丈夫だって。名前を呼ばれて、前に出て、祝福をもらうだけだから」
「……キーラ姉のときは?」
「わたし? わたしはぜーんぜん平気だった……けど、返事はちょっとだけ裏返ったかな」
「してるじゃん、緊張」
「うるさいなあ!」
笑ったら、ルカの肩から少しだけ力が抜けた。後ろからパン屋のおばさんが追いついてきて、式はまだ始まってもいないが、もう目元を光らせている。
昼を過ぎるころには、町はすっかり祭りの顔になっていた。軒先には星をかたどった飾りが吊られ、路地は朝のうちに掃き清められて、広場へ続く坂道には屋台の骨組みが並びはじめる。藍色の祝い旗が海風にはためくたび、ぱたぱたと乾いた音がした。
「ほら、あなたも早く着替えなさい。煮干しの匂いのまま式に行く気?」
「え、匂う?」
「匂う」
母は容赦がなかった。大急ぎで着替えて表へ出ると、両親はもう店の前で待っていて、テレサはキーラの襟を直しながら、ふと目を細めた。
「あなたの成星式も、いいお式だったわねえ」
「……その話、広場に着くまでに三回目だよ、お母さん」
「何回してもいいのよ、親なんだから」
広場へ向かう人波に、キーラたち家族も混ざった。途中、港の見張り台から警備隊がぞろぞろと下りてくるのに行き合う。腰の剣に祝いの飾り紐を結んで、今日ばかりはほとんどが広場詰めだ。傭兵たちまで、酒場の前で身なりを整えている。
「見張りはいいのかい」
と誰かが冗談めかして声をかけ、
「今日は町じゅうがお祝いだからね」
と、若い隊員が笑って返した。
✦ ✦ ✦
広場は、人と旗と楽の音でいっぱいだった。
石畳の中央に白い式壇が組まれ、今月十五を迎えた子どもらが十人と少し、そろいの祝い帯を締めて並んでいる。ルカは端から二番目。遠目にもわかるくらい、まだ緊張していた。
白い式服の司式者が壇に上がると、楽の音がやんで、あとには潮騒だけが残った。
「——星々のもとに、新しき大人たちを迎えます」
やわらかい、けれどよく通る声だった。
「今日この子らに刻まれる十二年を、どうか、良き時間に」
一人ずつ、名前が呼ばれる。呼ばれた子は壇に上がり、右の袖をまくって、手首の内側を空へかざす。魔核————体のうちで時間を宿す、小さな結晶。子どものあいだは淡くまたたくだけのそれが、十五の年から、大人の光で輝きはじめる。
最初に呼ばれたのは漁師の家の娘だった。日に焼けた腕を高くかざすと、青白い光がきらりと跳ねて、見物の漁師たちから船が出るときみたいな野太い声援が飛んだ。次は仕立屋の息子。その次は、キーラの知らない顔。呼ばれるたびに拍手が起こり、どこかで鼻をすする音がする。
十二の月、十二種の生き物、そして成人の時に刻まれる十二年。この世界は十二という数でできている——と、昔、市場の年寄りに聞いたことがある。ほんとうかどうかは知らない。でも、こういう日にはちょっとだけ、ほんとうな気がする。
「ルカ・オーレン」
「は……はいっ!」
裏返りかけの返事に、広場のあちこちから忍び笑いがもれた。壇に上がったルカが、ぎこちなく袖をまくる。かざした手首の内側で、結晶が、はっきりと青白い光を放っていた。
十二年ぶんの時間。今日から自分の手で使っていく、まっさらな時間だ。
わあ、と歓声が上がる。パン屋のおばさんはもう鼻まで真っ赤で、マルコが「うちのときもああだったなあ」と笑い、テレサが「あなたのほうが泣いてたでしょう」と返した。
キーラは手が痛くなるまで拍手をしながら、二年前の自分の手首を思い出していた。裏返った返事。まぶしかった青白い光。あの日から、この結晶の光はじぶんの時間だ。
——なにに使うかは、まだよくわからないままだけれど。
式が終われば、あとは祭りだった。屋台に火が入り、笛と太鼓が鳴り、リンゴ飴の甘い匂いが広場を横切っていく。この海の向こうの友好国——ストラル王国の町々でも、いまごろ同じ鐘が鳴っているという。ふしぎな話だ。会ったこともない雪国の子たちと、同じ日に、同じお祝いをしている。
「キーラ、ほら」
父が屋台のリンゴ飴を放ってよこす。受け取ってひとくち、飴の下から、ちゃんと知っている味がした。うちの店のより、ちょっとだけ酸っぱい。
人混みの向こうから、襟元をゆるめたルカがやってきた。式服の堅苦しさはもう抜けて、いつもの歩き方に戻っている。
「どうよ、大人になった気分は」
「……別に。パンの味も変わんなかった」
「そういうもんだよ」
「そういうもんか」
ルカは自分の手首をちらりと見て、それからちょっとだけ笑った。まくった袖の内側で、青白い光が揺れている。使い道の決まっていない、十二年ぶんの時間。まぶしいなあ、とキーラは素直に思った。二年前の自分も、誰かからはこう見えていたんだろうか。
祭りの音のすきまで、ふと、キーラは広場の端から港を見下ろした。
帆はたたまれ、桟橋に人影はなく、見張り台はからっぽ。にぎやかさのぶんだけ、港はしんと静かだった。
——まあ。今日くらいは、いいよね。
キーラは屋台の列へ向き直り、楽の音はまだ高くなっていった。