祭りの午後は、砂糖と揚げ油の匂いがした。
広場の屋台はどこも行列で、ルカは同い年の連中に囲まれて、すっかり主役の顔になっている。
新成人は今日一日、屋台がどこも一割まけてくれるのだと、さっき得意げに自慢された。だったらルカに全部買いに行かせよう、とみんなで冗談交じりに話した。
「ほら、キーラも並ぶわよ。次は揚げパン」
「お母さん、さっき飴で終わりって言った」
「言ってないわ。……はい、半分こ」
「半分こって言いながら大きいほう取るの、ずるくない?」
文句を言いながら残りを頬張ると、砂糖が指にくっついた。
祭りの笛の音は途切れない。高く上がるたび、子どもたちが笑う。
お父さんは向こうの屋台で、樽椅子に腰かけて漁師たちと呑みはじめていた。
夕暮れに差し掛かるころ、夜には灯籠を海に流すのだと誰かが言っていた。祭りはこれからが本番だった。
いい日だった。ほんとうに、いい日だった。————
そう思っていたのもつかの間、最初に感じた異変は音だった。
笛の音のすきまに、かん、かん、と硬い音が割り込んでくる。祭りの鐘じゃない。もっと速くて、もっと乱暴な——港の半鐘だ。
楽の音が、ひとつ、またひとつ途切れていく。歓声がざわめきに変わり、広場の縁に立っていた誰かが、海のほうを指さして叫んだ。
「煙だ! 港から煙が上がってる!」
人波が、一斉に動いた。
悲鳴と怒号がぶつかり、屋台がひとつ倒れて、飴細工が石畳に散らばる。人の流れに揉まれて足が浮きかけたとき、太い手が腕をつかんだ。
「キーラ! 離れるな!」
「お父さん——」
「店は駄目だ、倉庫へ回れ! テレサ!」
「ええ!」
坂を駆け下りる。視界の端、桟橋に見慣れない船が横付けされていた。黒ずんだ帆。日に灼けた男たちが箱を担いで走り、通りの店から袋が引きずり出されていく。桟橋の脇では、詰所に残っていたらしい警備の男が、倒れたまま動かない。
————海賊
頭では分かっているのに、その言葉はどこか作り物みたいで、足だけが勝手に動いた。
市場通りの角を進んでいくと、キーラの父の足が止まった。
うちの店の前に、男が二人いた。一人が戸をこじ開け、もう一人が看板棚のリンゴを、山ごと麻袋へ流し込んでいる。今朝、キーラがいちばん器量よしの面を選んで積んだ、あのリンゴを。
「お父さ——」
「見るな」
低い声だった。お父さんはキーラの肩を掴んで路地へ押し込み、自分は最後にもう一度だけ、店のほうを振り返った。その横顔が何を堪えていたのか、キーラには分からなかった。分かりたくも、なかった。
✦ ✦ ✦
倉庫の裏口をくぐると、父は戸を閉めて鍵をかけ、その上から空の樽を積み上げた。板壁の隙間から、通りの光が細く差し込んでいる。
「奥へ。……声を出すな」
お母さんがキーラの頭を抱き寄せる。震えながらもその手で、娘の耳をふさぐように、しっかりと覆いかぶさった。
外を、足音の群れが通っていく。
「食いもんと時元コインだけでいい、手早くやれ! 殺すこたぁねえ——」
割れ鐘みたいな声だった。板壁の隙間の向こうを、ひときわ大きな影がゆっくりと横切っていく。潮に灼けた大男。首筋に古い傷。男は途中で足を止めると、荷を担ぐ手下たちへ、機嫌よく続けた。
「けどよ、覚えとけ。時間ってのはなぁ——奪うのが一番早いんだよ!!」
どっ、と下品な笑いが弾けた。
不意に、すぐそばで戸ががたりと鳴った。
倉庫の表の戸だ。誰かが外から揺すっている。お母さんの腕に力がこもり、お父さんの金槌がゆっくりと持ち上がる。キーラは息を止めた。心臓の音が、外に聞こえてしまいそうだった。
「おい、そっちはいい」
割れ鐘の声が言った。
「漁具倉庫なんざ開けてどうする。食いもんだ、食いもん。市場の蔵をあたれ」
「へい」
足音が離れていく。お父さんの金槌が、音を立てないようにゆっくりと下ろされた。誰も、長いあいだ息をしなかった。
キーラは、奥歯を噛んだ。
目の前には、お父さんの背中があった。金槌を握って戸の前から動かない、大きな背中。見えるのはそれだけで、聞こえるのは自分の心臓の音だけだった。
護身用の槍は店の壁に立てかけたままだ。しかし持っていたところで、何ができたわけでもない。分かっている。分かっているのに、握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んでいく。
——わたしは、ここで隠れていることしかできない。
足音が遠ざかり、車輪の音が続き、やがて波の音だけが残った。半鐘はまだ鳴っていた。坂の上から警備隊の駆け足が戻ってきたのは、それからずいぶん経ってからだった。
倉庫を出るとすっかり夕暮れ時で、あたりに暗闇が広がり始めていた。
通りのあちこちで人が名前を呼び合い、抱き合い、へたり込んでいる。沖では黒ずんだ帆が、もう米粒ほどに小さくなっていた。見上げれば、軒先には星をかたどった祭りの飾りが、なにも知らない顔でまだ揺れている。
祭りの音だけが、町から消えていた。
✦ ✦ ✦
店は、がらんどうになっていた。
パンの棚も、豆の袋も、干し魚の箱も。看板がわりの棚からは、今朝あんなに器量よしの面を並べたリンゴが、山ごと消えていた。帳場の床板は剥がされ、その下の鉄箱は蓋をこじ開けられて、空っぽのまま転がっている。お父さんとお母さんが何年もかけて貯めてきた、時元コインの箱だった。
お母さんは割れた瓶のかけらを拾いながら、笑った。
「命があっただけ、よかったのよ」
お父さんも、棚を起こしながら笑った。
「商品はまた仕入れりゃいい。腕までは盗まれてねえんだ」
キーラは、笑えなかった。
黙ってホウキを動かした。散らばった豆を掃き集めながら、ふと隣を見る。パン屋の店先では、式服のままのルカが、空になった棚を黙々と拭いていた。晴れの日の服の袖が、粉と埃で白く汚れていく。かける言葉が見つからなくて、キーラはまた手元に目を落とした。
夕暮れどき、警備隊の若い隊員が聞き取りに来た。昼に「今日は町じゅうがお祝いだからね」と笑っていた、あの隊員だった。記録用の手帳を持つ手に、うまく力が入っていないように見えた。
「……すまなかった。おれたちが、港を空けてたばかりに」
「あんたのせいじゃないよ」
と、お父さんは静かに言った。それきり、誰もその話をしなかった。
日が暮れるころ、こつ、こつ、と聞き覚えのある杖の音がした。
サリおばあちゃんだった。曲がった腰で、鍋を抱えている。
「嬢ちゃん。夕飯、まだだろう」
「え……でも、おばあちゃんの分が」
「年寄りひとり、豆の煮たのがあれば足りるよ。ほら、温かいうちに」
鍋の中身は、芋の煮付けだった。今朝、キーラが魚を一匹よけいに入れた、その袋の芋かもしれない。お母さんが何度も頭を下げて受け取って、それから三人で、店の裏の段に腰かけて食べた。
甘くて、しょっぱくて、温かかった。それなのにどうしてか、飲み込むたびに喉の奥が痛かった。
夜になっても、町のあちこちから同じような片付けの物音が聞こえていた。
✦ ✦ ✦
夜も更けたころ、寝床に入ってから壁の向こうでは低い声が続いていた。
「……問屋への支払いが月末だ。頭を下げて、延ばしてもらうしかねえな」
「わたしの冬着、まだ袖を通してないのがあるわ。あれを出しましょう」
「お前なあ」
「あの子の前では、この話はなしよ」
「……分かってる」
キーラは布団の中で目を閉じて、聞こえなかったふりをした。眠れるはずが、なかった。
天井を見つめていると、昼間の音ばかりがよみがえってくる。半鐘、下品な笑い声、それから——自分の心臓の音。
思い出すのはなぜか、今日の光景よりも古い記憶だった。
何年か前まで、お父さんの手首の結晶は、市場の若い衆と同じくらい青白かった。それがすこしずつ、ほんのすこしずつ色が変わり始めてきたのを、キーラは毎朝、いちばん近くで見てきた。
熱を出した朝も、お父さんは店を開けた。時化で仕入れが飛んだ月は、お母さんが夜中まで帳面とにらめっこをしていた。仕入れに失敗して、二人で黙って芋ばかり食べた冬もあった。それでも棚のリンゴだけは、いつも器量よしの面をこちらへ向けていた。
朝の暗いうちに起きて、荷を運んで、量って、売って、笑って。その一時間、一時間があの棚の商品になり、あの鉄箱のコインになった。
盗まれたのは、品物じゃない。
お父さんとお母さんが、生きて働いた時間だ。
そう思った瞬間、胸の底で、なにかが音を立てて燃えはじめた。悲しいのとはちがう、怖いのともちがう。生まれて初めての、腹の底からの怒りだった。
キーラは体を起こして、枕元にある髪飾りを手に取った。
小さな花の髪飾り。幼馴染みのリーリアがくれた、たいせつなものだ。月明かりにかざすと、細工の花びらが鈍く光った。
リーリアは、泣いている子がいると自分のことみたいに怒る子だった。それでいて最後には、かならずその子を笑わせにいく。怒って、笑わせて、それからやっと自分が泣く。順番のおかしな子だった。
「……リーリアなら、こういうとき、何て言うかな」
答える声はない。キーラは髪飾りを握ったまま、窓の外の暗い海を長いこと見ていた。
✦ ✦ ✦
翌朝の市場は、品物より噂のほうが多かった。
いちばん早く店を開けたのは、パン屋だった。粉の在庫は持っていかれたが、窯までは持っていけなかったらしい。ルカが残り粉で焼いたパンを籠に山と積んで、通りに配って回っている。「新成人だからな。景気づけだ」と言い張る顔は、昨日よりも少しだけ大人びて見えた。
「置き去りにされた見張りが一人、捕まったんだと」
「そいつが吐いたらしいよ。根城は北の入り江だって」
「警備隊が夜明け前に討伐に出たってさ。……ああ、腹の立つ。うちの樽ごと返しとくれってんだ」
井戸端の声を聞きながら、キーラは空っぽの棚の前で、ホウキを握りしめた。
仕返し。
その言葉が、生まれて初めて、自分の言葉として胸に浮かんでいた。