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CHAPTER I 第8話 はじめてのひとり旅
Ourhour-Traveler

第8話 はじめてのひとり旅

第一章 導きの星 編

ひとり旅の最初の発見は、「道は思ったより長い」だった。

ナビアを出て三日。地図の上では指二本ぶんの距離を、キーラの足はまだ歩き終えていない。二日目に少し張り切りすぎて夜には足の裏が痛くなった。荷物は出発の日より確実に軽くなった気がするし、堅焼き菓子は思ったより早く減っていく。

それでも、歩くのは楽しかった。

丘をひとつ越えるたびに、知らない景色が待っていた。放牧の羊の群れ。すれ違う行商人と交わす「いい天気で」の挨拶。ラースの言っていたとおりだ。世界は、だいたいで歩ける。だいたいで歩けて、そしてどこまでも続いている。

二日目の昼、街道の脇の草むらから、丸くて大きな影が転がり出てきたときは、魔物だと思って槍を構えた。風まで纏わせて、腰を落として、対峙すること十秒——それはただの、転がっていくロールシードだった。大きな種型の魔物。魔物は魔物でも、轢かれるとちょっと痛いくらいの。

種は、キーラの前をことこと転がって、道の反対の草むらへ消えていった。戦う気は、微塵もなさそうだった。

「……こんにちは」

槍を下ろして挨拶をした自分が、しばらく恥ずかしかった。

夜の野宿では、火起こしのありがたみを噛みしめた。夕闇の中で火が育った瞬間の安心感は、家の台所では味わったことのないものだった。堅焼き菓子を炙って、白湯を飲んで、星を数えて眠る。三日目の朝には、体のあちこちが「屋根の下で寝たい」と合唱していたけれど。

途中の道で一度、冒険者のパーティとすれ違った。

四人組だった。よく使い込まれた装備、日に焼けた顔、軽口を叩き合いながら歩く歩調。腰の革帯に、組合の紋の入った金属の証が揺れていた。すれ違いざま、先頭の女の人がキーラの槍を見て、「気をつけてな、嬢ちゃん」と片手を上げた。

その背中が見えなくなるまで、キーラは何度も振り返った。

いいなあ、と素直に思った。

何が、と聞かれても説明は難しい。装備でも貫禄でもない、あの四人の間の空気だ。誰かが何か言うたび、誰かが笑って、誰かが茶々を入れて、それでも足並みだけはちっとも乱れない。長く一緒に歩いた人たちの、あの呼吸の合い方。

(……わたしも、いつかああいうふうに誰かと歩くのかな)

想像しようとして、うまくいかなかった。隣を歩く誰かの顔が、まだ白紙だった。白紙のまま、四人ぶんの足音だけが妙にくっきり想像できた。四人……なんでだろう。三人でも五人でもなく、四人の足音だった。

夕暮れどきに、宿場町ミレットに着いた。

街道沿いに宿と酒場と馬屋が並ぶ、こぢんまりした町だった。今夜は、旅に出て初めての宿泊まりになる。野宿は三日が限度だと、体が正直に訴えていた。お風呂に入りたい、屋根の下で眠りたい。

「いらっしゃい。泊まりかい」

宿の主人は、キーラをちらりと値踏みして、言った。

「ひとり部屋なら、夕飯つきで12Øだね」

キーラの足が、止まった。

十二。じゅうに? 半日ぶんの稼ぎが、一晩で?

「……あの、相場より、ちょっとお高くないですか」

「うちはこれだよ。嫌なら野宿だね。今夜は冷えるよぉ」

にやり、と笑う顔に、ぴんときた。ああ、これ知ってる。市場で毎日見てたやつだ。相手が相場を知らないと踏んで、吹っかけてくる顔。

——なめられてる。商人の娘が。

「お部屋、先に見せてもらっていいですか」

「あ? まあ、いいけどよ」

二階の部屋に通されると、キーラは荷物を下ろさずに、ぐるりと部屋を点検した。窓に手をかけると、がた、がたと建て付けが緩んで、隙間風が入る。壁際に寄ると、天井の隅にうっすら滲んだ染み。寝台の縁を押すと軋みがあり、掛け布を撫で継ぎ当てしている。

「窓の立て付けが緩いので、2Ø引き」

指を折りながら、振り返る。

「天井に雨染みがあるので、1Ø引き。寝台が軋むので1Ø引き。……あとこれ、夕飯つきって言いましたけど、階下の匂いからして今夜は豆の煮込みですよね。豆なら仕入れ値を知ってます。2Ø」

「なっ……」

「合計で、素泊まり6Ø、夕飯つけて8Ø。——それなら、今夜と、なんなら明日も泊まります。どうですか?」

主人は口をぱくぱくさせて、それから降参したように頭を掻いた。

「……あんた、どこの店の娘だい」

「ナビアいちばんの食料品店です!」

夕飯は予想通り豆の煮込みだった。しかも、ちょっとだけ肉が多めに入っていた。どうやら、主人なりの詫びらしい。

「嬢ちゃん、ナビアの店の子か」

配膳のついでに、主人が話しかけてきた。値切られた恨みは、もう残っていないらしい。宿屋というのは案外、さっぱりした商売なのかもしれない。

「街道を北へ行くのかい」

「はい。ノルディオの方へ。……あと、明日、ここのギルドに寄ろうと思ってて」

「ほう、冒険者になるのか。なら朝イチで行きな。依頼ってのは早い者勝ちでな、昼にはいいのが残ってねえ」

「! ありがとうございます!」

「あとな」と、主人は声を落とした。

「受付のノーラさんは、愛想は硬えが、腕は確かだ。新入りの世話で、あの人の右に出る者はいねえ。分からんことは全部あの人に聞け」

値切った客に宿の飯の相場を当てられ、それでも翌朝の段取りを教えてくれる。旅とは、こういう人たちの親切の上を、転がっていくものらしかった。

✦ ✦ ✦

食堂の隅で夕飯を食べながら、キーラは財布代わりの小袋と、自分の手首をかわるがわる眺めた。

宿代に、8Ø。昼に買ったパンと干し肉で、2Ø。替えの靴紐で1Ø。歩いているだけで、時間はちゃんと減っていく。食べても減る。寝ても減る。生きているだけで、確実に減る。

家にいたころは、稼ぐそばから家に入れて、家のごはんを食べていたから気づかなかった。旅というのは、貯めた時間をすこしずつ世界と交換していくことなんだ。

(……まだ、余裕はある。ぜんぜんある。けど)

このまま使う一方では、いつか足が止まる。それは切迫というより、算盤の答えみたいに明快な事実だった。そしてキーラは商人の娘なので、算盤の答えには前向きに従うことにしている。

「稼ごう。旅をしながら」

口に出したら、簡単なことだった。

どうやって? 考えるまでもない。町の掲示板で、酒場の壁でもう何度も見かけている。困りごとと報酬が書かれた紙と、それを束ねる組合。

食堂の壁にも貼ってあった。キーラは席を立って、その紙をまじまじと眺めた。

『納屋の屋根の修理、手伝い求む。3Ø』

『市場までの荷運び、荷車あり。6Ø』

『いなくなった猫を探してほしい。白黒ぶち。見つけたら10Ø』

『畑を荒らす魔物の駆除。要相談』

なんというか——思っていたよりずっと普通だった。冒険者というから、竜退治とか宝探しとかが並んでいるのかと思ったら、屋根と、荷運びと、猫。報酬の相場も、頭の中の算盤がすぐ弾いた。屋根の修理が3Øなら日当としては薄め、荷運び6Øは荷車ありなら妥当、猫の10Øは——飼い主の必死さの値段だ。相場に、気持ちが乗っている。

でも、と思う。屋根が直れば誰かが濡れずに眠れて、荷物が届けば誰かの商売が回って、猫が見つかれば誰かが泣きやむ。それって、市場で毎朝やってきたこととそんなに変わらない。

(……あ、これ、わたし向きかも)

すれ違った四人組の背中が、またちらりと頭をよぎった。あの人達も最初は、屋根と荷運びと猫から始めたんだろうか。

「せっかく旅に出たんだから——冒険者登録して、ヒトの困りごとを解決しながら稼ぐ!」

隣の席のおじさんが、びくっとした。すみません、と小さく謝って、キーラは残りの豆を掻き込んだ。明日の朝いちばんで、ギルドの扉を叩こう。そうと決めたら、豆の煮込みは急に景気づけの味になった。

✦ ✦ ✦

……と、威勢がよかったのは、そこまでだった。

夜、部屋に戻って、荷物の整理を終えてから寝台に腰を下ろすと——ふいに静かだった。

がた、と窓が鳴る。遠くで誰かの笑い声。階下の食器の音。どれも、ナビアの実家では知らない音だった。

家なら、この時間は。

お母さんが明日の仕込みの豆を数えていて、お父さんが帳簿をつけながら舟を漕いでいて、キーラが「寝なよ」と言って、「うるせえ」と返ってくる。あの、なんでもない音の中にいた。

「…………」

寂しい、とはちょっと違う。後悔でもない。ただ、静かすぎるだけ。

キーラは、荷物から堅焼き菓子をひとつ出して齧った。お母さんに叩き込まれた配合の、あの味がした。

それから思い立って、旅の荷に入れてきた紙を一枚広げた。手紙だ。旅の初めに決めたのだ。町に着くたび、家に一枚。書くことは、たくさんあるはずだった。あるはずなのにペンを持つと、出てくる言葉は妙に短かった。

『おとうさん、おかあさんへ。元気です。歩き疲れて足が痛いけど、もう平気。旅の途中、魔物のロールシードに挨拶しました。宿代は6Ø引けました。豆の仕入れ値、覚えてて役に立ったよ。ごはん、ちゃんと食べてます。キーラ』

読み返して、われながら市場の伝言板みたいな手紙だと思った。それでもいい。お母さんは行間を読む名人だし、お父さんは「6Ø引けた」の一行だけで三日は自慢するに決まっている。

それから枕元に、リンゴを置いた。まだ食べていない、あの一個。つやつやの赤い皮に、ランプの灯りが小さく映っている。

「……見ててくださいね、ラースさん。わたし、ちゃんとやるので」

リンゴは答えなかったけれど、なんとなく機嫌はよさそうに見えた。

灯りを消して、目を閉じる。窓の外を、夜の風が通っていくのが聞こえた。

楽しくて、心細くて、静かすぎる初めてのひとり旅の夜は——それでも気づけば、朝までぐっすりだった。

✦ ✦ ✦

翌朝。ミレットのギルド出張所の扉には、こう書かれていた。

『冒険者組合ミレット支所 仮登録・依頼受付はこちら』

キーラは深呼吸をひとつして髪飾りの位置を直し、その扉を勢いよく開けた。

皆さんからいただいた時間 12.99Ø
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