ひとり旅の最初の発見は、「道は思ったより長い」だった。
ナビアを出て三日。地図の上では指二本ぶんの距離を、キーラの足はまだ歩き終えていない。二日目に少し張り切りすぎて夜には足の裏が痛くなった。荷物は出発の日より確実に軽くなった気がするし、堅焼き菓子は思ったより早く減っていく。
それでも、歩くのは楽しかった。
丘をひとつ越えるたびに、知らない景色が待っていた。放牧の羊の群れ。すれ違う行商人と交わす「いい天気で」の挨拶。ラースの言っていたとおりだ。世界は、だいたいで歩ける。だいたいで歩けて、そしてどこまでも続いている。
二日目の昼、街道の脇の草むらから、丸くて大きな影が転がり出てきたときは、魔物だと思って槍を構えた。風まで纏わせて、腰を落として、対峙すること十秒——それはただの、転がっていくロールシードだった。大きな種型の魔物。魔物は魔物でも、轢かれるとちょっと痛いくらいの。
種は、キーラの前をことこと転がって、道の反対の草むらへ消えていった。戦う気は、微塵もなさそうだった。
「……こんにちは」
槍を下ろして挨拶をした自分が、しばらく恥ずかしかった。
夜の野宿では、火起こしのありがたみを噛みしめた。夕闇の中で火が育った瞬間の安心感は、家の台所では味わったことのないものだった。堅焼き菓子を炙って、白湯を飲んで、星を数えて眠る。三日目の朝には、体のあちこちが「屋根の下で寝たい」と合唱していたけれど。
途中の道で一度、冒険者のパーティとすれ違った。
四人組だった。よく使い込まれた装備、日に焼けた顔、軽口を叩き合いながら歩く歩調。腰の革帯に、組合の紋の入った金属の証が揺れていた。すれ違いざま、先頭の女の人がキーラの槍を見て、「気をつけてな、嬢ちゃん」と片手を上げた。
その背中が見えなくなるまで、キーラは何度も振り返った。
いいなあ、と素直に思った。
何が、と聞かれても説明は難しい。装備でも貫禄でもない、あの四人の間の空気だ。誰かが何か言うたび、誰かが笑って、誰かが茶々を入れて、それでも足並みだけはちっとも乱れない。長く一緒に歩いた人たちの、あの呼吸の合い方。
(……わたしも、いつかああいうふうに誰かと歩くのかな)
想像しようとして、うまくいかなかった。隣を歩く誰かの顔が、まだ白紙だった。白紙のまま、四人ぶんの足音だけが妙にくっきり想像できた。四人……なんでだろう。三人でも五人でもなく、四人の足音だった。
夕暮れどきに、宿場町ミレットに着いた。
街道沿いに宿と酒場と馬屋が並ぶ、こぢんまりした町だった。今夜は、旅に出て初めての宿泊まりになる。野宿は三日が限度だと、体が正直に訴えていた。お風呂に入りたい、屋根の下で眠りたい。
「いらっしゃい。泊まりかい」
宿の主人は、キーラをちらりと値踏みして、言った。
「ひとり部屋なら、夕飯つきで12Øだね」
キーラの足が、止まった。
十二。じゅうに? 半日ぶんの稼ぎが、一晩で?
「……あの、相場より、ちょっとお高くないですか」
「うちはこれだよ。嫌なら野宿だね。今夜は冷えるよぉ」
にやり、と笑う顔に、ぴんときた。ああ、これ知ってる。市場で毎日見てたやつだ。相手が相場を知らないと踏んで、吹っかけてくる顔。
——なめられてる。商人の娘が。
「お部屋、先に見せてもらっていいですか」
「あ? まあ、いいけどよ」
二階の部屋に通されると、キーラは荷物を下ろさずに、ぐるりと部屋を点検した。窓に手をかけると、がた、がたと建て付けが緩んで、隙間風が入る。壁際に寄ると、天井の隅にうっすら滲んだ染み。寝台の縁を押すと軋みがあり、掛け布を撫で継ぎ当てしている。
「窓の立て付けが緩いので、2Ø引き」
指を折りながら、振り返る。
「天井に雨染みがあるので、1Ø引き。寝台が軋むので1Ø引き。……あとこれ、夕飯つきって言いましたけど、階下の匂いからして今夜は豆の煮込みですよね。豆なら仕入れ値を知ってます。2Ø」
「なっ……」
「合計で、素泊まり6Ø、夕飯つけて8Ø。——それなら、今夜と、なんなら明日も泊まります。どうですか?」
主人は口をぱくぱくさせて、それから降参したように頭を掻いた。
「……あんた、どこの店の娘だい」
「ナビアいちばんの食料品店です!」
夕飯は予想通り豆の煮込みだった。しかも、ちょっとだけ肉が多めに入っていた。どうやら、主人なりの詫びらしい。
「嬢ちゃん、ナビアの店の子か」
配膳のついでに、主人が話しかけてきた。値切られた恨みは、もう残っていないらしい。宿屋というのは案外、さっぱりした商売なのかもしれない。
「街道を北へ行くのかい」
「はい。ノルディオの方へ。……あと、明日、ここのギルドに寄ろうと思ってて」
「ほう、冒険者になるのか。なら朝イチで行きな。依頼ってのは早い者勝ちでな、昼にはいいのが残ってねえ」
「! ありがとうございます!」
「あとな」と、主人は声を落とした。
「受付のノーラさんは、愛想は硬えが、腕は確かだ。新入りの世話で、あの人の右に出る者はいねえ。分からんことは全部あの人に聞け」
値切った客に宿の飯の相場を当てられ、それでも翌朝の段取りを教えてくれる。旅とは、こういう人たちの親切の上を、転がっていくものらしかった。
✦ ✦ ✦
食堂の隅で夕飯を食べながら、キーラは財布代わりの小袋と、自分の手首をかわるがわる眺めた。
宿代に、8Ø。昼に買ったパンと干し肉で、2Ø。替えの靴紐で1Ø。歩いているだけで、時間はちゃんと減っていく。食べても減る。寝ても減る。生きているだけで、確実に減る。
家にいたころは、稼ぐそばから家に入れて、家のごはんを食べていたから気づかなかった。旅というのは、貯めた時間をすこしずつ世界と交換していくことなんだ。
(……まだ、余裕はある。ぜんぜんある。けど)
このまま使う一方では、いつか足が止まる。それは切迫というより、算盤の答えみたいに明快な事実だった。そしてキーラは商人の娘なので、算盤の答えには前向きに従うことにしている。
「稼ごう。旅をしながら」
口に出したら、簡単なことだった。
どうやって? 考えるまでもない。町の掲示板で、酒場の壁でもう何度も見かけている。困りごとと報酬が書かれた紙と、それを束ねる組合。
食堂の壁にも貼ってあった。キーラは席を立って、その紙をまじまじと眺めた。
『納屋の屋根の修理、手伝い求む。3Ø』
『市場までの荷運び、荷車あり。6Ø』
『いなくなった猫を探してほしい。白黒ぶち。見つけたら10Ø』
『畑を荒らす魔物の駆除。要相談』
なんというか——思っていたよりずっと普通だった。冒険者というから、竜退治とか宝探しとかが並んでいるのかと思ったら、屋根と、荷運びと、猫。報酬の相場も、頭の中の算盤がすぐ弾いた。屋根の修理が3Øなら日当としては薄め、荷運び6Øは荷車ありなら妥当、猫の10Øは——飼い主の必死さの値段だ。相場に、気持ちが乗っている。
でも、と思う。屋根が直れば誰かが濡れずに眠れて、荷物が届けば誰かの商売が回って、猫が見つかれば誰かが泣きやむ。それって、市場で毎朝やってきたこととそんなに変わらない。
(……あ、これ、わたし向きかも)
すれ違った四人組の背中が、またちらりと頭をよぎった。あの人達も最初は、屋根と荷運びと猫から始めたんだろうか。
「せっかく旅に出たんだから——冒険者登録して、ヒトの困りごとを解決しながら稼ぐ!」
隣の席のおじさんが、びくっとした。すみません、と小さく謝って、キーラは残りの豆を掻き込んだ。明日の朝いちばんで、ギルドの扉を叩こう。そうと決めたら、豆の煮込みは急に景気づけの味になった。
✦ ✦ ✦
……と、威勢がよかったのは、そこまでだった。
夜、部屋に戻って、荷物の整理を終えてから寝台に腰を下ろすと——ふいに静かだった。
がた、と窓が鳴る。遠くで誰かの笑い声。階下の食器の音。どれも、ナビアの実家では知らない音だった。
家なら、この時間は。
お母さんが明日の仕込みの豆を数えていて、お父さんが帳簿をつけながら舟を漕いでいて、キーラが「寝なよ」と言って、「うるせえ」と返ってくる。あの、なんでもない音の中にいた。
「…………」
寂しい、とはちょっと違う。後悔でもない。ただ、静かすぎるだけ。
キーラは、荷物から堅焼き菓子をひとつ出して齧った。お母さんに叩き込まれた配合の、あの味がした。
それから思い立って、旅の荷に入れてきた紙を一枚広げた。手紙だ。旅の初めに決めたのだ。町に着くたび、家に一枚。書くことは、たくさんあるはずだった。あるはずなのにペンを持つと、出てくる言葉は妙に短かった。
『おとうさん、おかあさんへ。元気です。歩き疲れて足が痛いけど、もう平気。旅の途中、魔物のロールシードに挨拶しました。宿代は6Ø引けました。豆の仕入れ値、覚えてて役に立ったよ。ごはん、ちゃんと食べてます。キーラ』
読み返して、われながら市場の伝言板みたいな手紙だと思った。それでもいい。お母さんは行間を読む名人だし、お父さんは「6Ø引けた」の一行だけで三日は自慢するに決まっている。
それから枕元に、リンゴを置いた。まだ食べていない、あの一個。つやつやの赤い皮に、ランプの灯りが小さく映っている。
「……見ててくださいね、ラースさん。わたし、ちゃんとやるので」
リンゴは答えなかったけれど、なんとなく機嫌はよさそうに見えた。
灯りを消して、目を閉じる。窓の外を、夜の風が通っていくのが聞こえた。
楽しくて、心細くて、静かすぎる初めてのひとり旅の夜は——それでも気づけば、朝までぐっすりだった。
✦ ✦ ✦
翌朝。ミレットのギルド出張所の扉には、こう書かれていた。
『冒険者組合ミレット支所 仮登録・依頼受付はこちら』
キーラは深呼吸をひとつして髪飾りの位置を直し、その扉を勢いよく開けた。