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CHAPTER I 第7話 旅立ちの追い風
Ourhour-Traveler

第7話 旅立ちの追い風

第一章 導きの星 編

翌朝、目を覚ますと家の中がやけに静かだった。

階段を下りると、台所にお母さん、店先にお父さんがいた。ふたりとも、なんとなくキーラと目を合わせなかった。

客間の戸は、開いていた。

きちんと畳まれた毛布に、塵ひとつない床。ゆうべまで確かに誰かがいた部屋は、もうずっと前から空き部屋だったような顔をしていた。

「——北の門だ」

お父さんが、ぼそりと言った。

「さっき出てった。……止める筋合いも、なかったからな」

気づいたら、走り出していた。

朝の市場通りを抜け、坂を駆け上がると息が切れた。門番が何か言ったけれど、聞こえなかった。門の外、街道のずっと先——白い髪が、朝の光の中を歩いていた。

「ラースさん!!」

旅人は、足を止めて振り返った。急ぐでもなく、驚くでもなく。まるでキーラが来ることを、知っていたみたいに。

「やあ。おはよう」

「お、おはようございます、じゃなくて……! い、行っちゃうんですか。誰にも言わないで」

「言うと、引き止められるからね。ボク、ああいうのに弱いの」

「せめて、朝ごはんくらい……」

「昨日いっぱい食べた」

会話が続かなかった。

言いたいことは山ほどあった。ありがとうも、まだ聞きたい話も、教わりたいことも……。それなのに、どれから口に出せばいいのか分からなくて、キーラはただ旅人の顔を見上げていた。

ラースは、そんなキーラの目をじっと見た。

「あの……っ。また、会えますか」

口から出たのは、結局いちばん子どもっぽい言葉だった。ラースは答えるかわりに、少しだけ首を傾げた。

「ボクはね、キーラ。約束って、あんまりしないんだ」

「……どうして、ですか」

「長旅の癖。……でも」

ラースはそこで言葉を選ぶように、間を置いた。

「——君は、いい目をしている」

風が、二人のあいだを通り抜けた。

「魔法の才能より、槍の筋より、それがいちばんの拾いものだった。いい目をしていると、いいものの方から寄ってくるようになる。……それは、たぶん、そのままにしておかないほうがいい」

それからラースはキーラの手を取って、何かをそっと握らせた。つやつやの、赤いリンゴがひとつ。昨夜、「これは口に合った」と言って、最後まで食べずに取っておいた、あの一個だった。

「もらってばっかりだったから。ひとつ、返しておく」

「……こんなの、返したうちに入りません」

「入るよ…ボクの中では、かなり。ちなみにボクみたいな、ひょっと出てきてひょっと去っていく旅人のことは、昔の言葉で『トラベラー』とも言うらしいよ。」

キーラは聞き馴染みのない言葉に、きょとんとした。

「とらべらー?」

するとラースは少しだけ笑って、それからこう言った。

「……もしかしたら、またどこかで会うかもね」

それだけ残して、旅人は歩き出した。

振り返らなかった。白い髪が朝日に透けて、外套の裾が風に揺れて、その姿はゆっくりと、街道の先へ小さくなっていった。

キーラは追いかけて、何か言おうとして——何も言えなかった。

手の中で、リンゴだけがずっしりと確かだった。

✦ ✦ ✦

その夜は、眠れなかった。

海賊騒ぎの夜とも、宴の夜とも違う眠れなさだった。

目を閉じると、瞼の裏でいろんなものが回った。舞うように戦う人、緑色に暮れる空、名前のない魔物、十二粒の種、酒場の隅の静かな声、——君は、いい目をしている。

キーラは寝台に起き上がって、右腕の袖をまくった。

手首の内側で、結晶が光っていた。

青白く澄んだ光。まだたっぷりと残っている、わたしの時間。成星式の日に動き出して、それから二年、店を手伝って、ごはんを食べて、眠って、笑って——それで確かに、幸せだった時間。

(この光を……この時間を、わたしは、何に使うんだろう)

ずっと、店を継ぐのだと思っていた。それが嫌だったことは一度もない。市場の朝は好きだ。呼び込みも、値切り合戦も、常連さんの顔もぜんぶ好きだ。あの店で年を取っていく自分を、疑ったことがなかった。

でも——知ってしまった。

丘の向こうに道が続いていることを。空の色が違う土地があることを。名前のない魔物が、誰にも見つからずに生きていることを。そして自分の突きが、風を纏って誰かを守れることを。

知らないままなら幸せだった。しかし知ってしまったら、もう知らないふりの方が難しい。

商人は、時間の値打ちを知っている。お父さんにそう教わって育った。1時間は1Ø。汗の分だけ重くなる。だからこそ思ってしまった。

同じ一時間なら。同じ一年なら。

——わたしは、世界を見るのに使いたい。

枕元のリーリアの髪飾りに、指先で触れた。ねえ、リーリア。あなたが今のわたしを見たら、怒るかな。それとも——たぶん怒ってから、笑って背中を叩くんだろうな。あなたはそういう子だから。

窓の外で、夜の海が鳴っていた。手の中のリンゴはまだ食べられずに、枕元に置いてあった。

✦ ✦ ✦

翌朝、キーラは朝食の席で箸を置いて、頭を下げた。

「お願いがあります」

お父さんとお母さんが、顔を上げる。

「わたし——旅に、出たいです。わたしの時間を、思いっきり使って、色んなものを見てきたい。世界がどれだけ広いのか、この目で確かめたいんです」

言ってしまってから、心臓がうるさかった。言った後の沈黙が、長いのか短いのか分からなかった。

先に音を立てたのは、お母さんだった。椅子を引いて、立ち上がって、台所へ行って——戻ってきたときには、目が真っ赤だった。

「……知ってたわよ、そんなの」

涙声で、怒ったように言った。

「あの人が来た日から、あなた、ずっとそういう目をしてたもの」

お父さんは腕を組んで、長いあいだ黙っていた。それから、ふうと大きく息を吐いて笑った。

「商人の娘だ」

いつもの、市場で聞く声だった。

「世界の値打ちってやつを、見てこい」

✦ ✦ ✦

出発までの一週間は、あっという間だった。

お父さんは物置の奥から、古い革の旅嚢を引っ張り出してきた。若いころ、行商で国じゅうを回ったときの相棒だという。油を塗り直すと、革は見違えるほど深い色になった。

お母さんは台所にキーラを立たせて、堅焼き菓子の作り方を叩き込んだ。日持ちがして、腹にたまって、鍋ひとつで焼ける。「レシピは嫁入り道具の代わりよ」と言うから、「旅入り道具ね」と返したら、また少し泣かれた。

古槍の穂先は、研ぎ屋で研ぎ直してもらった。研ぎ屋のおじさんは、欠けた穂先を撫でて「よく働いた槍だ」と言い、それから「防犯用にしとくには、もったいなくなったな」と笑った。

地図を買い、保存食を詰め、リーリアの髪飾りを鏡の前で結び直した。

ルカには、出発の二日前に打ち明けた。新成人はしばらく黙って、それから「……姉ちゃん、ずるいよなあ」と言った。

「おれ、大人になったばっかりでさ。店があるから、どこにも行けないのに」

「ごめん」

「謝るなよ。……行けよ。行って、見て来いよ。それで色々、また話を聞かせてくれ。」

「うん。」

サリおばあちゃんには、朝いちばんの魚を二匹、最後におまけした。おばあちゃんは何も聞かずに、「達者でね、嬢ちゃん」とだけ言った。たぶん、ぜんぶ分かっていた。

そして、出発の朝。

北の門の前には、思ったよりたくさんの人がいた。

「ほら、堅焼き。焼きたてを持ってきな」と籠を押しつけてくるルカ。「嬢ちゃん、達者でな」と手を握ってくるサリおばあちゃん。額の傷がまだ痛々しい、あの若い隊員まで、勤務の合間に敬礼をしに来てくれた。

お母さんは案の定泣いていて、抱きしめる腕の力は、海賊の日の倉庫と同じくらい強かった。それから焼きたての堅焼き菓子の包みを、荷物の上からもうひとつ、押し込んできた。

「持ったってば、お母さん。レシピも覚えたし」

「焼きたては別なの。いい? 困ったら帰ってきなさい。帰ってこなくても、手紙。手紙が無理でも、生きてなさい」

「順番おかしいよ、それ」

お父さんは案の定、何も言わずにキーラの頭をくしゃくしゃにした。

——ただ、あとになって旅嚢の底から、油紙に包まれた時元コインが数枚、出てきた。包みの内側に、父の字で一言。『値切られるな』。

「行ってきます!」

手を振って、歩き出す。

坂を上りきったところで、キーラは一度だけ振り返った。

朝日の中のナビアが見えた。市場の屋根、教会の塔、桟橋と、青い海。柵のところで、まだみんなが手を振っている。生まれてから十七年ぶんの、ぜんぶがそこにあった。

キーラは、胸にそっと手を当てた。

大丈夫、ちゃんとここにある。持っていける。

前へ向き直ると、街道はまっすぐ丘の向こうへ伸びていた。海からの風が、背中を、とん、と押した。

——世界は広いよ、と誰かが言った気がした。

その追い風に乗って、キーラは最初の一歩を踏み出した。

皆さんからいただいた時間 12.33Ø
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