朝、掲示板へ向かったキーラを待っていたのは、閉まった扉だった。
組合の出張所が、閉まっている。隣のパン屋も、閉まっている。向かいの雑貨屋も、金物屋も、通りじゅうの店が示し合わせたように閉まっている。
「え……なに? お祭り? それとも何かあった……?」
きょろきょろしていると、通りかかったおばさんが、くすくす笑った。
「あんた、旅の子だね。——今日は星曜日だよ」
あ、と声が出た。
星曜日。六日ある曜日のいちばん最後、神さまを仰ぐための休みの日。ナビアでは、成星式と被った星曜日では、商売魂たくましいお店によって活気づいていたが、世間一般的には休息日だということを忘れていた。また、旅に出てから日にちの感覚が溶けて、曜日を数えるのをすっかり忘れていた。
「時曜日は己のために、星曜日は神のために休む——ってね。旅人さんも、今日はお休み、お休み」
おばさんはそう言って、教会のほうへ歩いていった。通りの向こうから、朝の鐘が鳴りはじめる。祭りの鐘とも半鐘とも違う、ゆったりした休みの日の鐘だった。
✦ ✦ ✦
やることがないというのは、旅に出て初めての経験だった。
依頼は受けられない。店は開かない。出発しようにも、こんな日に発つと「罰当たりだよ」と宿の主人に苦笑いされた。
最初の三十分は、正直そわそわした。歩いていない自分。稼いでいない自分。時間は、こうしている今もちゃんと減っている。減っているのに、何もしない。それって、いいんだろうか——と、噴水のふちで膝を抱えかけたところで、司式者の言葉を思い出した。良く休むことも、御礼のうち。
(そっか。休むのも、時間の使い方なんだ。使ってないんじゃなくて)
帳簿の項目がひとつ増えた気分だった。支出でも収入でもない、「休息」の欄。お母さんの帳簿には、あっただろうか。今度の手紙で聞いてみよう。
しかたがないので、キーラは鐘の音についていって教会を覗いてみた。
ノルディオの教会は、石造りの、こぢんまりした建物だった。中では礼拝の真っ最中で、白服の司式者の穏やかな声が、天井に反響していた。並んだ町の人たちの右腕の袖が、みんなまくられている。手首の結晶を、祭壇の星の紋のほうへ軽くかざす姿勢。
——ああ、そうか。時間のお礼をしてるんだ。
神さまの最後の贈り物。サンドおばあさんの昔話が、耳の奥でよみがえった。この一週間ぶんの時間をありがとうございました、来週のぶんもよろしくお願いします。祈りの言葉は聞き取れなかったけれど、たぶんそういうことを言っているのだと思った。
司式者の声が、祈りの結びを唱えていた。
「——授かりし時間を、良く使い、良く分かち、良く休むこと。それが星々への、なによりの御礼にございます」
良く使い、良く分かち、良く休む。お説教というものは長くて退屈だと思っていたけれど、この一言はすとんと胸に入った。使うのと分かつのは、旅に出てから毎日やっている。でも、休むのだけはやっていなかった。
キーラもいちばん後ろの席で袖をまくって、見よう見まねでやってみた。
青白い結晶が、ステンドグラスの光を映してチラチラと光った。
隣の席のおじいさんがこちらを見て、姿勢を小声で直してくれた。「腕は、もっと楽に。神さんは、姿勢の点数はつけなさらん」。ありがとうございます、と小声で返す。よその町の礼拝によその子がまざっても、誰も咎めない。この宗教のこういう風通しの良さを、キーラは今日はじめて良いなと思った。
(今週も、いろいろありました。狼とか。風車とか)
(来週も、よろしくお願いします)
(あと……サンドおばあさんの祠の神様と、おんなじ神様なら、あの祠の雨漏り、ちょっと見てあげてください。おばあさん、ひとりで直してるので)
お祈りの内容が細かいのではと自分でも思ったけれど、商人の娘のお祈りなので具体的なのである。
✦ ✦ ✦
礼拝が終わると、町は一変した。
教会前の広場に、ぽつぽつと露店が立ちはじめたのだ。店じまいの札を下げていた店主たちが、こんどは屋台の売り子になって現れる。焼き菓子、串焼き、果実水、古着に小物。
「え!? お店、休みなんじゃ……」
「商いは休み。市は別さね」
串焼き屋のおじさんが、当然のように言った。
「星曜の市は、神さまの前でやる分かち合いだからね。ま、屁理屈さ。屁理屈だが、いい屁理屈だろう?」
星曜市は、普段の市場と空気が違った。平日の活気づいた空気とは違い、穏やかな時間が流れているように感じる。子どもが駆け回り、年寄りが日なたで茶を飲み、教会の鐘がときどき思い出したように鳴る。
キーラは串焼きを一本買って、広場の噴水の縁に腰かけてゆっくり食べた。
隣に座っていたおばあさんが、話しかけてきた。先日に風車で遊んだ子どもの、おばあちゃんだという。
「孫がねえ、『風のねーちゃん』の話ばっかりするんだよ」
「あはは……お騒がせしてます」
「いいや、いいや。あの子、風車が回るたんびに笑ってたって。……旅の人が置いてくのはね、だいたい、そういうもんさ。物じゃなくて」
物じゃなくて。じゃあ、何を置いていったんだろう。聞きそびれたけれど、悪いものではなさそうだった。
と思っていたら、当の子どもたちが噴水の向こうから駆けてきた。例の、風車の面々である。
「風のねーちゃん、みっけ!!」
「あ、昨日の! おはよ!」
「ねーちゃん、これ!」
差し出されたのは、色紙の風車だった。ただし、昨日のどれとも違う。羽根が不揃いで、軸の棒が曲がっていて、握りのところに下手くそな星がひとつ描いてある。
「おれたちで、作った。ねーちゃんの」
「旅、持ってって。歩けば回るから、風がなくても回るから」
「……!」
歩けば回る。なんて、いい設計だろう。キーラは風車を受け取って、荷物の紐のいちばん目立つところにくくりつけた。即決だった。
「一生もんにする!!」
「おおげさ〜」
子どもたちはけらけら笑って、市の雑踏に駆け戻っていった。荷物の上で不揃いの羽根が、カラ……と小さく鳴った。旅の人が置いていくのが物じゃないなら、旅の人がもらっていくのも、たぶん物のかたちをした、物じゃないものだった。
急がない一日は、旅に出てから初めてだった。
歩かない。稼がない。値切らない。ただ町の休日の真ん中で、串焼きを食べている。それだけのことが、妙に贅沢だった。
(お父さんたちも、今ごろ休んでるのかな。星曜日だし)
ナビアの星曜日を思い出す。成星式がない日は、店を閉めて三人で遅い朝ごはんを食べる。その後、お父さんは昼寝、お母さんは繕い物、キーラは浜で貝拾い。なんでもない、あの一日。
旅に出てみて分かった。なんでもない日というのは、どうやら世界のどこにでも同じ顔で転がっているらしい。
市をひと回りして、小さな買い物をひとつだけした。槍の手入れ用の研ぎ石。売り手のおじさんは星曜市の流儀で、おまけに油布を一枚つけてくれた。
隣の小間物屋の台で、花の飾りものに一瞬目が留まった。リーリアの髪飾りに少しだけ似ていた。手に取ってしばらく眺め、——買わずに戻した。
似ているものは、いらないのだ。本物がもう頭の上にあるから。
(元気にしてるかな、リーリア。……旅の途中でリーリアの街に行くことがあったら、また一緒に遊びたいな。また今度、手紙を書かなくちゃ)
広場の鐘が、昼を告げた。休みの日の鐘は、時間を急かさない。ただ、いま何時かだけをそっと教えて、余韻ごと空に溶けていった。
✦ ✦ ✦
翌朝——時計がひと回りして、週の頭の聖曜日——キーラはノルディオを発った。
聖曜日の街道は混んでいた。休み明けの荷馬車が、堰を切ったように行き交う。すれ違う御者たちの「いい天気で」も、心なしか威勢がいい。休んだ次の日の世界は、油を差した歯車みたいによく回る。良く休むこと、その司式者の言葉は、街道の上でもちゃんと本当だった。
道中、荷物の風車は、宣言どおり歩くたびに回った。カラ、カラ、カラ……。曲がった軸の音が、歩調の伴奏になる。単調な一本道が、今日はちっとも退屈じゃなかった。
北東へ丸一日歩くと、次の町に着いた。
アルメリオという交易町で、市場の規模はナビアより一回りも大きかった。石造りの倉庫が並び、荷馬車がひっきりなしに行き交って、呼び込みの声が幾重にも重なる。キーラはしばらく、商人の娘の目で市場を見物して回った。
市場の目利き歩きは、半分癖である。塩の樽の産地。反物の染めの流行。呼び込みの上手い店と、品はいいのに呼び込みの下手な店……には、手伝いたくてうずうずした。それから、市場の空気そのもの。交易町の市場は、ナビアの浜の市場より声が硬い。顔なじみの商いと、一見の商いの違いだ。どっちがいいという話ではなく、味の違いだった。
(お父さんなら、ここでもやってけるかな。……やってけるな、絶対。三日で倉庫のおじさんたちと呑み友達になってるやつだ)
まずは腹ごしらえと食堂に入って、名物だという川魚の揚げたのを頼んで、かぶりついたときだった。
隣の席の話し声が、耳に入った。
「——そういやあんた、見たかい。銀髪の女の子」
「ああ、路地のほうでガラの悪い連中に絡まれてたって話だろ。三人組のさ」
「まだ子どもみたいな娘さんだったって話じゃないか。物騒だねえ」
「誰か助けに入ったのかい」
「さあね。関わり合いになりたかないって、みんな遠巻きさ」
がたん、と椅子が鳴った。
考えるより先に、体が立っていた。みんな遠巻き。なら、まだ誰も行っていない。銀髪の女の子。ガラの悪いの、三人、路地。情報は、三つで十分だった。
キーラは立ち上がっていた。パンを口に咥え、揚げ魚の最後のひと切れを掴み、荷物を肩に引っかける。
「——ごちそうさま!!」
言うが早いか、キーラは食堂を飛び出した。
路地は、どっちだ。
——第1章・完