アルメリオに寄ったのは、紙とペンを買い足すためだった。
旅に出て少し、記録の量は予定をかなり超過していた。もちろん、紙の消費もそれに比例する。書くことが多いのは良い旅の証拠である——と、記録帳の冒頭に自分で書いた定義に従えば、この旅は今のところ良い旅だった。目的の本には、まだ一冊も辿り着けていないことを別にすれば。
交易町だけあって品揃えはいい。ただし人が多い、多すぎる。市場の雑踏を抜けるだけで、プシュケの体力は目に見えて削られた。人混みは苦手だ。声が大きい人も、距離が近い人も、袖が触れるのも。
塔の書庫は静かだった。紙をめくる音と、ペンの音と、椅子の軋みだけで一日が組み立てられていた。あの静けさを基準に育った耳に、交易町の昼は音の洪水だった。それでも、外に出ると決めたのは自分だ。本の少し外側にしかないものを探しに来たのだから、世界の音量に慣れる必要がある。
午前中いっぱいかけて紙とペンとインクを買い、ついでに本屋を三軒回った。
一軒目は、本屋というより紙屋だった。帳簿用の白紙と暦ばかりで、書物は棚半分。二軒目は品はあったが、薬草図譜は三十年前の版だった。三軒目の店主は、プシュケの探書一覧を見るなり、笑って手を振った。
「嬢ちゃん、うちに置いてるわけないよ、そんな上等なの。学者町のリブロンなら置いてるよ」
三軒とも結論は同じだった。交易の町は物は豊富でも、本の質はいまひとつらしい。物流と知識は、集まる場所が違うのだ。記録帳の「次の目的地」の欄に、『リブロン』と書き足した。
(リブロン。……次は、そこですね)
昼を回って、宿へ戻ろうとした。大通りの雑踏に少しうんざりして、一本裏の静かな路地を選んだ。合理的な判断だった、と今でも思う。
その路地に、たちの悪いのが三人いたことを除けば。
「——嬢ちゃん、ひとりかい」
前をふさがれた。振り向くと、後ろにも一人、壁際にもう一人。手際だけは悪くなかった。
「いいなりしてるじゃねえの。その髪飾り、高そうだなあ」
「絹の服だぜ。どっかのお貴族サマかね」
「ちょっと顔貸しなよ。なあ?」
プシュケは溜めめ息をついた。
まさかこんなところで悪い人に絡まれるとは。
確かに大きい街ではあるし、王都が特段治安が良すぎるだけで……注意が欠けていた。
どうしようかと悩んでいると、後ろからヒソヒソと声が聞こえてきた。
「まだ子供じゃないか、物騒だねぇ……。」
「ちょっと、目を合わせない方がいいよ!」
どうやら通りすがりの何人かは気付いているようだが、トラブルに巻き込まれまいと関わろうとはしない。
すると、何も返答しないプシュケにしびれを切らしたのか、再度要求してきた。
「で、どうすんだい嬢ちゃん!」
「今なら身ぐるみ剥ぐだけで勘弁してやるぜ?」
その様子に心の中でため息をつき、軽く意識を集中して魔法を発動させた。
(あまりむやみに、人に使うものではないですが……——薄氷)
すると男たちの足元が冷気に覆われ、みるみるうちに地面から膝下まで薄い氷が張られた。
本詠唱はしなかった。この程度の相手に、寿命を上乗せしてまで純度を高める必要がない。
——困っているのは、そこから先だった。
(……この人たち、どうしましょう)
凍らせたはいいけれど、衛兵の詰所の場所をまだ知らない。人を呼びに行けば、その間に氷が溶けるかもしれない。かといって溶けないように維持し続けるのは、時間がもったいない。本にはこういうとき、どうすればいいか書いていなかった。実践はいつも本の少し外側にある。
男たちはといえば、まだ状況が分かっていないらしく、
「お、おい、なんだこれ、足が」
「ひっ……ゆ、指が、冷てえ……!!」
と、今ごろになって騒ぎはじめていた。反応が遅い。
「動かないほうが、いいです」と、プシュケは親切のつもりで言った。「無理に抜くと、皮膚ごと、持っていかれます」
「ひいいっ」
さて、どうしたものか。プシュケが真剣に思案しはじめた——そのとき
路地の入り口から、ものすごい勢いで誰かが駆け込んできた。
「その子から離れてくださいっっ!!」
金髪の女の子だった。なぜかパンを咥えていて、なぜか片手に揚げた魚を掴んでいて、もう片方の手には古びた槍。彼女は魚をパンごと呑み込むと、槍を構えた。その穂先に、ひゅるり、と風が集まっていく。
(——風の魔法。詠唱なし。属性持ちの人……それに、あの構え)
我流だ。型は崩れている。なのに、切っ先がぶれない。実戦で身についた構えだと、ひと目で分かった。
「悪いことは言いません、いますぐその子を——」
女の子は、そこで止まった。
男たちを見て、男たちの足元を見て、そして膝まで凍った立派な氷を見た。
「…………あれ?」
「た、助けてくれ!」と男のひとりが叫んだ。「氷が! この嬢ちゃんが! 俺たちなんもしてねえのに!」
「路地に連れ込もうとは、しました」と、プシュケは訂正した。
女の子は、男たちとプシュケの顔を、二回、三回と見比べて——それから槍を下ろし、なんとも言えない顔になった。
「……えっと。助け、いらなかった?」
「……はい。必要、ありませんでしたが」
「え、あ、うん……ごめん??」
なぜ謝るんだろう、とプシュケは思った。変な人だ。
✦ ✦ ✦
男たちの処理は、思ったより簡単に片付いた。
金髪の女の子が、プシュケが半日かけても本屋の場所しか聞けなかった町で、衛兵の詰所の場所を通行人にてきぱき聞いてくれた。詰所まで並んで歩くあいだも、女の子はよく喋った。
「氷の魔法って、あれ、何級なの!? 足元だけ狙うのすごくない!?」
「薄氷は、一級の魔法です……が、一応四級まで使えます」
「四級!?」
女の子の足が、止まった。
「四級って、あれでしょ、学者さんよりスゴイって呼ばれる人の……えっ、待って、あなたっていくつ?」
「十五、です」
「じゅうご」
しばらく絶句してから、女の子は「世界って広いなあ……」と、しみじみ言った。反応が正直な人だ、とプシュケは思った。王都でこの話をすると、返ってくるのは決まって「さすがダイヤスト家」だった。家名抜きで驚かれたのは、考えてみれば初めてかもしれない。
呼ばれた衛兵に、プシュケは淡々と事実を述べた。
「路地に連れ込まれそうになったので、凍らせました。膝までです。命に別状はありません。溶けるまで、およそ三十分かと」
「は、はあ……」
「引き渡します。あとの手続きは、お任せしても?」
衛兵は、凍った三人と小柄な銀髪の少女を何度も見比べて、最終的に「王都の魔導師は皆さんお強いですなあ」という、雑なまとめで受け取ってくれた。
氷の三人組が引きずられていくとき、金髪の女の子は男たちに向かって、腰に手を当てて言った。
「反省してくださいね! 次はわたしが来る前に、もっと凍りますよ!」
脅し文句として正しいのかどうか、よく分からなかった。でも男たちは「へい……」と項垂れていたので、効いたらしい。
「わたし、キーラ! ナビアから来ました。旅の途中なの」
女の子——キーラはそう言って、ずい、と一歩近づいてきた。
その距離の近さに、プシュケは半歩だけ下がった。
「……ダイヤスト・プシュケと、申します」
「プシュケ……えっと、じゃあプシュケさん? 怪我、ほんとにない? あ、髪飾りずれてる。直そっか?」
「じ、自分で、できますので」
もう半歩下がった。この後ろに下がった距離を、キーラはたぶん気づいてもいない。
「あの。助けていただこうとしたことには、お礼を申し上げます。……その、パンとお魚を、放り出してまで」
「あー! わたしのお昼!!」
いま思い出したらしい。この人は、見ず知らずの誰かのために、考えるより先に体が動く人で、そのぶん、いろいろなものを路上に置き忘れる人らしかった。
そのとき——ぐう、と。
とても小さく、けれどはっきりと、音が鳴った。プシュケのお腹から、だった。そういえば、本屋を三軒回って昼食がまだだった。
沈黙。
「……いまのは」
「聞きました」
「聞かなかったことに、してください」
「できません。——ね、ごはん行こ! この先の食堂、川魚がおいしいの。お昼を放り出した者同士!」
同士、という括り方には異議があったが、空腹には抗えなかった。
✦ ✦ ✦
食堂の川魚は、確かにおいしかった。
キーラは二皿目を頼み、プシュケの一皿目の進みが遅いのを見て、「おいしくない?」と首を傾げ、「いえ。おいしいです。わたしは、食べるのが、遅いだけです」の答えに「そっか! じゃあゆっくりね!」と即座に引いた。距離は近いのに、引き際だけは妙に正確な人だった。
「プシュケさんは、どこ行くの? 旅」
「……リブロン、という学者町へ。探している本が、あります」
「本かあ! どんな本?」
「……古い、魔法の本、です」
嘘ではない。全部でもない。初対面の相手への開示は、この深さまで——と、線を引いたつもりだった。キーラはそれ以上掘らず、かわりに自分の話をした。ナビアの市場のこと、海賊のこと、風車のこと。相手の閉じた抽斗はそのままに、自分の抽斗だけ全部開ける。そういう話し方をする人を、プシュケは初めて見た。
「——それでね、ワーウルフが六匹! でもマーサさんが薪を投げて」
「薪を」
「そう、薪! ぶんって!」
身振りつきの旅の話は、書物のどの紀行文とも文体が違った。正確さでは、紀行文が勝る。でも温度では——と、そこまで考えて、プシュケは自分が皿の魚を食べ終えていたことに気づいた。人の話を聞きながら食事を終えられたのは、家族以外では初めてだった。
「ごちそうさまでした。……あの、キーラさん」
「ん?」
「お昼のお代は、わたしが。……助けに、来てくださったので」
「え、いいよいいよ! 結果、助けてないし!」
「来てくださったことに、意味があります。結果とは、別に」
会計は少しだけ押し問答になり、最終的に割り勘で妥結した。店を出ると、午後の日差しが路地の入り口まで届いていて、交易町の音の洪水が、少しだけさっきより聞きやすくなっていた。
(……不思議な人。うるさいのに、疲れない)