遅めの昼食を終えた後、二人は歩きながら会話を続けていた。
その時キーラは、旅を始めるきっかけになった白い髪の旅人の話をした。その旅人に見せてもらった世界が忘れられなくて、旅に出たこと。行き先は、特に決めていないこと。
「……その旅人の方は、只者では、ないですね」
「でしょ!? もう、ほんとにすごかったの。舞うみたいに戦うんだよ」
海賊の頭領を制圧する実力。全ての武器を扱う技術。詠唱もなしに他人の潜在能力を引き出す魔法——そんな魔法、どの理論書にも載っていない。
気になる、非常に気になる。でも今は、目の前の話が先だった。
「それで、プシュケさんはどこへ行く途中なの?」
返答に、少し迷った。
初対面の人に話すことじゃない。でも、隠すことでもない。それに——この人はさっき、見ず知らずのわたしのために、食事を放り出して走ってきた人だ。
「……探しものを、しています」
「探しもの」
「華、です。あらゆる病を治す、と言い伝えられている華。永久氷星華——キュラリア、という名前です」
キーラはそれを聞いて、笑わなかった。おとぎ話だと言って流しもしなかった。ただまっすぐにプシュケを見て、聞いた。
「誰か、治したい人がいるんだね」
「…………母、です」
自分でも驚くくらい、するりと言葉が出て、出てから自分で驚いた。この開示は線の内側のはずだった。線を越えさせたのは質問の形だ。「なんの花?」でも「本当にあるの?」でもなく、花の先にいる人をまっすぐ聞いてきた。この人の質問は、いつも物より先に人に届く。
「母は、珍しい病気で。いまは……眠っています。ずっと。だからわたしは、その華を探して、王国を出ました」
「キュラリアって、どんな花なの? 色とか、形とか」
「……分かりません」
「え」
「絵が、残っていないんです。古い本に、名前と、効能と、断片の言い伝えだけ。氷のように咲く、と書いた本と、光のように咲く、と書いた本があって、両方を信じるなら、氷のように光る花、ということになりますが……見た人の記録が、そもそも」
「じゃあ、見つけたら世界初かもしれないんだ」
プシュケは、歩く足を一瞬止めた。
ないない尽くしの話を、そういうふうに言い換えた人は初めてだった。絵がない、記録がない、偽物の掴みようもない。だから見つけたら、それが世界で最初の一枚になる。
「……そういう、考え方も、あるんですね」
「商人の娘なので。ないものは、高く売れるの」
「売りません」
「例えだよ!?」
九年キュラリアを探してきて、その間にこの話を人にしたのは、数えるほどしかない。返ってくる反応は、三種類に分類できた。憐れみ、おとぎ話への苦笑、家名への忖度。
『見つけたら世界初』は、記録表になかった。四つ目の欄を、心の記録帳に作る必要がある。
それからキーラはふと、遠くを見る目になった。
「探しもの、かあ。……そういえば、ラースさんも言ってたんだ。なんのために旅してるのって聞いたら、『探しものかな』って」
「例の、白い髪の旅人さん、ですか」
「うん。何を探してるのかは、教えてくれなかったけど」
キーラは胸に手を置いて、こう続けた。
「世界ってさ、もしかして、探しものをしてる人でいっぱいなのかな」
「……かも、しれません」
だとしたら、とプシュケは思った。探しものの旅の途中で、探しもの同士が出会うのは——そんなに、珍しいことではないのかもしれない。今日みたいに。
キーラは、しばらく黙って歩いていた。同情の言葉を探している沈黙とは、違う気がした。もっと、なにかを決めるための沈黙に見えた。
「ねえ、プシュケさん。……華を探すなら、道は同じだよ」
え、とプシュケは顔を上げた。
「手がかりを探して回るんでしょ? わたしは世界を見て回るの。行く先々でいろんな場所に寄って、いろんな人に会って——ほら、同じ。……ねぇ、一緒に旅、どうかな?」
プシュケは、すぐには答えられなかった。
五秒——きっちり五秒、黙っていたと思う。
(初対面、です。今日、会ったばかりの人です。素性も、実力も、ほとんど知りません。合理的に考えれば、即答するべきでは——)
理屈はそう言っていた。でも、
初対面でこんなに素直に話せた人は、はじめてだった。母のことをこんなに簡単に口に出せたことも。この人の隣は、どうしてか風通しがいいのに寒くない。
(……この人となら。一緒に旅をしても、いいかもしれない、です)
「……はい」
声が、ちょっとだけ小さくなった。
「よろしく、お願いします」
キーラの顔が、ぱっと明るくなった。夕焼けみたいな笑い方をする人だな、とプシュケは思った。
✦ ✦ ✦
宿泊先の分かれ道までは、市場の大通りを抜けることになった。
夕方の市は、朝よりも人が多い。売り切りたい店と、買い忘れた客が、通りの真ん中でぶつかり合う時間だ。プシュケは無意識に肩をすぼめた。声の大きい人。距離の近い人。袖の触れる人。この通りは、苦手なものの見本市だった。
ところが歩いてみると、思ったより削られなかった。
なぜだろう、と数歩ぶん考えて分かった。隣のキーラが、いつのまにか人波の側を歩いている。ぶつかりそうな酔客の肩を半歩でよけ、突き出される試食の串を「わ、おいしそう! でも今日は大丈夫!」と笑顔のまま受け流し、呼び込みの威勢には呼び込みの倍の元気で手を振り返して、それでいて足は一度も止まらない。プシュケの側には、人がほとんど来なかった。来る前に、隣で何かが済んでいる。
(……この人の隣は、なんだか——)
なんだか、の続きがうまく言葉にならなかった。歩きやすい? 静か? どれも少しずつ違う。分類できない事象を無理に分類すると、記録の質が落ちる。プシュケは心の記録帳の欄外に『保留』とだけ書いておいた。
「あ、そうだ」
それぞれの宿泊先の分かれ道についたところで、キーラがくるりと振り向いた。
「プシュケちゃんって、呼んでいい?」
プシュケは、また少しだけ黙った。
ちゃん。ちゃん付けで呼ばれたことは、ほとんどない。貴族の子女としては、いささかどうかと思う、思うのだけれど。
「…………お好きに、どうぞ」
「じゃあプシュケちゃん! 明日の朝、東の門で待ち合わせね!」
ぶんぶんと手を振って宿へ歩いていく背中を見送りながら、プシュケは自分の口元がほんの少しだけ緩んでいることに——気づかないふりをした。
宿への帰り道、ひとりに戻った路地で、プシュケは今日という日を、頭の中で振り返った。
朝の時点では、紙とペンの購入、本屋の調査、宿で写本の整理を予定していたが、全ては達成出来なかった。
(計画の乱れは、本来よくないです。……でも)
でも今日の乱れは、悪くない乱れだった。
九年間、プシュケの計画は一人分の大きさで組まれてきた。
明日からは、二人分。歩幅も、食事の量も、宿の部屋数も、ぜんぶ計算し直しだ。その計算し直しが面倒だと感じられない自分を、プシュケは少しだけ不思議に思った。
その夜、宿の机でプシュケは旅の記録帳を開いた。
『アルメリオにて。紙とペン、購入。薬草図譜は無し。リブロンにはあるとのこと。路地で三人組に絡まれる。』
そこまで書いて、ペンが少し止まった。
『同行者一名。キーラさん。ナビアの人。風の三級相当。声が大きい。距離が近い。……悪い人ではない。』
読み返して、最後の一文を線で消した。
『……いい人だと、思う。』
記録帳を閉じてから、プシュケは荷造りを始めた。
一人分の荷物は、九年かけて完成されている。着替え、薬、地図、筆記具、資金、そして本。問題は、いつも本だった。旅の鞄に入る本は、七冊。屋敷から持ってきた本と、道中で買った本を合わせると、候補は倍以上ある。
机に並べて、選ぶ。医学書は確定。薬草図譜の写しも確定。伝承集も——確定。三冊目までは、いつも速い。四冊目から、手が止まる。
いちばん長く止まったのは、いちばん古い一冊の前だった。氷魔法の基礎理論。表紙の角は擦り切れて、背は二度、自分で綴じ直してある。中身はとうに全部頭に入っている。持ち物の価値を重さで割る計算式に入れれば、真っ先に置いていくべき一冊だった。
プシュケはその一冊を、鞄のいちばん底に入れた。
基礎に戻れる者だけが、遠くへ行ける——明日からは、二人で歩く旅だ。いちばん底に、いちばん戻れる場所を敷いておく。それは荷物ではなくて、たぶん身体の一部のようなものだった。
それから残りの枠を三回入れ替えて、鞄の蓋を閉じたのは夜半を回ったころだった。
✦ ✦ ✦
翌朝、プシュケは約束の一時間前に、東の門に着いた。
早すぎるのは、分かっていた。分かっていて、眠れなかったのだから仕方がない。誰かと旅をするのは、生まれて初めてなのだ。
キーラは、約束のちょうどの時間に駆けてきた。
「おはよ、プシュケちゃん! ……あれ、もしかして待った?」
「……いま、来たところです」
顔には全くでなかったが、なんだか少し照れ臭かった。
そんな様子を知ってか知らずか、キーラは旅の開始を告げた。
「そう?それじゃ、行こっか!」
少し歩いて、気づいたことがあった。
キーラの歩幅が、途中から変わったのだ。
最初の数分、プシュケは小走り気味だった。身長差と脚の長さの差で当然そうなる。息を整えるのに苦労しはじめたころ——キーラの歩みが、すっと緩んだ。会話は途切れなかったし、キーラは前を向いたままだったから、たぶん意識してやったのではないと思う。隣の呼吸を聞いて、体が勝手に合わせたのだ。
(……この人は、そういう人なんだ)
歩きながら、行き先を確認した。
「プシュケちゃん、次はリブロンだっけ?」
「はい、そうです。ここから東に、徒歩で十日ほど。学者の町で、大陸でも指折りの古書の集積地です。キュラリアの伝承を、そこで調べ直したくて。……あとは、その、個人的にも寄りたい本屋が」
「学者の町?凄いね!でも、本の町かぁ〜……」
キーラの語尾が、正直に垂れ下がった。
「……本、苦手ですか」
「苦手っていうか、三頁で寝ちゃう」
「さんぺーじ」
「でも行こう! プシュケちゃんの探しものが先! それにほら、学者の町ならおいしいものも……あるよね? 学者さんも、ごはんは食べるもんね?」
「食べる、と思います」
「よし、それじゃあ決まり!」
とキーラは元気よく右手を掲げた。
理屈と食い気が同居した決まり方だったけれど、進路は東、リブロンへ。二人旅の行き先が、初めてひとつになった。
そしてその旅を見送るかのように、空はよく晴れていた。