「ねえプシュケちゃん、雪って、本当に冷たいの?」
二人旅が始まって数日目の街道で、キーラがそんなことを聞いてきた。
プシュケは、少し考えてから答えた。
「冷たい、です。でも、積もりたての雪は、ふわふわで……握ると、きゅ、と鳴きます」
「鳴くの!? 雪が!?」
「鳴きます。それから、晴れた朝の雪原は、光がぜんぶ跳ね返って、目を開けていられないくらい、まぶしいです」
「うわぁ……見たいなあ、それ」
南国育ちのキーラは、雪を見たことがないのだという。逆にプシュケは、ナビアのような青い海を、本の挿絵でしか知らなかった。世界は、住む場所の数だけ違う顔をしているらしい。
「海はね、しょっぱいよ!」
「知識としては、知っています」
「波はね、ざーん、って来て、しゅわしゅわーって帰るの」
「擬音の情報量が、多いです」
「あと、夕方の海はね、ぜんぶ金色になるの。市場の帰りに毎日見てたけど、毎日きれいだった」
キーラの海の説明は、地誌のどの記述とも違った。塩分濃度も、潮汐の周期も出てこない。出てくるのは、音と、色と、毎日きれいだったという証言だけ。なのに、挿絵で見るよりずっと海だった。
「プシュケちゃんの故郷って、どんなところ?」
「ストラル王国の、王都の近くです。一年のほとんど、雪が降っています。夏の短いあいだだけ雪が消えて、みんなその季節に、一年ぶんはしゃぎます。冬は……夜が長くて、暖炉の前で本を読むには、いい国です」
「暖炉と本かあ。プシュケちゃんの国っぽい」
「褒められている気が、あまりしません。……あとは」
荷物を担ぎ直したとき、鞄の中で、ごつ、と硬い音がした。
「……プシュケちゃん、その鞄、何が入ってるの? さっきからずっと角ばった音がするけど」
「本です」
「本?」
「薬草学の本と、地誌と、伝承集と、魔法理論の本と、あとは……」
「着替えは?」
「…………最低限」
キーラはプシュケの鞄をまじまじと見て、それから乾いた声で言った。
「本のほうが、服より多いんだ……」
「本は、裏切りませんので」
その夜の野営で、焚き火を挟んで座ったとき、キーラがふと遠慮がちに聞いた。
「ねえ。……お母さんの話、聞いてもいい? 嫌なら、ぜんぜんいいの」
薪が、ぱち、と爆ぜた。
プシュケは膝を抱えて、火を見つめた。不思議と、嫌ではなかった。
「……長く、なりますよ」
「旅の夜は、長いよ」
だからプシュケは、話しはじめた。
✦ ✦ ✦
ストラル王国の王都、サークライト。
世界でいちばん白い都、と紀行文は書く。一年の大半を雪の中で過ごすその都は、白い石の家々が並び、道は雪かきの職人たちが夜明け前に整える。通りを行くのは馬車ではなく、飼いならされた狼型の魔獣が鈴を鳴らすソリだった。中央の丘に王宮の尖塔が立ち、その鐘が鳴ると、都じゅうの屋根から粉雪がいっせいに舞い上がって、晴れた日には、都そのものが光の中に浮かんで見える。
いちばん寒い季節、大気の澄んだ夜には、空に光の帯がかかることがある。緑と、紫と、淡い赤。天のカーテン、と都の人は呼ぶ。それが揺れる夜は、どんなに寒くても、みんな外に出て空を見上げる。ストラルの民は寒さに強いのではない。寒さの中の美しいものに、目がきくのだ。
その王都の近郊、白樺の並木の奥に、ダイヤスト家の屋敷はあった。
プシュケのいちばん古い記憶は、その屋敷の中庭——母の作る氷像だ。
母は幼いプシュケのために、よく氷の像を作ってくれた。指先からきらきらと冷気が流れて、みるみるうちに猫になり、鳥になり、小さなお城になる。
「プシュケ。次は、なにがいい?」
「ねこ! おっきいねこ!」
「ふふ。昨日も猫だったでしょう」
雪が「きゅ」と鳴くことを教えてくれたのも、母だった。
初雪の朝、中庭で母は積もりたての雪をひとつかみ握って、プシュケの耳元に寄せた。きゅ、きゅ。「ほら、鳴いた」「なんで鳴くの?」「寒いのが、うれしいのよきっと」——本当の理由はあとで本で知ったが、それでもプシュケは母の説のほうが好きだ。
母、スカーレット。当時二十六歳。
あとになって知ったことだけれど、母は王国でも指折りの魔導師だった。聖と氷、ふたつの属性を使える二属性詠唱者、めったにいない人。若いころは王宮に上がっていて、母の作る黄昏色のダイヤモンドダストは「王国の宝」とまで呼ばれたという。国の記録書に、ちゃんと載っている。
でも幼いプシュケにとっては、そんなことより、氷の猫を作るのが世界一上手な人で、読み聞かせの声が世界一やわらかい人で、ハープを弾く指が世界一きれいな人だった。
月に何度か、母はプシュケを連れて王都へ出た。
そりに二人で乗って、白樺の並木を抜けて、鈴の音と一緒に白い都へ入っていく。母の行き先は、決まって二つ。大聖堂の裏の小さな菓子店と、時計塔の通りの本屋だった。菓子店では、決まって蜂蜜の焼き菓子をふたつ買ってもらった。そのとき母は、「お父さまには内緒よ」と冗談で言ったが、その時すでに父はいなかった。本屋では、読み聞かせ用の本を一冊、プシュケに選ばせた。
「プシュケが選んだ本は、はずれがないのよね」
「なんで?」
「あなた、表紙じゃなくて、最初の一行を読んで選ぶでしょう。それ、本の選び方としていちばん正しいの」
帰りのソリの上で、母の外套にくるまって、買ったばかりの本の最初の一行だけを何度も読んだ。続きは夜のお楽しみ。都の門を出るころ、夕暮れの鐘が鳴って白い屋根がぜんぶ薔薇色になる。あの色を、プシュケはまだ、他のどの夕暮れにも見つけられずにいる。
門の衛兵たちは母の顔を見ると、揃って背筋を伸ばした。「スカーレット様」と呼ぶ声には、役目の礼儀のほかに、なにか憧れに近い色があった。母はそのたび、ソリの上から気さくに手を振った。王国の宝、と呼ばれた人の手の振り方ではなく、焼き菓子の包みを提げた、ただの上機嫌な母の手だった。
母のハープには決まりがあった。朝は速い曲。雨の日は古い曲。そしてプシュケが眠れない夜には、題名のない短い子守歌。「これはね、わたしのお母さまから習ったの。いつか、あなたにも教えてあげる」——結局、教わりそびれたその曲を、プシュケは今でも最初の四小節だけ口ずさめる。四小節から先を、知らないまま。
夜、眠る前の読み聞かせ。物語をひとつ読み終わると、母は必ず本を閉じてこう言った。
「つづきは、また明日ね」
また明日。あのころ、明日は数えるものではなかった。
物語の続きをせがんで、「まだ起きてます」と主張して、負けて、それでも布団の中でこっそり結末を予想して眠る。翌晩、予想が当たっていると、母は「あら、名探偵」と笑った。外れていると、「物語は、あなたより頭がいいのよ」と笑った。どちらでも笑うのだから、勝負としてはずるい。ずるくて、あたたかい勝負を何百回もした。今のプシュケの読書速度は、たぶん、あの何百回の続きが読みたかった速度のままだ。
ときどき王都から伯父が来た。フォルシス伯父さま、母の兄で王立省の要職にある人。いつも難しい顔をしていて、難しい言葉で話す人。なのに帰り際にはかならず、ぎこちない手つきで本を一冊くれた。子ども向けにしては難しすぎる本ばかりだったけれど、プシュケはそれを全部読んだ。次に来たとき中身の話をすると、伯父の眉間の皺がほんの少しだけ緩むからだった。
「兄さまは、あれであなたを溺愛しているのよ」と、母は笑っていた。当時は信じられなかったが、今なら少しだけ分かる。
伯父と母が並ぶと、似ていないようで似ていた。無口な兄と、よく笑う妹。でも、チェス盤を挟むと、二人はそっくり同じ目になった。長考のあいだ、部屋には暖炉の音だけがして、プシュケは母の膝の上で、盤面と二人の同じ目を交互に見ていた。勝つのはたいてい伯父で、母はそのたび「次は勝つわ」と言い、次も負けた。負けても楽しそうなのが、プシュケには不思議だった。
一度だけ、母の「王国の宝」を見たことがある。
四歳の冬の、天のカーテンの夜だった。中庭で空を見上げていた母が、ふいに「プシュケ、とっておきを見せてあげる」と言って、両手を夕暮れの名残の空へかざした。
手のひらの魔法陣から、光の粉が立ちのぼった。
氷の、ほんとうに細かい粒。それが空気の中できらきらと躍って、天のカーテンの緑と紫を映し、沈んだ夕陽の記憶みたいな、黄昏色に染まった。庭がまるごと、光る粉雪の中に入った。息をすると、光を吸っているみたいだった。
「黄昏のダイヤモンドダスト。……王宮では、これで随分、拍手をもらったのよ」
「きれい……! ねえ、もういっかい!」
「だーめ。とっておきは滅多にやらないから、とっておきなの。……いつか、あなたがとっておきの夜を見つけたら、そのときにもう一回ね」
母は笑って、光の粉ごとプシュケを抱き上げた。母の髪にも粉がついて、母そのものが光っていた。世界でいちばんきれいなものを聞かれたら、プシュケは今でも、迷わずあの夜を挙げる。
白い都と、白樺の屋敷と、氷の猫と、黄昏色の光と、また明日。
プシュケの世界は、それで完璧にできあがっていた。
その完璧が最初にほどけた日のことを——プシュケははっきり覚えている。