異変は、プシュケが四歳の冬に始まった。
はっきり覚えている日が、ある。
中庭で、いつものように氷像をねだった。
「おっきいねこ」
母は笑って、指先から冷気を流しはじめて——猫は、耳のところで止まった。
「……あら」
母は、自分の指先を不思議そうに見ていた。もう一度。今度は、鼻のところで止まった。できかけの氷の猫は、昼前の陽にゆっくり溶けていった。
「ごめんなさいね、プシュケ。今日は猫の気分じゃないみたい」
そう言って笑った母の顔を、プシュケは上手に笑い返せなかった。四歳の子どもにも分かることがある。母の氷像は、途中で止まったことなんて一度もなかったのだ。
それからは、些細なことが続いた。ハープの曲が短くなる。廊下を歩く母の足音がゆっくりになる。
「お母さま、おつかれ?」
「……そうね。少しだけ、休憩」
休憩は、少しずつ長くなった。中庭に出る日が減って、王都へのソリの遠出がなくなって、読み聞かせが一晩おきになって、ハープの部屋に鍵がかかるようになった。おかしい、と思うより先に、子どもは慣れてしまう。ゆっくりの母に、プシュケもゆっくり慣れていった。
あの冬、王都のダイヤスト家の親戚筋から、見舞いの手紙と品物が次々に届いた。届いたが、母がいちばん喜んだ見舞いはそのどれでもなかった。伯父が執務の合間に屋敷へ寄って、黙ってチェス盤を広げたことだ。
「兄さま。わたし、長考すると、そのまま眠ってしまうかもしれなくてよ」
「構わん。……起きたところから、続ければいい」
その対局は、本当に途中で母が眠って、翌週の伯父の来訪で続きが打たれ、また眠って、また続いて、ひと冬かけてやっと終わった。世界でいちばん長い一局だったと思う。勝ったのは、めずらしく母だった。「次は勝つ」と言い続けて負け続けた人の、ようやくの勝ち星である。伯父が手を抜いたのかどうか、プシュケには分からない。分からないが、投了の時にあの無口な人が「……見事だ」と言った声だけは、今も耳に残っている。
慣れなかったのは、大人たちのほうだった。
医師が屋敷に来る回数が増えた。伯父が王都から難しい顔の学者を何人も連れてきた。あの冬、屋敷の玄関にはいつも知らないソリが停まっていて、廊下にはいつも低い話し声があった。大人たちは扉を閉めて長い話をして、プシュケはいつも廊下で待たされた。
廊下は少し寒かった。寒い廊下で、プシュケは伯父にもらった難しい本を読んだ。難しい本のいいところは、一頁にとても時間がかかることだ。時間のかかる本を読んでいれば、扉の向こうの声を数えなくて済んだ。
病名を、プシュケは扉越しに聞いた。
——時間停止病。
あとになって、その意味を正しく知った。ヒトの残り時間は、少しずつ減っていくのがあたりまえの姿だ。風邪をひけば減りは早くなり、治れば元の速さに戻る。けれどこの病にかかると、逆のことが起きる。時間の減りが、だんだん遅くなっていくのだ。ゆっくり、ゆっくりになって、最後には——止まる。
「時間が減らないなら、長生きできるってこと?」
幼いプシュケは、医師にそう聞いたのを覚えている。廊下で待つプシュケのところへ来て、目の高さまでしゃがんでくれる、白髪の老医師だった。医師は困った顔で、それでも子ども扱いをせず、とても正直に教えてくれた。
「……いいえ、お嬢さま。時間は残るのに、お体のほうが、先に終わってしまうのです。時間の上では生きているのに、体だけが、死んでいく。……処置をしなければ、いずれ」
「なおす、おくすりは?」
「ありません。……今の私どもには」
分からなかった。四歳のプシュケには、「お母さまは、ゆっくりになる病気」——それしか分からなかった。
分からないまま、母はゆっくりになっていった。
✦ ✦ ✦
ゆっくりになっていく母は、それでも母のままだった。
氷像は作れなくなったけれど、窓辺で膝にプシュケを乗せて雪を見た。ハープは弾けなくなったけれど、旋律を小さく口ずさんだ。読み聞かせは一晩おきから三晩おきになって、そのぶん一晩の物語を、前より、ゆっくり、ゆっくりと読んだ。
「ゆっくり読むとね、プシュケ。物語の中に、長くいられるのよ」
あれが痩せ我慢だったのか、本当の発見だったのか、今も分からない。ただ、母はゆっくりの中からでも、娘に渡せるものを探すのを最後までやめなかった。それだけは確かだった。
窓辺の雪見にも、母の流儀があった。ただ眺めるのではない。雪に、時間をつけるのだ。
「ほら、あの枝の雪。もうすぐ落ちるわよ。……三、二、一」
落ちない。
「……あら」
「おかあさま、へたっぴ」
「ふふ。じゃあ、次はプシュケの番」
雪がいつ落ちるか当てるだけの、点数もつかない遊び。ゆっくりの母と、窓辺の椅子でする遊びは、みんなそういう時間のかからない、時間だけがかかる遊びだった。プシュケの勝率は母より少しだけ高かったが、あとあとに考えて気づくと、あれはたぶんわざとだ。子どもに勝たせる下手っぴを、あの人は氷像と同じ丁寧さで作っていた。
五歳の冬、一度だけ母は魔法の手ほどきをしてくれた。
「プシュケ。手を出して」
母の両手が、プシュケの小さな両手を包んだ。手のひらの真ん中に意識を集める。冷たさを、怖がらないで迎えにいく——母の声に導かれるまま、プシュケのてのひらの上に、初めて米粒ほどの氷の粒が生まれた。
「……! できた! おかあさま、できた!!」
「まあ。……まあ、まあ。初めてで、粒が透きとおってる」
母はその米粒を、宝石を鑑定する目でためつすがめつ眺めて、それから心底うれしそうに笑った。
「あなたの氷は、静かな氷ね。わたしの氷より、ずっと行儀がいい。……いつか、わたしより上手になるわ」
「なったら、どうなるの?」
「なったら? そうねえ。……なったら、今度はあなたが、誰かに教えてあげるの。魔法はね、そうやって、手から手へ渡っていくものだから」
手ほどきはその一度きりだった。次の冬、母の指先はもう氷を起こせなくなっていたから。だからプシュケの氷魔法の最初の一粒は、正真正銘母の手の中で生まれている。何年かけて磨いた技術のいちばん底には、あの冬のてのひらの温度がいまも入っている。
米粒の氷はそれから毎日作った。母の部屋の窓辺で母が起きるのを待ちながら、ひと粒。母が起きた日は、てのひらに載せて見せた。
「まあ。今日のは、昨日より、まるい」
「まいにち、じょうずになるの」
「ええ。毎日、上手になってる。……お母さまは、毎日、見てるからね」
ゆっくりの母の「毎日」が、本当に毎日だったのかは分からない。それでもあの窓辺の米粒の報告会が、プシュケの人生初めての「発表」だった。聞き手はいつも一人で、いつも世界一の聞き手だった。
母が二十八歳の誕生日を迎えるころには、もう寝台で過ごす日が多くなっていた。その日、母は侍女に髪を結わせて、いちばん好きなドレスを着て居間まで出てきた。祝いの席で、母は自分の髪から髪飾りを外した。翡翠色の布地に白銀の細工。母がいつも、いちばん大事な日にだけつけていたものだ。
「これはね、プシュケ。いつか、あなたに」
プシュケの髪にそれをあてがって、母は鏡を覗き込んだ。五歳の頭にはまだ大きすぎる髪飾りだった。
「……ふふ。まだ、早いわね」
「おおきくなったら?」
「ええ。おおきくなったら。……あなたがどこか遠くへ行く日に、これを結ってあげる。約束」
約束、と母は言った。また明日、と同じあの声で。その約束がどんな形で果たされることになるか、五歳のプシュケも、二十八歳の母も、まだ知らなかった。
六歳になる年には、母はもうほとんど眠るだけになっていた。
目を覚ましている時間は、日に一度あるかないか。それも、ほんの短いあいだ。プシュケは毎日母の部屋の椅子に座って、その短い時間を待った。
待つあいだ、読みかけの本を読んだ。母と読んでいた物語の続きだ。しおりは、母が最後に読み聞かせてくれた頁に挟まったままだった。自分で先を読んでしまおうかと何度も思ったが、結局できなかった。先を読んだら、「また明日」がなくなってしまう気がしたからだ。
母が目を覚ますと、プシュケは椅子から飛び降りて寝台に駆け寄った。
「……プシュケ。おおきく、なったね」
母はいつも、同じことを言った。昨日も会ったのに。今朝も会ったのに。ゆっくりになった母の中で時間がどう流れていたのか、プシュケには今でも分からない。ただ、髪を撫でる手のひらだけは、いつも同じあたたかさだった。
「お母さま。ご本の、つづき」
「そうね……つづき、は……」
言葉は途中で眠りに溶け、その日もしおりは動かなかった。
夜、ひとりの寝室で、プシュケは何度か侍女に読み聞かせを頼んでみたことがある。侍女はやさしく、上手に読んでくれた。でも物語をひとつ読み終えたとき、彼女は本を閉じて「おやすみなさいませ」と言った。
つづきは、また明日ね——ではなくて。
それきり、誰にも頼まなくなった。悪いのは侍女ではない。あの言葉は、技術ではないのだ。明日も読んであげるという約束を、疑いもなく差し出せる人にしか言えない言葉。六歳のプシュケは、そのことを誰に教わるでもなく理解して、理解したぶんだけ夜が長くなった。長い夜の相手は、本だった。本は閉じても逃げない。翌朝また開けば、同じ場所で待っている。本を信じる子どもになったのは、たぶんあの冬からだ。
そしてその冬の終わり、屋敷に黒い服の大人たちが集まりはじめた。