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CHAPTER I 第3話 リンゴある?
Ourhour-Traveler

第3話 リンゴある?

第一章 導きの星 編

売るもののない店を開けることに、意味はあるのだろうか。

朝の掃除を終えたキーラがそう聞くと、お父さんは笑って首を振った。

「あるさ。店ってのはな、開いてることに意味があるんだ。うちはやってるぞ、って旗を立てとくんだよ」

その旗を立てたまま、お父さんとお母さんは商人組合の寄合へ出かけていった。被害の取りまとめと、問屋への相談。昼までは帰らないという。

「店番、頼んだぞ。……といっても、売るもんもほとんどないがな」

「なにかあったら、隣のオーレンさんとこに駆け込みなさいね」

「はいはい。いってらっしゃい」

というわけで、キーラはひとり、空っぽの店の番をしている。

棚は空。樽も空。量りだけが所在なげに光っている。それでも戸を開け放ち、ホウキを握って、いつもどおりの朝の顔をする。できているかどうかは、自分では分からなかったけれど。

通りの向かいでは、ルカがパンの籠を抱えて配達に走っていた。すれ違いざまに目が合うと、片手を上げてくる。キーラも上げ返す。それだけのことだが、今朝はやけにありがたかった。

掃くところもないのにホウキを動かしていると、昨日の夜の怒りが、手持ち無沙汰の分だけ腹の底でくすぶった。警備隊は夜明け前に出た。いまごろ、あの入り江で——考えても仕方のないことばかり考えてしまう。

店を開けて少しすると、棚の前にふらりと人影が立った。

「ねぇ、リンゴある?」

旅の人だ、とまず思った。

くたびれた外套に、大きすぎない荷物。長めの白髪が海風に揺れている。歳は、……よく分からない。若いようにも見えるし、ずっと年上のようにも見える。男の人か女の人かも一瞬迷った。ただ、綺麗な人だな、とだけ思った。

「……ごめんなさい。海賊のせいで、いまは全くないんです」

「まじか」

旅人は心底がっかりした顔で、空っぽの棚を眺めた。棚には昨日まで、この町でいちばんのリンゴの山があった。

「海賊、それいつの話?」

「昨日です。昨日の夕暮れ、祭りの最中に。……食べ物と、時元コインを、ごっそり」

「昨日かあ」

旅人は外套の襟元を掻いて、天を仰いだ。

「間の悪いときに来たなあ。ボク、この町のリンゴ楽しみにしてたのに」

「……ふふ。あはは、なんですかそれ」

今まで気が張り詰めていたので、旅人のいじけた様子に思わず笑ってしまった。そして笑ってから、キーラは自分で驚いた。昨日から初めて笑った気がする。旅人は笑わなかった……かわりに、空っぽの棚をもう一度だけじっと見た。それから、明日の天気の話でもするみたいに言った。

「じゃあ、海賊から奪い返そう」

「…………はい?」

軽い。あんまりにも、軽い。

昨日から胸の底で燃えつづけているものが、その軽さに一瞬白けた。うちの町が、うちの店が、お父さんとお母さんの時間が、どれだけ——

そう思って旅人の顔を見上げて、キーラは言葉を呑んだ。

深紅の瞳が、空っぽの棚を見ていた。冗談を言う人の目じゃなかった。

————本気の目だ。

「……本気、なんですか」

「ボクは、リンゴのことでは嘘をつかない」

「基準が分かんないよ……」

旅人は荷物を担ぎ直すと、もう歩き出そうとしていた。キーラは慌てて呼び止める。

「待って、待ってください。海賊の討伐なら、警備隊がもう向かってます。夜明け前に根城に向けて出たって」

「あ、そうなんだ」

「じゃあ——」

「なら安心。……とは、ならないんだなあ、これが」

旅人は肩越しに振り返って、にこ、と笑った。

「念のため。それに——ボクのリンゴの恨みは、深い」

言うだけ言って、北へ、入り江のほうへすたすたと歩いていく。

キーラはその背中を数歩ぶんだけ見送った。

手が勝手に動いた。

壁に立てかけてあった古槍。防犯用の、誰も使ったことのない槍。

それを掴んで、帳場の紙に大きく書き置きを残す。

『仕入れに行ってきます。 キーラ』

嘘は商人の恥だ。でも、これは半分くらい本当だ。

「——わたしも行きます!」

駆けて追いつくと、旅人は少しだけ驚いた顔でキーラと、その手の中の古槍を見た。

「仕返し、したいので!」

われながら、理由になっていなかった。けれど旅人は笑いもせず、止めもせず、まじまじとキーラの目を見て——それから、なにかを面白がるように目を細めた。

「……ふうん」

「だ、だめですか」

「いいよ。おいで」

✦ ✦ ✦

北の街道は、海沿いの崖の上を通っている。左手はずっと丘で、右手はずっと海だった。

「そういえば、お名前を聞いてないです。わたし、キーラ。ナビアの……ナビアでいちばんの食料品店の娘です」

「いちばん、って言ったね」

「言いました。いちばんです」

「ボクはラース。しがない旅人」

ラースさん、と口の中で転がしてみる。変わった響きの名前だった。この辺りでは聞かない。

「地図、見なくていいんですか」

「道はだいたい覚えてる」

「だいたい!?」

「世界はだいたいで歩けるよ」

「歩けません」

歩けた。悔しいことに、ラースは一度も道を間違えなかった。分かれ道では迷いもせず、近道の獣道まで知っていた。旅慣れている、というより——この道を、前にも歩いたことがあるみたいだった。

「ラースさんは、どこから来たんですか」

「北から。その前は東。そのもっと前は……どこだったかな」

「忘れるものですか、そういうの」

「長く歩いてると、順番が混ざるんだよ」

ふうん、と相槌を打ちながら、キーラは槍を担ぎ直した。と、ラースが横目でそれを見た。

「握り、それだと手首を痛めるよ」

「え?」

「槍。もう少しだけ、後ろを持つ。脇は締めない。……そう、それ」

言われたとおりにすると、不思議と穂先がぴたりと据わった。重かったはずの古槍が、腕の続きみたいに軽い。

「なんで槍の持ち方まで知ってるんですか。短剣の人なのに」

ラースの腰にはいくつかの短剣がぶらさがっていたので、てっきり短剣使いの人なのかと思っていた。

「んー。……昔、ちょっとね」

それきり、ラースはその話をしなかった。

峠の掛け茶屋で、ラースは急に立ち止まった。

「芋餅だ」

「……え、買うんですか? いま?」

「腹が減っては戦ができない。三つください」

店番のおばあさんに、ラースは小さなコインを一枚、台に置いた。時元コイン。おばあさんが目を丸くする。

「おや、コイン払いとは。旅の人だねえ」

「うん。旅の人なの」

この辺りの茶屋なら、握手して直接払うほうがずっと普通だ。コインを使うのは、大きな商いをする商人か、よその土地の人くらい。旅の人だからコインを使うのは当然なのかな……?とキーラが考えていると——芋餅を差し出されて、すぐに忘れた。

「はい、君のぶん」

「あ、ありがとうございます……って、ラースさん二つ食べるんですか」

「恨みの深さのぶんだけ」

「リンゴじゃなくても食い意地すごい」

店を出るとき、おばあさんが「気をつけなよ」と声をかけてきた。

「北はいま、物騒らしいからねえ。海賊が出たって」

「うん。それを取りに行くの」

「……はあ?」

「行きましょうラースさん! ごちそうさまでした!」

芋餅は素朴な味がした。歩きながら食べる行儀の悪さも、こんなときだと薬みたいなものだ。強張っていた肩が、少しだけ軽くなる。

「ねえ、キーラ」

先を歩くラースが、前を向いたまま言った。

「どうして、ついてきたの。仕返し——って言ってたけど」

「…………昨日、わたし、隠れてたんです」

言葉は、思ったよりするりと出た。

「倉庫の奥で、お母さんに頭を抱えられて、お父さんの背中だけ見てました。悔しいとか、怖いとか、そういうのより……なんにもできないんだ、って思って。それが、いちばん嫌でした」

「ふうん」

「だから、今日は。……今日は、なにかしたかったんです」

ラースはしばらく黙って歩き、それから短く言った。

「いい理由だね」

「あの。ラースさんって、強いんですか」

「んー……普通かな」

「普通の人は、リンゴのために海賊の根城には行きません」

「そう?」

「そうです」

ラースは答えず、芋餅の最後のひとくちを、大事そうに食べた。

やがて、道の先に潮騒が濃くなった。崖が切れて、下り道になる。北の入り江は、もう遠くない。

ラースが、ふと足を止めた。

「君、ついてくるなら——保険を、かけとこうか」

「ほ、保険?」

ラースが軽く手のひらをかざす。ぱちん、と指が鳴った。

温かい風が、体の中を通り抜けた。

外から吹く風じゃない。胸の奥から指の先まで、あたたかいものがひとめぐりして、そのまま体のどこか深いところに残った。小さななにかが、静かに回りはじめたような感じがした。

「……いまの、なに?」

「おまじない」

ラースはもう歩き出している。

「——効くといいね」

✦ ✦ ✦

同じころ、北の入り江では、勝負がすでに終わろうとしていた。

警備隊は、よく戦った。

二十からの隊員が夜明けとともに攻め込み、寝込みの海賊たちを次々に取り押さえた。下っ端は殺さず、確実に縛り上げていく。堅実で見事な戦いぶりだった。あと一歩で頭領、というところまでは確かに攻めた。

しかしそれは、幹部三人が出てくるまでの話だ。

大斧を担いだ大男が、盾ごと先頭の隊員を吹き飛ばした。岩陰からの矢が、正確に利き腕ばかりを射抜いていく。杖を持った男が炎の玉を転がすころには、隊列は、もう隊列ではなくなっていた。

「怯むな! 二人一組を崩すな、盾を前へ——」

隊長は最後まで声を張りつづけた。仲間を庇って前へ出て、大斧を三度受け、三度目に剣が折れた。それでも折れた剣を捨てず、部下と幹部のあいだに立ちつづけた。

「バルゴ……っ、貴様ぁ……!」

隊長が膝をつく。折れた剣が、砂を噛んだ。

頭領は曲刀を担いだまま、つまらなそうにそれを見下ろした。潮に灼けた大男。首筋の古傷が、笑うと歪んだ。

「殺すな。身代金……いや——時間の搾りがいが、あるだろ」

縛り上げられていく部下たちを、隊長は最後まで睨みつけていた。

入り江に、下品な勝利の笑いが上がる。

——それをまだ、町の誰も知らない。

皆さんからいただいた時間 12.02Ø
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