売るもののない店を開けることに、意味はあるのだろうか。
朝の掃除を終えたキーラがそう聞くと、お父さんは笑って首を振った。
「あるさ。店ってのはな、開いてることに意味があるんだ。うちはやってるぞ、って旗を立てとくんだよ」
その旗を立てたまま、お父さんとお母さんは商人組合の寄合へ出かけていった。被害の取りまとめと、問屋への相談。昼までは帰らないという。
「店番、頼んだぞ。……といっても、売るもんもほとんどないがな」
「なにかあったら、隣のオーレンさんとこに駆け込みなさいね」
「はいはい。いってらっしゃい」
というわけで、キーラはひとり、空っぽの店の番をしている。
棚は空。樽も空。量りだけが所在なげに光っている。それでも戸を開け放ち、ホウキを握って、いつもどおりの朝の顔をする。できているかどうかは、自分では分からなかったけれど。
通りの向かいでは、ルカがパンの籠を抱えて配達に走っていた。すれ違いざまに目が合うと、片手を上げてくる。キーラも上げ返す。それだけのことだが、今朝はやけにありがたかった。
掃くところもないのにホウキを動かしていると、昨日の夜の怒りが、手持ち無沙汰の分だけ腹の底でくすぶった。警備隊は夜明け前に出た。いまごろ、あの入り江で——考えても仕方のないことばかり考えてしまう。
店を開けて少しすると、棚の前にふらりと人影が立った。
「ねぇ、リンゴある?」
旅の人だ、とまず思った。
くたびれた外套に、大きすぎない荷物。長めの白髪が海風に揺れている。歳は、……よく分からない。若いようにも見えるし、ずっと年上のようにも見える。男の人か女の人かも一瞬迷った。ただ、綺麗な人だな、とだけ思った。
「……ごめんなさい。海賊のせいで、いまは全くないんです」
「まじか」
旅人は心底がっかりした顔で、空っぽの棚を眺めた。棚には昨日まで、この町でいちばんのリンゴの山があった。
「海賊、それいつの話?」
「昨日です。昨日の夕暮れ、祭りの最中に。……食べ物と、時元コインを、ごっそり」
「昨日かあ」
旅人は外套の襟元を掻いて、天を仰いだ。
「間の悪いときに来たなあ。ボク、この町のリンゴ楽しみにしてたのに」
「……ふふ。あはは、なんですかそれ」
今まで気が張り詰めていたので、旅人のいじけた様子に思わず笑ってしまった。そして笑ってから、キーラは自分で驚いた。昨日から初めて笑った気がする。旅人は笑わなかった……かわりに、空っぽの棚をもう一度だけじっと見た。それから、明日の天気の話でもするみたいに言った。
「じゃあ、海賊から奪い返そう」
「…………はい?」
軽い。あんまりにも、軽い。
昨日から胸の底で燃えつづけているものが、その軽さに一瞬白けた。うちの町が、うちの店が、お父さんとお母さんの時間が、どれだけ——
そう思って旅人の顔を見上げて、キーラは言葉を呑んだ。
深紅の瞳が、空っぽの棚を見ていた。冗談を言う人の目じゃなかった。
————本気の目だ。
「……本気、なんですか」
「ボクは、リンゴのことでは嘘をつかない」
「基準が分かんないよ……」
旅人は荷物を担ぎ直すと、もう歩き出そうとしていた。キーラは慌てて呼び止める。
「待って、待ってください。海賊の討伐なら、警備隊がもう向かってます。夜明け前に根城に向けて出たって」
「あ、そうなんだ」
「じゃあ——」
「なら安心。……とは、ならないんだなあ、これが」
旅人は肩越しに振り返って、にこ、と笑った。
「念のため。それに——ボクのリンゴの恨みは、深い」
言うだけ言って、北へ、入り江のほうへすたすたと歩いていく。
キーラはその背中を数歩ぶんだけ見送った。
手が勝手に動いた。
壁に立てかけてあった古槍。防犯用の、誰も使ったことのない槍。
それを掴んで、帳場の紙に大きく書き置きを残す。
『仕入れに行ってきます。 キーラ』
嘘は商人の恥だ。でも、これは半分くらい本当だ。
「——わたしも行きます!」
駆けて追いつくと、旅人は少しだけ驚いた顔でキーラと、その手の中の古槍を見た。
「仕返し、したいので!」
われながら、理由になっていなかった。けれど旅人は笑いもせず、止めもせず、まじまじとキーラの目を見て——それから、なにかを面白がるように目を細めた。
「……ふうん」
「だ、だめですか」
「いいよ。おいで」
✦ ✦ ✦
北の街道は、海沿いの崖の上を通っている。左手はずっと丘で、右手はずっと海だった。
「そういえば、お名前を聞いてないです。わたし、キーラ。ナビアの……ナビアでいちばんの食料品店の娘です」
「いちばん、って言ったね」
「言いました。いちばんです」
「ボクはラース。しがない旅人」
ラースさん、と口の中で転がしてみる。変わった響きの名前だった。この辺りでは聞かない。
「地図、見なくていいんですか」
「道はだいたい覚えてる」
「だいたい!?」
「世界はだいたいで歩けるよ」
「歩けません」
歩けた。悔しいことに、ラースは一度も道を間違えなかった。分かれ道では迷いもせず、近道の獣道まで知っていた。旅慣れている、というより——この道を、前にも歩いたことがあるみたいだった。
「ラースさんは、どこから来たんですか」
「北から。その前は東。そのもっと前は……どこだったかな」
「忘れるものですか、そういうの」
「長く歩いてると、順番が混ざるんだよ」
ふうん、と相槌を打ちながら、キーラは槍を担ぎ直した。と、ラースが横目でそれを見た。
「握り、それだと手首を痛めるよ」
「え?」
「槍。もう少しだけ、後ろを持つ。脇は締めない。……そう、それ」
言われたとおりにすると、不思議と穂先がぴたりと据わった。重かったはずの古槍が、腕の続きみたいに軽い。
「なんで槍の持ち方まで知ってるんですか。短剣の人なのに」
ラースの腰にはいくつかの短剣がぶらさがっていたので、てっきり短剣使いの人なのかと思っていた。
「んー。……昔、ちょっとね」
それきり、ラースはその話をしなかった。
峠の掛け茶屋で、ラースは急に立ち止まった。
「芋餅だ」
「……え、買うんですか? いま?」
「腹が減っては戦ができない。三つください」
店番のおばあさんに、ラースは小さなコインを一枚、台に置いた。時元コイン。おばあさんが目を丸くする。
「おや、コイン払いとは。旅の人だねえ」
「うん。旅の人なの」
この辺りの茶屋なら、握手して直接払うほうがずっと普通だ。コインを使うのは、大きな商いをする商人か、よその土地の人くらい。旅の人だからコインを使うのは当然なのかな……?とキーラが考えていると——芋餅を差し出されて、すぐに忘れた。
「はい、君のぶん」
「あ、ありがとうございます……って、ラースさん二つ食べるんですか」
「恨みの深さのぶんだけ」
「リンゴじゃなくても食い意地すごい」
店を出るとき、おばあさんが「気をつけなよ」と声をかけてきた。
「北はいま、物騒らしいからねえ。海賊が出たって」
「うん。それを取りに行くの」
「……はあ?」
「行きましょうラースさん! ごちそうさまでした!」
芋餅は素朴な味がした。歩きながら食べる行儀の悪さも、こんなときだと薬みたいなものだ。強張っていた肩が、少しだけ軽くなる。
「ねえ、キーラ」
先を歩くラースが、前を向いたまま言った。
「どうして、ついてきたの。仕返し——って言ってたけど」
「…………昨日、わたし、隠れてたんです」
言葉は、思ったよりするりと出た。
「倉庫の奥で、お母さんに頭を抱えられて、お父さんの背中だけ見てました。悔しいとか、怖いとか、そういうのより……なんにもできないんだ、って思って。それが、いちばん嫌でした」
「ふうん」
「だから、今日は。……今日は、なにかしたかったんです」
ラースはしばらく黙って歩き、それから短く言った。
「いい理由だね」
「あの。ラースさんって、強いんですか」
「んー……普通かな」
「普通の人は、リンゴのために海賊の根城には行きません」
「そう?」
「そうです」
ラースは答えず、芋餅の最後のひとくちを、大事そうに食べた。
やがて、道の先に潮騒が濃くなった。崖が切れて、下り道になる。北の入り江は、もう遠くない。
ラースが、ふと足を止めた。
「君、ついてくるなら——保険を、かけとこうか」
「ほ、保険?」
ラースが軽く手のひらをかざす。ぱちん、と指が鳴った。
温かい風が、体の中を通り抜けた。
外から吹く風じゃない。胸の奥から指の先まで、あたたかいものがひとめぐりして、そのまま体のどこか深いところに残った。小さななにかが、静かに回りはじめたような感じがした。
「……いまの、なに?」
「おまじない」
ラースはもう歩き出している。
「——効くといいね」
✦ ✦ ✦
同じころ、北の入り江では、勝負がすでに終わろうとしていた。
警備隊は、よく戦った。
二十からの隊員が夜明けとともに攻め込み、寝込みの海賊たちを次々に取り押さえた。下っ端は殺さず、確実に縛り上げていく。堅実で見事な戦いぶりだった。あと一歩で頭領、というところまでは確かに攻めた。
しかしそれは、幹部三人が出てくるまでの話だ。
大斧を担いだ大男が、盾ごと先頭の隊員を吹き飛ばした。岩陰からの矢が、正確に利き腕ばかりを射抜いていく。杖を持った男が炎の玉を転がすころには、隊列は、もう隊列ではなくなっていた。
「怯むな! 二人一組を崩すな、盾を前へ——」
隊長は最後まで声を張りつづけた。仲間を庇って前へ出て、大斧を三度受け、三度目に剣が折れた。それでも折れた剣を捨てず、部下と幹部のあいだに立ちつづけた。
「バルゴ……っ、貴様ぁ……!」
隊長が膝をつく。折れた剣が、砂を噛んだ。
頭領は曲刀を担いだまま、つまらなそうにそれを見下ろした。潮に灼けた大男。首筋の古傷が、笑うと歪んだ。
「殺すな。身代金……いや——時間の搾りがいが、あるだろ」
縛り上げられていく部下たちを、隊長は最後まで睨みつけていた。
入り江に、下品な勝利の笑いが上がる。
——それをまだ、町の誰も知らない。