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CHAPTER II 第21話 まだ死んでないの
Ourhour-Traveler

第21話 まだ死んでないの

第二章 銀色の書庫 編

その冬の終わり、屋敷に黒い服の大人たちが集まるようになった。

晶葬——魔法で肉体を凝縮しひとつの水晶にする、正式な葬送。この病——時間停止病——の患者は、時間が残ったまま肉体だけが朽ちていく。だから朽ちる前に、いちばん美しいまま水晶に変えて送るのが、けじめであり慈悲でもある。

国の重鎮たちはそれを勧めた。ダイヤスト家ほどの家柄なら、しかるべき形で送るべきだと。スカーレット様は王国の宝だったからこそ、美しいまま水晶にと。治る見込みのない病に、いつまでも望みを繋ぐべきではないと。

みんなやさしい声で話した。やさしい声のまま、母を送る日取りの話をした。

晶葬の日取りは、星曜日ほしかけびがよい。式は大聖堂で。水晶の意匠は、やはり氷の華を模して。王家からも御弔意が——声たちは、手際よく、丁寧に、美しく母を過去にしていった。誰も悪気はなかったのだと、今なら分かる。あの人たちの世界では、二十七例の「回復例なし」は動かない壁だった。壁の前で立ち止まり続けることより、美しく引き返すことをあの人たちは礼儀と呼んだ。

プシュケは、その声を扉越しに聞いていた。

廊下の床は、あの日も寒かった。寒い床の上で、六歳のプシュケの頭の中をひとつの言葉だけがグルグル回っていた。おかしい。おかしい、おかしい。だってお母さまは、今朝も息をしていた。今朝も、胸が上下していた。窓辺の米粒の氷を、まだ見せていない。今日のぶんも、まだ。

聞いているうちに、手が勝手に扉を開けていた。

広間の大人たちが、いっせいにこちらを見た。黒い服。黒い服。黒い服。その真ん中で、六歳のプシュケは言った。

「まだ、死んでない!」

自分の声があんなに大きく響いたのは、あれが最初で最後だと思う。

「お母さまは、まだ死んでないの。息をしてるの。眠ってるだけなの。なのに、どうして、お葬式の話をするの」

誰も答えなかった。子どもに聞かせる話ではなかった、という顔と、しかし正論を子どもに言っても、という顔が広間に並んだ。侍女頭が慌ててプシュケを連れ出そうと駆け寄ってくる。

そのとき、ただひとり立ち上がった人がいた。

母の兄、伯父のフォルシス。当時から王立省の幹部で、誰よりも規則にうるさくて、笑った顔をほとんど見たことのない人。その伯父が広間を横切って、プシュケの隣に立った。そして、居並ぶ重鎮たちへ静かに言った。

「——仮氷葬かりひょうそうとする。ダイヤスト家の総意だ」

広間がざわめいた。

仮氷葬。特殊な氷で肉体を保存し、治療の望みを残す、延命の措置。実施した前例が少ない上に、金がかかる。なにより「けじめがつかぬ」と年配の重鎮が渋い顔をした。

「フォルシス殿。お気持ちは分かるが、治らぬ病に望みを残すのはかえって残酷というもの」

「治らぬ、とは」

伯父の声は、氷みたいに静かだった。

「歴代二十七例に治療例がない、という事実は知っている。それは『治らぬ』の証明ではない。『まだ誰も治せていない』の記録だ。——医学は、記録を書き換えるためにある。違うか」

重鎮たちは顔を見合わせたが、伯父は返事を待たなかった。

「費用はダイヤスト家が持つ。前例はうちが作る。けじめの話をしたいなら、妹が死んでからにしてもらおう。——妹は、スカーレットはまだ死んでいない」

まだ死んでいない。

理屈の鎧を着せられて大人の言葉にはなっていたが、プシュケの言葉と同じだった。プシュケは隣に立つ伯父の袖——大人の中で唯一、いつもの白い服で来ていた袖を、ぎゅっと掴んだ。伯父は見下ろしもしなかったけれど、振り払いもしなかった。

その夜、部屋で眠れずにいると扉が控えめに叩かれた。

伯父だった。難しい顔のまま何も言わずに入ってきて、何も言わずに枕元に本を一冊置いた。いつもの、子どもには難しすぎる本——ではなかった。挿絵のたくさん入った、雪の国の童話集だった。

「……読めるだろう。おまえは、字が早い」

それだけ言って出ていこうとして、扉のところで一度だけ止まった。

「——プシュケ。今日のおまえの言葉が正しい」

大人は誰も味方をしてくれないのだ、と思いはじめていた夜だった。その夜、プシュケは童話集を抱えて、少しだけ泣いてからよく眠った。

✦ ✦ ✦

仮氷葬の儀式は、冬のいちばん寒い日に行われた。

屋敷の奥の部屋に、白い装束の魔導師が八人。母は、いちばん好きだったドレスで寝台に横たえられていた。魔導師たちが低く詠唱を始めると、部屋の空気が澄んで、母の周りに氷がゆっくりと育っていった。

薄い膜から透きとおった層へ。層から大きな結晶へ。氷は母を包みながら、少しも母を傷つけず、まるで大切なものを仕舞う手つきで静かに閉じていった。

プシュケは伯父の手を握って、最後まで見ていた。目をそらしなさいと誰かが言ったが、伯父はそれを言わなかった。ただ、握った手に少しだけ力がこもった。

八人の魔導師の詠唱は、低く、長く、雪の降る音に似ていた。仮氷葬の氷はただの氷ではない。時間の流れを閉じ込める、王国の氷魔法の最奥のひとつ。八人がかりで三時間かけて編まれるその氷は、中の人を編まれた瞬間のまま保つ。傷めず、老いさせず、進めもさせず。——これは治療ではない、治療までの橋だ。渡る先の岸は、まだ地図のどこにもない。それでも橋は、架けられた。

氷が閉じきる最後の一瞬、母のまぶたが詠唱の風にほんの少し震えて、まるで眠りの中で寝返りを打つときのように、口元がかすかに動いた。何かを言ったのか、ただの筋のゆらぎだったのか。誰にも分からない。プシュケは、その口の形を九年経った今も覚えている。覚えている形は、どう読んでも「またね」の形をしていた。

儀式のあいだ、プシュケはずっと1つのことを考えていた。

(お母さまの時間は、まだある)

時間停止病は、時間の減りが止まる病だ。つまり氷の中の母の腕には、使われないままの時間がたっぷり残っている。残っているのに、使えない。財布はいっぱいなのに、使う市場がない。そういう止まり方を母はしたのだろう。

なら——市場をまた開ければいい。

六歳の頭はそこまで考えて、その先の方法をひとつも持っていなかった。持っていないことが悔しかった。悔しさの置き場所として子どもが選べるものは、ひとつしかなかった。知ることだ。

こうして母は、死ななかった。

かわりに、大きな氷の中で眠る人になった。

✦ ✦ ✦

それからのプシュケには、新しい習慣ができた。

朝、顔を洗って、着替えて、氷の部屋の前で「いってきます」を言う。勉強が終わったら「ただいま」を言う。返事はない。ないことには、じきに慣れた。慣れたけれど、やめようとは一度も思わなかった。

最初のうちは、屋敷の使用人たちはそれを痛ましそうに見ていた。しかし、そのうち誰からともなく、部屋の前に小さな花を絶やさなくなった。料理長は母の好きだった蜂蜜の焼き菓子を、月に一度部屋の前の小卓に置いた。伯父は王都から来るたび、氷の部屋に一人で入って、長いあいだ出てこなかった。何を話しているのかは聞いたことがない。一度だけ、扉越しにチェスの駒を置く音を聞いた気がする。もしかしたら気のせいかもしれないが。

屋敷の奥のいちばん静かな部屋に、その氷はある。

透きとおった氷の中で、母は目を閉じている。苦しそうではない、ただ眠っている。読み聞かせの途中で、うたた寝してしまったときのように。今すぐにでも、目を覚ましそうなように。

六歳の誕生日の朝、プシュケはひとりでその部屋へ行った。

誕生日は母がいちばん張り切る日だった。ケーキを焼いて、氷の飾りを作って、ハープを弾いて。だからその朝も、部屋の前まで行けばなにかが起きている気がした。

……しかし、なにも起きていなかった。氷は静かで、部屋は寒くて、母は眠っていた。窓の外では、いつもどおりの雪がいつもどおりに降っていた。

プシュケは氷に近づいて、両手をそっと当てた。てのひらが、じんと冷たくなった。

「……おたんじょうび、おめでとう」

声は、白い息になった。

「わたしの、じゃなくて。……いつかの、お母さまの」

続きはまた明日ね——あの声を、氷はしまい込んだまま何も言わなかった。

その部屋を出るとき、六歳のプシュケは決めていた。決めた、という言葉すらまだ知らない年齢で、それでも確かに決めていた。

いつか、読みかけのあの本のしおりの先を、お母さまの声で。

あの朝の決意に、まだ名前はなかった。方法もなかった。あったのは、てのひらの形の曇りがふたつと、白い息と、寒い部屋だけだった。それでも、あの朝がすべての始まりだった。

九年後に王都の門を出る旅も、いま焚き火の前で語っているこの夜も、ぜんぶあの誕生日の朝の白い息の続きにある。

もし、あの一言がなかったら——広間で伯父が立ち上がってくれなかったら——と、今でもときどき考える。考えるたび、答えは同じところに落ちる。わたしはたぶん「けじめ」を覚えた、いい子になっていた。黒い服の大人たちのやさしい声に頷いて、水晶になった母に季節の花を供えて、しおりを記念品として仕舞う子になっていた。世界にたった一人でも、「おまえの言葉が正しい」と言ってくれる大人がいるのと、いないのとでは、子どもの育つ先がまるごと変わる。

その一人は、あの夜、難しい顔のまま童話集を置いていった、伯父だった。

皆さんからいただいた時間 191.34Ø
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