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CHAPTER II 第22話 雪の都の九年
Ourhour-Traveler

第22話 雪の都の九年

第二章 銀色の書庫 編

それからの九年をひとことで言うなら——読んで、通って、待った九年だった。

朝、氷の部屋に「いってきます」。それから書庫へ。屋敷の書庫は、母が婚礼のときに増築させた自慢の部屋で、天井までの棚に物語と、楽譜と、魔法書が並んでいた。六歳のプシュケは、その棚のいちばん下の段から読みはじめた。七歳で二段目、八歳で四段目、九歳の冬、最後の棚の最後の一冊を閉じたとき、書庫の窓の外は母が眠った日と同じ雪だった。

読んだのは薬草学、医学、魔法理論、伝承集、地誌……その他たくさん。目的は最初からひとつ、時間停止病を治す方法——あるいは、その手がかりのかけらでも。

屋敷の書庫を読み尽くすと、次は王都だった。

伯父に『屋敷の本はすべて読み終えましたので、王都の書庫の閲覧許可がほしいです。』と用件だけの三行の手紙を書いた。その返事は、一週間後に許可証の形で来た。添えられた伯父の手紙も、三行だった。『許可は取った。月に一度、迎えのそりを出す。防寒を怠るな』——三行目だけが、伯父の言葉だった。

こうして、月に一度の王都通いが始まった。

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それから月に一度ずつ見た王都サークライトは、季節ごとに違う顔をしていた。

冬の王都は、白と鐘の都だ。雪かき職人が夜明け前に道を整え、飼いならされた狼が引くソリの鈴が鳴り、大聖堂の鐘が雪雲の下で低く響く。書庫の帰りに天のカーテンが出た夜は、迎えのそりの御者がわざわざ遠回りをしてくれた。

短い期間ではあるが、夏の王都は緑にも染まる。雪の消えた大通りに花桶が並び、屋根の雪囲いが外され、市場は一年ぶんの野菜と果物で溢れる。都じゅうの人が、たった二月の緑を惜しむように歩き回る。ストラルの民は短いものの愛で方を知っている。それはたぶん、この国の冬の長さが教えたことだ。

王都の星曜日ほしかけびは、市の都だった。大聖堂前の広場に星曜市が立ち、礼拝帰りの人々で賑わう。プシュケは市を歩くのは苦手だったけれど、市のはずれの古本の露店だけは別だった。露店の老人は、無口な子どもの客を無口なまま歓迎した。五年ほどで、あの露店から二百冊近く買った。

王立書庫は大聖堂の隣にあった。

石造りで天井の高い、静かで巨大な本の聖堂。ストラル王家が何百年もかけて集めた蔵書は、屋敷の書庫の百倍あった。プシュケは月に一度、開館から閉館までそこにいた。医学書の階から、伝承の階へ。新しい本から、古い本へ。読めば読むほど、時間停止病が「治らない病」と呼ばれる理由ばかりが積み上がっていった。

歴代の症例、二十七件、回復例なし。

医師団にも、手紙を書いた。八歳の字で書いた最初の手紙には、返事をくれた医師は一人だけだった。十歳の手紙には三人、十二歳の手紙には七人。質問が年ごとに専門的になっていくのが面白い、とある老医師は返信に書いていた。面白がられるのは心外だったが、面白がる人ほど丁寧に教えてくれることも学んだ。

十二歳のとき、王都でいちばん偉い医師に、面と向かって言われたことがある。

「お嬢さま。聡明なあなたなら、もうお分かりのはずです。学べば学ぶほど、あなたはご自分の希望を、ご自分の手で消していくことになる」

その通りだった。でもその通りだったから、余計にやめられなかった。

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魔法の修行も、同じ九年で積んだ。

プシュケも母と同じく、氷と聖属性の才能に恵まれていた。プシュケはその中で、母譲りの氷魔法を磨いた。屋敷に通う家庭教師は、王宮仕えの経験もある老魔導師で、最初の実技を見た日にしばらく黙り、それから「……奥さまの再来ですな」と言った。プシュケはその言葉のたびに、修行の時間を延ばした。

理由は、単純だ。キュラリアの伝承は「特殊なる氷の地」を指す。氷の地へ行くのに、氷を知らないわけにはいかない。それに——氷は、母の属性だ。氷が上手になることは、あの冬のてのひらの温度に近づくことだった。

「お嬢さまの氷は、静かですな」と、家庭教師はよく言った。「音を立てず、無駄に散らず、狙った場所にだけ、狙った量だけ。……王都でいちばん静かな氷です」

褒め言葉だったのかどうかは今も分からない。ただ、初めての一粒を「静かな氷ね」と言った人が他にいる。だからプシュケは、その評だけは素直に受け取ることにしていた。

修行には、伯父も一枚噛んでいた。噛み方が、あの人らしかった。

十一歳のある日、王都からの荷に詠唱鍛錬用の的が入っていたのだ。手紙は例によって三行、『魔導師の弱点は詠唱中である。動く的で、詠唱の維持を鍛えよ。的は揺らして使え』。

伯父も魔法の人だ。それも、氷適性の濃いダイヤスト家に生まれ、王立省幹部になる前は自ら戦場に立ったこともある使い手だ。『魔導師の弱点は詠唱中である』——その一行を、あの人は書物で覚えたのではない。詠唱の半ばで狙われる怖さを、自分の体で知っているのだ。言葉には出さずとも姪のことを案じて、的ひとつに変えて送ってくる。伯父の愛情は、いつも言葉ではない形をしている。

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九歳の春、王立書庫で迷子の姫に出会った。

伝承の階の、奥の奥。めったに人の来ない古い書架の陰で、上等なドレスの少女が途方に暮れて立っていた。歳は、プシュケより三つほど上に見えた。

「……あの。おうかがいしますけれど。ここは、どのあたりでしょう」

「伝承の階の、南の袋小路です」

「ふくろこうじ」

「はい。……お迎えの方は」

「まいてきました。……いえ、はぐれました。いいえ……ま、まきましたの」

正直に言い直すあたりが、変な人だった。話を聞くところによると、視察について来たが書庫が見たくて抜け出して、三十分で現在地を見失ったという。王立書庫は広いが、迷うほどではない。ないはずだが、世の中にはまっすぐの廊下で迷える人がいるらしかった。

出口まで送る道すがら、少女はプシュケの抱えた本の山を見て、目を輝かせた。

「まあ。それ、ぜんぶお読みになるの?」

「はい。今日中に」

「きょうじゅう!? 驚きですわね。……あの、わたくし、アリシアと申します。あなた、お名前は?」

アリシア。その名前と、簡素すぎる名乗りに、プシュケは遅れて気づいた。ストラル・フィル・ダキアロイティス・アリシア。第三皇女殿下。国の歴史にも載っている名前である。

「……ダイヤスト・プシュケと、申します。ご無礼の数々を」

「あら、無礼なんて、ひとつもされていなくてよ。それより、ダイヤスト……もしかして、フォルシス様の?」

「姪に、あたります」

「まあ!」

姫の頬に、ぱっと血がのぼった。のぼった理由を、九歳のプシュケは深く考えなかった。考えるようになるのは、もう少しあとの話だ。

それから月に一度の書庫の日に、姫が「偶然」現れるようになった。

偶然は、三回目で偶然でなくなり、五回目には、書庫の隅の閲覧席が「二人の席」になった。アリシアは、プシュケほど本を速く読めなかったけれど、花と音楽と王宮の窓から見える王都の話をたくさん知っていた。プシュケは、薬草と伝承と症例の話しかできなかったけれど、アリシアはそれを身を乗り出して聞いた。

「プシュケさんのお話は、物語みたいですわ」

「……症例の、統計です」

「統計が物語に聞こえるのは、あなたが、お母さまのために読んでいるからよ」

三つ年上の姫は、ときどきこういう的確なことを、こともなげに言った。

一度だけ、アリシアがためらいがちに聞いたことがある。「その、お母さまのご病気……わたくしに、何か、できることは」。プシュケは、正直に「ありません」と答えた。答えてから、少し言い直した。「……いまのところは、です。でも、聞いてくださることが、たぶん、何かです」。姫は、そう、と小さく頷いて、それきりその話を自分からは二度と掘らなかった。掘らないでいてくれる人の隣は、話したくなる。

友だちが少ない者同士だった。皇女という立場は、対等な友人を作りにくい。書庫にこもる子どもも同じだ。少ない者同士の友情は、ゆっくり編まれてほどけにくい。二人の茶会は、書庫の隅からやがて王宮の温室に場所を移し、季節にいちどの決まりごとになった。温室の茶会で、プシュケは母仕込みの氷の細工をせがまれるたびに首を振り、アリシアはフルートを吹いた。彼女の演奏の腕は確かだった。曲の合間の話題が、三回に一回フォルシス伯父さまのことになるのも、確かだった。

「フォルシス様は、その、お変わりなくて?」

「はい。眉間の皺も、お変わりなく」

「ふふ。あの皺、素敵ですわよね」

「…………素敵、ですか。あれが」

姫の審美眼は、プシュケには測りかねた。ただアリシアが十二歳の冬、王宮の来客の列の雑踏で転びかけたところを、通りがかった伯父に腕一本で支えられたことがあるらしい、という話は本人から十回以上聞いた。そのすべてで初めて話すという顔で話すのだから、大切な思い出なのだと思う。プシュケはその話を聞くたびに、初めて聞く顔で聞いた。友情にはそういう技術も含まれる。

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九年の終わりごろには、プシュケの読む本はずいぶん古い層に達していた。

近代の医学書は読み尽くした。答えは「原因不明、治療法なし」で動かない。けれど、古い本になればなるほど妙なことが書いてあった。

曰く、あらゆる病を治す華が、世界のどこかに咲く。曰く、それは時間の病すら超えて癒す。永久氷星華——キュラリア。近代の学者はおとぎ話と切り捨てているそれを、古い時代の学者ほど真面目な顔で書き残していた。

おとぎ話に縋るのは、愚かなことだろうか。

でも二十七件の「回復例なし」と、数百年ぶんの「どこかに咲く」なら——まだ誰も、後者を確かめきってはいない。

十四歳の冬、王立書庫の閉館の鐘を聞きながら、プシュケは写し取った伝承の頁を鞄に仕舞って、迷っていたことに決心した。

この足で、あの華の真実を確かめに行こう。

あとは時期と、方法と、あの書斎の扉を叩く勇気だけだった。

皆さんからいただいた時間 192.69Ø
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