学ぶことと、希望を消すこと。あの偉い医師は、二つが同じ方向に進むと言った。でも実際に九年やってみて、少し違うことが分かった。学ぶほど、希望は細くなる。でも細くなるが——正確になる。ぼんやりした「治るかもしれない」は九年かけて、「近代医学の外側にしか、道はない」という細くて硬い一本になった。細い道は絶望に似ている。でも道は道だ。太さと有無は、別の問題だった。
その細い道の名前が、キュラリアだった。
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成星式の日のことは、よく覚えている。
よく晴れた星曜日の昼、王都の大聖堂。十五歳の列に並んで、祭壇の星の紋に手首をかざしたとき、大聖堂の高い高い天井から、鐘の音が雪みたいに降ってきた。授かりし時間を、良く使い、良く分かち、良く休むこと——司式者の声は、九年前母の晶葬の日取りを話し合ったのと同じように、厳かさに聖堂に響いた。同じような響きでも、ぜんぜん違うことが決まる。それが、儀式というものらしかった。
良く使い、良く分かち、良く休む。
紋の上の手首に鐘の音が染みてくるあいだ、プシュケはその三つを、自分の九年に当てはめてみた。使うことなら、していると思う。朝から晩まで、頁と紙とインクに、授かった時間を注ぎ込んできた。使い方の悪い九年では、なかったはずだ。
分かつ——は、少し詰まった。時間を分かち合った相手を数えると、指が余る。伯父と、姫殿下と、屋敷のみんなと。それから、氷の部屋の返事のない人。少ない、のだろうか。少ないのだろう、たぶん世間の秤では。
休む、は——考えて、やめた。休み方は、母が起きたら教わることに決めている。
司式者の声が次の列へ移っていくのを聞きながら、十五歳のプシュケは、そんな計算をひとりで済ませた。
式のあと、家庭教師の魔導師が屋敷で待っていた。九年間、一緒にプシュケの氷を磨いてくれた師である。師は祝いの口上の代わりに、一冊の本を差し出した。
「本日をもって、私の課程は終いです。……今日からは、読む本を、ご自分でお選びください」
九年間、魔法に関する書物だけは師が順番を決めていた。基礎の前に応用を読むと癖がつく——それが師の方針で、プシュケはその方針の下で与えられた順に読んできた。その課程が終わり、魔法の道のどこへ進むか、次の一冊から自分で選ぶ。
その日、プシュケが自分で選んだ最初の一冊は、氷魔法の基礎理論だった。九年やった基礎の、いちばん底の本。師は目を丸くして、それから深く頷いた。
「……良い選択です。基礎に戻れる者だけが、遠くへ行けます」
——遠くへ。ええ、行きます。誰よりも遠くへ。
そして、その足でプシュケは伯父の執務室の扉を叩いた。
フォルシスは、北方の防衛計画の書類に埋もれていた。四十二歳になった伯父は、宰相として王都でいちばん忙しい人のひとりだった。
「伯父さま。お話が、あります」
書類から顔を上げた伯父に、プシュケはまっすぐ言った。
「わたし、やっぱり……お母さまを治す手段を、探したいのです」
時間停止病のこと、キュラリアのこと、古い文献のこと、九年かけて調べたことを、自分が調べてまとめあげた書類とともに、全部話した。子どものおとぎ話と笑われても仕方のない話を、順序立てて証拠を並べ、1つ1つ話した。
伯父は、最後まで一度も口を挟まなかった。
話し終えると、長い、長い沈黙があった。ペンを置く音だけがして、伯父は窓の外をしばらく見ていた。
だめ、と言われると思った。危険すぎる。家格に関わる。おまえは屋敷にいなさい——言われるであろう言葉なら、いくらでも思いついた。
だが伯父の口から出たのは、そのどれでもなかった。
「……三日後に、また来なさい」
予想のしなかった言葉に頭の理解が追い付かず、色々と思案しているうちに、いつの間にか屋敷についていた。
それから、待つだけの三日間は長かった。
不安と、展望と、断られたときの説得の草案。頭の中が忙しすぎて、かえって何も手につかなかった。書庫に入っても頁が進まない。結局、三日間のほとんどを、プシュケは屋敷の奥の氷の部屋で過ごした。
九年間、毎朝「いってきます」を言ってきた部屋である。書庫へ行くだけの日も、王都へ出る日も、行き先と帰る時刻を氷に告げてから出るのがプシュケの決まりだった。だからその三日は、報告の練習をした。もし、許しが出たら。今度のいってきますは、九年ぶんのどれとも違う。行き先は言えても、帰る時刻が言えない。
「……いってきます、を言いに来ました。今度のは、長くなります。王都までじゃ、なくて。……ずっと、遠くまで」
言えたのは、そこまでだった。
必ず見つけます、とは言わなかった。九年の調べものは、安請け合いの重さを教えている。会えなくて寂しい、も言わなかった。言うと、足が鈍る気がした。言えたことと、言えなかったことのあいだに、この旅の理由は全部並んでいた。
氷は、いつもどおり静かだった。九年前から変わらない横顔で、変わらない温度で娘の練習に付き合ってくれた。この静けさに慣れてしまうことが、ずっと一番こわかった。慣れる前に動く、それがこの旅の、いちばん短い言い方かもしれなかった。
三日目の夜、「明日、返事が出ます」と、それだけは本番の声で報告した。
三日後、執務室の机の上には一枚の辞令が置かれていた。
『王立省辺境資源調査。調査員:ダイヤスト・プシュケ。期限:定めず』
「王立省の調査任務だ。国外の立ち入りにも、各地の協力要請にも、これが効く」
伯父は、書類から顔も上げずに言った。
「調査の内容は広く取ってある。……薬草の調査も含まれる」
反対は、しなかった。かといって、行っておいで、とも言わなかった。ただ十五の姪がひとりで世界を歩くために必要な形を、三日で全部整えてあった。
昔からずっと、それがあの人のやさしさの形だった。
あとから、侍女頭にこっそり聞いた話がある。あの三日間、伯父は屋敷に一度も戻らなかった。王都の執務室に灯りがついたまま、三晩。机の上には、プシュケの九年ぶんの調査帳面が積まれていたという。反対する材料を探したのか、送り出す覚悟を作ったのか。……たぶん両方だったのだと思う。あの人の時間は、いつも姪か妹のための時間だ。
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旅立ちの前日には、王宮の温室で最後の茶会があった。
アリシアは旅立ちの話を聞くなり、フルートを膝に置いてしばらく黙った。それから精一杯おしとやかに、精一杯の我儘を言った。
「……本当は、行かないで、と申し上げたいところですけれど。あなたのお母さまのためですものね。……でも条件をひとつだけ。帰ってきたら、旅のお話を、全部わたくしに聞かせること。世界中の花の話と、市場の話と、それから、その……よその国の殿方が、フォルシス様より素敵かどうかも」
「最後の項目は、調査対象に、含めかねます」
「あら。王立省の調査でしょう? 調査の内容は広く取ってある、って伺いましてよ」
姫は辞令の文言まで使用して、悪戯っぽく笑った。それから、笑いの形のまま少しだけ目を潤ませた。
「……プシュケさん。わたくしの初めてのお友だちは、あなたなの。ですから、絶対帰っていらして。約束は破ってはだめよ。皇女命令です」
「……承りました。土産話は、利子をつけて」
方向音痴の姫は、また帰り道に温室の出口で早速迷いかけて、プシュケに袖を引かれて正しい廊下に戻った。この人の見送りはこれでいい。湿っぽい別れの代わりに、いつもどおりの迷子。それが、二人の正しい締めくくりなのかもしれない。
旅立ちの朝は、夏が終わりに近付き、少し肌寒くなり始めていた。
門の前で、プシュケは二つのものを受け取った。
ひとつは、母の形見の髪飾り。翡翠色の布地に、白銀の細工。眠る前の母が、最後の誕生日に「いつか、あなたに」と言っていたものだ。侍女頭が泣きながら、プシュケの髪に結ってくれた。
「お嬢さま。……お嬢さまは、覚えておいでではないでしょうが」
結い終えた侍女頭は、鼻をすすりながら言った。
「奥さまはよく、仰っていました。『この子は、わたしより遠くまで行く子よ』と。……行ってらっしゃいませ。どうか、ご無事で」
使用人たちが、門までの道に並んでいた。料理長は包みいっぱいの携行食を持たせようとしてくれたが、本が入らなくなるので半分にしてもらった。庭師は「氷の薔薇の作り方、奥さま直伝のやつをいつか見せてくだせえ」と笑った。
もうひとつは——伯父の手から、直接。
「手を」
言われるまま右手を出すと、てのひらに硬いものが載せられた。
指輪だった。飾り気のない、けれど見る人が見れば分かる高純度の魔核が、小さくはめ込まれている。ダイヤスト家の当主代行が、公務で使う印章指輪の予備。
「これは……」
「持っていけ。困ったら、それを見せて私の名前を出せ。王国の中なら、大抵のことはなんとかなる」
「……伯父さま、あの」
「行ってこい」
九年ぶんの見舞いと、十五年ぶんの注いだ愛が、全部その五文字に畳まれていた。
それだけだった。
それだけ言って、伯父はもう背を向けて屋敷へ歩き出していた。その背中が、いつもより少しだけ硬かった。振り向かないまま少し片手を上げたのが、見送りの全部だった。
プシュケは指輪を握りしめて、頭を下げて歩き出した。
王都の大通りは、いつもと変わらない日常があった。市場の呼び込み、教会の鐘、行き交うソリの鈴の音。十五年間、書庫と屋敷のあいだで聞いてきた王都の音を、プシュケは一つずつ耳にしまいながら歩いた。
門で衛兵に辞令を見せた。若い衛兵は書面と小柄なプシュケを三度見比べ、隊長らしき年配の衛兵に伺いを立て、年配のほうは書面の署名を見るなり背筋を伸ばした。
「——ダイヤスト卿の。……お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
若いほうの衛兵が、小声で「気をつけてな、嬢ちゃん。東の街道、最近ちと物騒だ」と書面と関係のない親切を付け足した。
伯父の名前は、扉をこんなふうに開けるのかと思った。ありがたくて、少しだけ複雑だった。いつかは自分の名前で扉を開けたいみたい、そういう風にも感じた。
王都の門を出るとき、一度だけ振り返った。
白い家々の壁。遠くに屋敷のある丘。あの奥の静かな部屋で、母は今日も眠っている。
(行ってきます。……つづきを、取り戻しに)
胸に手を当てて、前を向いて一歩目を踏み出した。