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CHAPTER II 第25話 火起こしと猫
Ourhour-Traveler

第25話 火起こしと猫

第二章 銀色の書庫 編

野営には、自信があった。

出発前に、プシュケは野営術の本を三冊読み込んである。設営に適した地形の選び、風向きと焚き火の位置関係、夜露を避ける寝具の張り方、獣避けの基本……。どの本の記述も頭に入っているし、実際野営地の選定でキーラに感心されたばかりだ

「プシュケちゃん、それどこで習ったの!?」

「本です」

問題は、ひとつだけあった。

「…………」

かち。かち。かち。

火打ち石が、鳴る。鳴るだけでなにも起きない。

かち。かち。

「…………むぅ」

プシュケの手元では、三十分前から火が起きていなかった。

理屈は完璧に分かっている。火口に火花を落とし、着いた火種を息で育て、細い枝から太い枝へ移す。手順は本のとおり。角度も本のとおり。なのに火花は明後日の方向へ飛び、たまに火口に落ちても、育つ前に、フ……と消える。

つくづく思う。実践はいつも本の少し外側にある。外側の広さを、旅は毎日律儀に教えてくる。

「プシュケちゃーん、お鍋の水汲んでき……あ」

戻ってきたキーラが、状況を一目で見て取った。プシュケの前の、火のついていない焚き付け。散らばった火花の跡。プシュケの、無表情の奥の敗北感。

「か、代わろっか」

「……お願い、します」

キーラは一分で火を着けた。

かち、かち、ぼ。それだけだった。魔法ですらなく、ただの手際だった。

「氷の魔法が使えるってことは、その、あれだよね。火はどうしても相性が」

「関係ありません。火起こしは技術です。技術は、習得できるはずです…。」

「そ、そうだね?」

私の体は物心つく前から、指先で「冷やす」ことに最適化されている。温度を下げる感覚は呼吸のように分かるのに、上げる方向の想像がどうにもできない…。

もやもやとした気持ちでそんなことを考えていると、クスッとキーラが笑った。

「氷が出せるのに火花が出せないの、ちょっと面白いよね」

「面白く、ありません」

その夜、プシュケは焚き火のそばで荷物から一冊の本を取り出し、無言で読みはじめた。

その本の頁には『野外実践術・火おこしの章』とあった。四冊目であった。

「……プシュケちゃんって、負けず嫌い?」

「…………事実の、確認をしています」

「四冊目の事実確認だ……」

キーラはなにか言いたそうな顔をして、結局笑いを噛み殺しながら鍋をかき回していた。

✦ ✦ ✦

かわりに、と言ってはなんだけれど、プシュケにはプシュケの仕事があった。

「保存の氷、お願いしまーす」

「はい」

指先をかざすと、買い込んだ肉と川魚が、薄い氷の膜にくるまれていく。

冷結チル——氷魔法のいちばん初歩を、薄く長持ちするように調整したものだ。これで夏場の街道でも、食材が三日は保つ。

こういった魔法を魔物に向けて放つ場合、それなりの時間を消費するが、この程度であれば微々たるものなのでそこまで気にならなかった。

「飲み水もお願いしまーす」

「はい」

椀に張った水をいったん凍らせて、ゆっくり溶かす。凍るときに濁りが押し出されるから、川の水でも澄んだ飲み水になる。これも本で読んだ知識だけれど、こちらは実践でも、ちゃんと役に立った。

「氷魔法って、便利だねえ……。戦うだけじゃないんだ」

「魔法は、暮らしの道具です。……本には、そう書いてありました」

「プシュケちゃんの『本には』、当たり外れが激しいんだよね」

「火おこしの本のことは、忘れてください」

「あとね、これも! 見て、プシュケちゃんの氷で冷やした果実水! 川で冷やすより、ずっと冷たい!」

「温度管理は、氷属性の基本です」

「基本で、こんなにおいしくなるんだ……。ね、夏の市場でこれ売ったら、大儲けじゃない?」

「わたしを、商材にしないでください」

「商材じゃなくて、共同経営者!」

「……肩書きが、上がりました」

二人の役割分担は、自然と決まっていった。火と料理はキーラ、保存と水はプシュケ。設営は二人で、見張りは交代で。歩幅の違うふたり旅は、そうやって少しずつ形になっていった。

分担というものを、プシュケは今まで効率の道具だと思っていた。得意を持ち寄れば総和が増える、それだけの算術だと。でも実際に回してみると、算術の外側に妙な効能があった。キーラの起こした火で、プシュケの冷やした水を飲む。そのとき、火も水も、一人のときより少しだけ美味しい。その理屈は、まだ見つかっていない。プシュケにとってこの旅は、嬉しいわからないことだらけだった。

✦ ✦ ✦

その宿場町に寄ったのは、ただの補給のつもりだった。

予定では、昼食をとってすぐ発つはずだった。

予定を狂わせたのは、猫だった。

「…………あの。キーラさん」

「ん? ……ぷっ」

食堂の椅子に座ったプシュケの膝の上に、猫がいた。

大きい。異様に大きい。座布団くらいある。宿の看板猫で、名前をムスタというらしい。その巨体が当然の顔でプシュケの膝によじ登り、当然の顔で丸くなり、当然の顔で寝た。

「はっはっは、そいつはムスタだ。うちの看板猫でね」

盆を運んできた宿の主人が、愉快そうに解説した。

「先代の宿主のころからいる主でな。客の膝を選んで乗るんだ。滅多に乗らんのだが……嬢ちゃん、選ばれたねえ」

「え、選ばれても…」

「降ろすかい? ただし引っ掻かれた客が、先月三人」

選択肢は、ないらしかった。

「お、降りて、いただけますか」

一応、膝の上の猫にも交渉してみたが、やはり動かなかった。

「猫は好きですが、……お、重いです」

猫は、喉を鳴らした。ぐるぐる、ぐるぐる。膝の上で、あたたかい毛皮のかたまりが、規則正しく上下している。

プシュケは、助けを求めてキーラを見た。キーラは頬杖をついて、にこにこしていた。助ける気は、なさそうだ。

「宿の人が言ってたよ。ムスタが膝に乗るのは、気に入った人だけなんだって」

「……そう、ですか」

「うん。……プシュケちゃん、さっきから尻尾ばっかり見てるね」

「見て、いません」

見ていた。ゆらり、ゆらりと揺れる縞模様の尻尾は、とても惹かれる動きをしていた。それに耳。呼びかけると、ピコとこちらを向く。

そっと、背中に手を置いてみた。あたたかかった。毛は見た目より柔らかくて、てのひらの下でぐるぐるが大きくなった。

「猫って、こんなになつくんだね〜。うちの市場のワーキャットは、餌のときだけ愛想いいのに。……ふふ」

キーラはお茶を一口飲んで、それからしみじみと言った。

「猫も、プシュケちゃんも、可愛い」

「…………それほどでも、ないですよ」

言ってから、返事を間違えたことに気づいた。猫が、の部分にだけ答えればよかったのに。

キーラがきょとんとして、それからゆっくりニヤニヤしはじめる。プシュケは、自分の耳が熱くなっていくのが分かった。見なくても分かった。この耳は、昔からそうなのだ。顔は取り繕えるのに、耳だけが正直に赤くなる。

「み、見ないで、ください」

「見てないよ〜」

見ていた。絶対に見ていた。

結局、ムスタが自主的に起きるまで二時間かかった。二時間、プシュケは膝を貸して、キーラはお茶を三杯おかわりして、旅の予定はまるっと午後半日ぶん遅れた。

だが、不思議と惜しいとは思わなかった。

✦ ✦ ✦

翌日、遅れを取り戻すついでに、ギルドの依頼をひとつ受けた。

『街道脇のヒトクイソウ群生の駆除。報酬20Ø』

現場は、宿場町の東の草地だった。黒い実のような本体を葉で包んだ植物の魔物が、街道に沿って十数株。旅人が何人か、蔓に絡まれて荷物を落としたらしい。

「けっこう、数いるね……。一株ずつ突くと、蔓が伸びてきて面倒なんだよなあ」

「キーラさん。ひとつ、試したいことが、あります」

プシュケは一歩前に出て、青い結晶が施された銀色の錫杖を、群生に向けた。

「わたしが凍らせます。凍ったところを——」

「……砕く!? なるほど、それ!」

詠唱は、短く。

「——氷華フリーズ」

足元から冷気が走り、群生の一帯が、ぱき、ぱきぱき、と音を立てて白く染まった。蔓も、葉も、黒い本体も、氷の彫刻のように動きを止める。

「キーラさん、いまです」

「まっかせて——!」

風を纏った槍が、走った。

凍ったヒトクイソウは突きが触れるたび、ぱあん、と小気味よく砕けた。一株、二株、三株。キーラの槍は止まらない。凍っているから蔓は伸びてこない。砕けるから二度と戻らない。プシュケは追加の冷気で凍りの浅い株を固め、キーラがそれを砕いていく。

十数株の群生は十五分とかからず、きらきらした氷の欠片に変わった。

「な……なにこれ! なにこれ、プシュケちゃん! 最強じゃない!?」

キーラが興奮して駆け戻ってくる。プシュケは、砕け散った氷が陽の光で虹色に光るのを眺めながら、胸の中で静かに同じことを思っていた。

わたしの氷は、止めることしかできない。キーラさんの風は、押すことしかできない。でも、ふたつ合わせると——終わらせることができる。

「……いまの」

言葉を探した。上からに聞こえない言葉。ちゃんと、気持ちの大きさのままの言葉。

「すごく、良かった、です」

「でしょ!? ね、名前つけようよ、今の連携! 『凍らせて、砕く』!」

「そのまま、ですね……」

「そのままが一番強いの!」

その帰り道、キーラは上機嫌で戦いを身振り付きで三回再現した。三回目に、プシュケはふと思い出して、言った。

「そういえば。キーラさんの、その風の魔法」

「ん? これ? 名前も知らないんだよね。ラースさんに聞きそびれちゃって」

「——槍風ウィンドスピア、だと思います。風属性の三級。得物に風を纏わせて、突きの威力を上げる魔法。……本で、読みました」

キーラは目をまん丸にして、それから自分の槍を見た。

「ウィンドスピア……そっか。君、そういう名前だったんだ」

槍に名前を教えてあげているキーラを見て、プシュケは思った。

この人との旅は、きっと退屈しない。

本で読んだ知識が誰かの役に立って、誰かの声で「すごい」と言われる。そんな日が来るなんて、王都の書斎では考えたこともなかった。

皆さんからいただいた時間 195.31Ø
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