リブロンへの道半ばの宿場町で、キーラが掲示板の前から動かなくなった。
「プシュケちゃん、見て見て。いい依頼がある」
『増水で流された渡し場の荷の回収。急ぎ。報酬30Ø+回収物に応じて上乗せ。フェルデの渡し』
「三日前の大雨でね、渡し場の桟橋ごと、荷が川に流されちゃったんだって。さっき食堂で聞いた。で、これ、わたしたち向きだと思うの」
「……水辺の回収作業。たしかに、氷は役に立ちそうですが」
プシュケは、依頼票の隅の注意書きを指した。
「『受注は登録冒険者に限る』と、あります。キーラさんは登録済みですが、わたしは」
「うん。だからね」
キーラはにっこり笑って、ギルド出張所の扉を指した。
「プシュケちゃんも、登録しよう!」
✦ ✦ ✦
冒険者登録というものを、プシュケは書物の知識でしか知らなかった。
実物の手続きは、思ったよりずっと簡素だった。用紙が一枚。名前、出身、得意分野。それだけ。
そして、プシュケのペンは、三つ目の欄で止まった。
「……キーラさん。『得意分野』とは、何を書くものですか」
「わたしのときは『雑用全般』って教わったよ。プシュケちゃんは魔法があるから、『氷魔法』でいいんじゃない?」
「氷魔法……」
書きかけて、また止まる。氷魔法の四級、事実だ。事実だがこの欄に書くと、なんだか自分の全部がそれだけになる気がした。プシュケは少し考えて、結局こう書いた。
『氷魔法。調べもの。読書』
受付の中年の男性は、用紙を受け取ると眉をひょいと上げた。
「読書、ときたか。初めて見たよ、この欄に読書と書く冒険者は」
「……不適切、でしたか」
「いいや? 依頼にはね、たまーに『古い手紙を読んでほしい』とか『亡くなった親父の帳簿を整理してほしい』なんてのも来る。文字を読むのが得意な冒険者ってのは、実のところ貴重なのさ。——はい、仮登録証」
木の札には、焼き印と、インクの名前。『プシュケ(ストラル出身)』。
家名は書かなかった。
書こうとしてやめたのだ。辞令と指輪は、伯父の名前で開く扉だ。それはそれで大事に使う。でもこの木札は——初めて自分の名前だけで持つ、自分の身分だった。ダイヤストの名前ではなく、プシュケという個人が、この札の全部だった。手のひらの上の軽い木片が、妙に誇らしかった。
そしてプシュケは受付の人と握手をして、捻って登録料を支払った。
「登録料は2Ø。それと、決まりだから一応聞くが……戦闘の心得は? 依頼の割り振りの参考にする」
「氷魔法を、少々」
「少々ね。じゃあ最下級の依頼から——」
「受付さん、受付さん」
横から、キーラが口を挟んだ。にこにこしながら。
「この子の『少々』、四級ですよ」
「よ、よんきゅう!?」
受付の男性は、プシュケと用紙を三度見比べて、それから震える手で、登録簿の「心得」の欄に二重丸を三つつけた。あとで知ったことだが、この出張所の登録簿に二重丸が三つ並んだのは、開設以来二人目だったという。
「キ、キーラさん。言わなくても、よかったのでは」
「だーめ。実力は正しく申告! じゃないと、危ない依頼のとき、ギルドが人選を間違えるでしょ。……それに」
キーラは、小さな声で付け足した。
「プシュケちゃんのすごさ、ちゃんと世界に数えてほしいの。わたしの独り占めじゃ、もったいないから」
「……」
「ふふ。プシュケちゃん、木札、ずっと見てる」
「……見て、いません」
「見てるよ。わたしも最初、そうだったから分かるの」
✦ ✦ ✦
フェルデの渡しへ向かう道すがら、キーラが依頼の心得を講義してくれた。
「依頼でいちばん大事なのはね、着いたらまず依頼主の話をぜんぶ聞くこと。掲示板の紙には、半分しか書いてないの」
「半分、ですか」
「うん。紙に書いてあるのは『何をしてほしいか』。書いてないのは『なんで困ってるか』。……で、本当の仕事は、だいたい後ろのほうに隠れてるの」
なるほど、と思った。本と同じだ。目次に書いてあるのは半分で、本当に大事なことは本文の行間にある。
フェルデの渡しは、町から三十分の川べりにあった。
なるほど、ひどい有様だった。桟橋は根本から折れて下流に引っかかり、渡し守の小屋は泥をかぶり、川辺のあちこちに流された木箱や樽が沈んだり引っかかったりしている。
「来てくれたか、冒険者さん!」
渡し守は日に焼けた初老の男だった。
「荷主が三人いてな。粉屋の粉樽と、荒物屋の金物と……いちばん困っとるのが、嫁入り道具だ」
「嫁入り道具?」
「隣村の娘さんが、来週祝言なんだ。婚礼衣装と、道具一式の長持が、まるごと川ん中よ。あの淵の底に沈んどるのは分かっとるんだが、増水で流れが速くてなあ。潜り手が近づけん」
キーラとプシュケは、顔を見合わせた。
淵は渡し場の下流にあった。水は茶色く濁って渦を巻いている。目を凝らすと、水底に大きな箱の影がぼんやり見えた。
「流れが速いので、潜るのは危険です。……ですが」
プシュケは、川面に手をかざした。
「流れを、止めてしまえばいい」
✦ ✦ ✦
作戦は、三段構えになった。
第一段。プシュケが淵の上流側の川面を、岸から岸まで凍らせる。分厚く頑丈に、即席の氷の堰だ。流れは堰を迂回して緩み、淵の水面がみるみる穏やかになる。
「す、すげえ……川が、凍った……」
渡し守が、口を開けたまま固まった。
第二段。緩んだ淵の水面から、プシュケが氷の足場を張り出していく。キーラがその上を、身軽に渡る。
「冷たっ、冷たいけど! 乗れる! プシュケちゃん、ここ、真上!」
「はい。——では、釣り上げます」
第三段が、本番だった。プシュケは淵の底の長持のまわりの水を、ゆっくり凍らせた。氷は水より軽い。長持を抱いた氷塊は、狙いどおり、静かに浮上してくる——はずだった。
「……重い」
浮いて、こない。長持に、泥が噛んでいる。氷の浮力だけでは、足りない。
「キーラさん。追加の浮力を作ります。時間をください」
「りょーかい! ……あ、でも、プシュケちゃん、顔色」
指摘されて気づいた。額に汗。川の一部を凍らせて、足場を張って、水中で氷を練って——消費した時間が、じわりと効いていた。魔法は寿命で撃つ。頭では知り尽くしていたことを、体が教えてくる。
「……問題、ありません。まだ」
「だめ。無理はなし。——ね、逆にしよ」
キーラは氷の足場に膝をついて、水底を覗き込んだ。
「浮かせるんじゃなくて、引っ張るの。プシュケちゃんは長持のまわりだけ、つるつるの氷で包んで。泥と縁を切って、滑る箱にして。引っ張るのは、わたしと風がやる」
滑らせて、引く。押し上げるよりずっと軽い仕事だ。
「……その発想は、ありませんでした」
「市場でね、重い樽は持ち上げないの。転がすの」
プシュケは、残りの集中を包む氷だけに絞った。泥と箱の縁が切れる、かすかな手応え。同時にキーラの槍から縄が伸び——縄の先の鉤が風を纏って、狙った通りに長持の持ち手にかかった。
「——そぉい!!」
風の勢いと、人力と、滑る氷。三つ合わせて、嫁入り道具の長持は、三日ぶりに水面へ帰ってきた。
✦ ✦ ✦
長持の中身は、油紙の包みのおかげでほとんど無事だった。
婚礼衣装を検めた渡し守が、目頭を押さえた。翌日、話を聞いた隣村の娘さんが、わざわざ礼を言いに来て、二人の手を握って泣いた。粉樽は半分だめになっていたが、金物は全部拾えた。報酬は上乗せされて、締めて60Ø。
作業の後半には、川べりにちょっとした人だかりができていた。
川を凍らせる魔導師というのは、宿場町では一生に一度の見世物らしい。子どもたちが氷の堰に長い棒でつついて硬さを確かめ、おかみさんたちが「あの銀髪の子だよ」とささやき、誰かが「王都の宮廷魔導師さまのお忍びかもしれない」と言い出した。
「プシュケちゃん、人気者だ」
「……早く、撤収しましょう」
氷の堰は最後にプシュケが崩して、川に返した。塞いだままでは下流の水が痩せる。砕けた氷が流れに乗って光りながら下っていくのを、子どもたちが歓声を上げて追いかけていった。
「氷、ちゃんと戻してあげるんだ?」
「借りたものは、返します。川の水は、川のものですので」
渡し守がその様子を見て、しみじみと言った。
「……嬢ちゃんの魔法は、いい魔法だなあ。壊すためじゃなくて、助けるための魔法だ」
いい魔法。その言い方を、プシュケは初めて聞いた。魔法に良いも悪いもない——理論書はそう教える。でも、渡し守の言う「いい」は、理論の話ではなかった。使い方の話だった。そしてそれなら、これからいくらでも選べる話だった。
帰り道、キーラが言った。
「初依頼、達成! どうだった? 冒険者のお仕事」
「……本で読んだ『冒険』とは、だいぶ、違いました」
プシュケは正直に答えた。
「竜も、宝も、古代の遺物も出てきません。出てきたのは、泥と、樽と、嫁入り道具で。……でも」
木札を指先で撫でる。
「誰かの祝言が、来週ちゃんと行われます。わたしの氷が、その役に立ちました。……本で読んだどの冒険より、手触りがありました」
「でしょ?」
キーラは自分のことのように、胸を張った。
「世界はだいたい、困りごとでできてるの。だから冒険者は、だいたい、どこでも役に立てるの」
その夜は、宿の食堂でささやかな祝いをした。
「プシュケちゃんの、冒険者デビューに!」
「……仮登録、ですが」
「仮でも本でも、初日は初日! はい、乾杯!」
果実水の杯を合わせて、湯気の立つ川魚の煮込みを分け合った。キーラは上機嫌で、自分の登録初日の話をした。ワーラビットが可愛くて槍が止まった話。ノーラさんという受付の人が親切だった話。探していた猫が、お母さんになっていた話。
「三件こなすと、本登録なの。プシュケちゃんなら、すぐだよ」
「三件……。次は、どんな依頼が、いいでしょうか」
「お、やる気だ」
「登録料の2Øを、回収しなければいけませんので」
「そういうとこ、わたしと気が合うんだよねえ」
その夜、プシュケは心地よい疲労感でベッドについた。