依頼をこなして本登録を済ませた午後、プシュケは歩きながらずっと空を気にしていた。
「曇らないと、いいのですが」
「? 雨の匂いは、しないよ」
「雨では、なくて。……今夜は、その、少し特別な夜なので」
「特別?」
「着いてからの、お楽しみです」
お楽しみ、という言葉を自分が使ったことに、言ってから驚いた。キーラは目を輝かせて、それから律儀に日暮れまで一度も中身を聞かなかった。しかしずっとそわそわして、何回も空を見上げていた。
その夜の野営地を選んだのは、プシュケだった。
「今夜は、丘の上が、いいです」
「え、めずらしい。プシュケちゃん、いつもは風のこない窪地派なのに」
「今夜だけは、空の開けた場所に、価値があります」
理由は、日が落ちてから分かった。
「キーラさん。……そろそろです。火を、少し小さくしてください」
焚き火を絞って、二人で丘の草の上に毛布を敷いて寝転がる。夜空には雲ひとつなかった。星が、夜天いっぱいにぎっしりと撒かれている。
「わ、すごい星……って、いつもよりすごくない? 今夜」
「まだです。……もう少し」
「もう少しって、何が——あ、待って、当てる。今夜、星の市が立つ!」
「立ちません。空に市は」
「えー、じゃあ…」
夜食の堅焼き菓子を齧りながら、当てっこはしばらく続いた。プシュケは頑として答えを言わず、キーラは十三個目の珍説「星の魚が泳ぐ」を唱えたところで——
それは始まった。
一筋、天頂から光が流れた。
「あっ」
二筋、三筋。続けざまに四筋目が長く尾を引いて、東の空へ消えた。
「流れ星!? え、え、いっぱい!?」
「流星群です。今夜が、いちばん多く流れる夜です。天文年鑑の計算では、一時間に四十は流れるはずです」
「よんじゅう!?」
キーラは跳ね起きて正座し、夜空に向かって身構えた。
「ね、ね、流れ星って、消える前に願いごとを言うと叶うんだよね!?」
「……民間伝承では、そう言われています。根拠となる文献は」
「文献はいいの! 来る、来るよ、ほら——あっ、流れた! え、えっと、しょうば……あーっ、消えた!」
「早口の練習が、要りますね」
✦ ✦ ✦
しばらく、二人で流れ星を数えた。
キーラは十二回挑戦して、十二回とも願いごとを言い切れなかった。どうやら「商売繁盛」と言いたかったらしいが、「商売はん」までしか言えなかったらしい。
「ぐぬぬ……。ね、プシュケちゃん、短くする作戦を考えた。願いを一文字にするの」
「一文字」
「『商』! これなら間に合う!」
「星の側の、解釈力に期待しすぎです」
「じゃあ二文字で『繁盛』……あっ、流れた——『はんじょ』——うああ、『う』が言えなかった!」
「惜しい、です。今のは、惜しかった」
「でしょ!? ね、今の、九割言えたよね!? じゃあ九割ぶん繁盛してくれないかな??」
では九割ぶんの願いは叶うのか、という難問を残しつつ、挑戦は続いた。プシュケは数えるほうに回って、記録帳に正の字を刻んだ。二十六。二十七。
「そういえば。願いごとを他人に聞かれると、叶わなくなる、という説もあります」
「えっ!? 早く言ってよ!?」
「民間伝承です。文献的な根拠は」
「文献はいいの!! もーっ、じゃあ心の中で言う!」
それからのキーラは、流れ星のたびに目をぎゅっとつぶって、口をもごもごさせた。声に出すより、明らかに間に合っていなかった。指摘はしないでおいた。
「ね、ストラルでも、流れ星って見えるの?」
「見えます。ストラルの冬の星は、たぶん、世界一です」
聞かれて、するすると言葉が出た。
「空気が凍るほど冷えた夜は、星が滲まないんです。ひとつひとつが、針の先みたいに鋭くて。雪原に立つと、空の星と雪に映る反射で上も下も光っていて。……子どものころ、母とよく屋敷の窓から数えました。『百まで数えたら寝ましょうね』と言って、母のほうが先に、六十くらいで寝てしまうんです」
「ふふ、お母さま、かわいい」
「はい、かわいい人でした。……いえ、今もです」
現在形が、自然に出た。出たことにあとから気づいた。
「じゃあさ、いつかストラルに行ったら、冬の星、案内してね。世界一のやつ」
「……はい。約束します。上着を、三枚着てきてください」
「三枚!?」
「プシュケちゃんは、願いごとしないの?」
「わたしの願いは、長いので。流れ星の速度では、載りきりません」
「あー……たしかに。『母の時間停止病を治すためにキュラリアを』……うん、絶対間に合わない」
「なので、荷物は星に頼まず、自分の足で運びます」
「かっこいいなあ、もう」
キーラは笑って、それからふと真顔になった。
「……ときどき、忘れそうになるんだけどさ。プシュケちゃんって、わたしより二つも年下なんだよね」
「……二つしか、違いません」
「二つも、だよ」
言い返す理屈は、いくつか思いついた。年齢と実務能力に相関はない、という話。書庫の九年は、年数に換算して加点すべきだ、という話。どれも、キーラの声があんまりやわらかかったので、口にする前にやめた。家名も、魔法も、当主代行も抜きにして、ただの年下の子として扱われるのは——妙にくすぐったかったが、悪い気はしなかった。
それからキーラは、寝転がったまま聞いた。
「ねえ。星って、ほんとは何なんだろうね」
プシュケは、少し黙った。
「……大半の人は、星は神さまだと、考えています。大星典も、そう読みとれるように書かれています。『宙に舞う星々の神は』——と」
「プシュケちゃんは、どう思ってるの?」
「分かりません」
正直に答えた。
「本を、たくさん読みました。星の動きを計算する本も、星に祈る本も。どちらの本も、それぞれに筋が通っていて。……ただ」
流れ星がまた一筋、二人の頭上を渡った。
「星が神さまでも、ただの光でも——見上げた人間が何かを願ってしまうことだけは、どの本でも同じでした。千年以上も前の記録にも、流れ星への願いごとが刻まれています。まだ王国も帝国もなかったころの人が、わたしたちと同じことをしていた」
「へえ……。なんか、いいね、それ」
「はい。……わたしも、いいと思います。理屈では、ないのですが」
✦ ✦ ✦
「星座の名前とかも、詳しいの? プシュケちゃん」
「ひととおりは。……ほら、あの、南の低いところの明るい四つ。あれが『渡し守』。その左上の連なりが『大鎌』。北の、少し赤いのを含む六つが——」
「待って待って、早い早い! えっと、渡し守が……どれ!?」
「南の。低い。明るい四つ」
「……ぜんぶ明るく見える」
「…………では、初級から。いちばん明るい、あの星。あれだけ、覚えてください。『導きの星』。一年中、北にいます。迷ったら、あの星を探せば、北が分かります」
「おおー! 実用的! 好き、そういうの!」
キーラは導きの星を、指で三回なぞって覚えた。旅人の星の覚え方は、綺麗な順ではなく役に立つ順らしかった。
「あのね。ラースさんもね、星の話、してたんだ」
キーラが、ふと思い出したように言った。
「宴の夜にね、窓の外を見て、『星が、綺麗な夜だ』って。……それがね、その日いちばん、静かな声だったの。旅の話をしてるときとも、リンゴの話をしてるときとも、違う声。……なんでだろうって、ときどき思い出す」
「……その方は、謎の多い方ですね。聞くたびに、思います」
「うん。謎だらけ。でも——」
キーラは両手を空に伸ばして、星をつかむ真似をした。
「またどこかで会うかもね、って言ってたから。会ったら聞くの。あの夜、星を見て何を考えてたんですかって。聞きたいことリスト、もう二十個くらいあるんだ」
「二十個。……多いですね」
「増える一方なの。困る」
困る、と言う顔が、ちっとも困っていなかった。
プシュケは記録帳の正の字の横に、今夜の話のメモを小さく取った。何に役立つかわからないが、分からないメモほど後で効くことを、九年間の書庫が教えてくれていた。
✦ ✦ ✦
夜半、丘の下の街道を、遅い旅の一団が通りかかった。
灯りに気づいたのか、男性の声が丘に届いた。
「今夜は星降りだ。急ぎでないなら、見ておきな。十二年ぶんの御利益だ」
彼らはベレスト教国から来た、巡礼の一行らしかった。彼らは丘の反対側の斜面に座って、しばらく静かに星を見上げていた。祈りの声が、風に切れ切れに乗ってくる。
「……あの人たちも、星に祈ってる」
「はい。祈る人にとって、今夜は、神さまがいちばん近い夜ですから」
「じゃあ、今夜の空って、混んでるんだね。世界中の願いごとで」
「……詩人ですね、キーラさんは」
「えへへ」
巡礼たちは、流星群の峠を超えた後に発っていった。去り際、男性がこちらの丘に向かって小さく会釈をした。星を見る者同士の、それだけの挨拶だった。それだけの挨拶が、旅の夜には妙に沁みた。
流星群も終盤に差し掛かるころ、キーラは毛布にくるまったまま、うとうとしはじめた。
「……ぷしゅけひゃん」
「言葉が、溶けています」
「最後に、ひとつだけ……。星が神さまでさ、十二人の従者がいてさ……そのお話が、ほんとだったらさ」
寝言の一歩手前の声で、キーラは言った。
「神さまは、いま、どこにいるんだろうね……」
返事をする前に、寝息が聞こえた。
プシュケはキーラの毛布を直してやってから、もう少しだけ一人で星を見た。
神さまは、いまどこにいるのか。子どもみたいな問いだ。子どもみたいな問いは、たいてい、学者が答えられない問いでもある。大星典は創造の順序を語るけれど、創造のあとの神々の行方については、全くと言っていいほど語られていない。
(……いつか。この旅のどこかで)
(その頁の続きを、見つけられたら)
流れ星が最後にもう一筋、音もなく世界を横切った。プシュケは願いごとを言わなかった。かわりに記録帳を閉じて、隣の寝息に小さく「おやすみなさい」と言った。
✦ ✦ ✦
翌朝、キーラは跳ね起きるなり宣言した。
「夢の中でね! 願いごと、最後まで言えた!!」
「……夢の中の流れ星に、ですか」
「うん! 『商売繁盛と、みんな元気で、旅が楽しくて、ごはんがおいしくて、あとプシュケちゃんの探しものが見つかりますように』って! ぜんぶ!」
「…………長いです。それは、間に合いません。夢で、よかったです」
「あ、ひどい!」
言い合いながら、朝の荷造りをして丘を下りる。
下りながら、プシュケは考えていた。夢の中の願いごとの、最後のひとつのことを。自分の商売と、ごはんと、旅の楽しさの並びに当然の顔をして入っていた、わたしの探しもののことを。
(……夢の中でくらい、自分のことだけ、願えばいいのに。まったく……そういう人だから。……そういう人と、歩いているから)
昨夜の正の字は、四十三で終わっていた。天文年鑑の予測より、三つ多かった。今年の星は、少しだけ大盤振る舞いだったらしい。