リブロンまであと数日、という日の昼。
その村に寄る予定はなかったが、街道沿いの小さな村の入り口で、井戸端の女たちの話し声がプシュケの耳に引っかかった。
「——今日も熱が下がらないんだと、粉屋のとこの坊や」
「薬師さまは、隣町だろう。呼びに走っても、往復で二日だよ」
「行商の薬も、効かなかったらしいじゃないか。かわいそうにねえ」
足が、止まっていた。
熱が長引けば、体は時間を削って戦う。都の魔石ポーションなら、その消耗ごと支えられる——が、あの金色の小瓶は、この村の粉屋が一カ月働いてやっと一本買えるかどうかの値段だ。だからこういう村には、薬草の知恵がある。
「プシュケちゃん?」
「……キーラさん。少しだけ、寄り道を、しても」
「もちろん」
キーラは理由も聞かずに頷き、その後「で、どこ行くの?」と聞いた。
順番が逆である、のがこの人だった。プシュケの寄り道はいつも理由がしっかりしており、理由の中身は歩きながら聞くほうが早い——この1週間の旅で身についた、キーラなりのプシュケの取扱いだった。
井戸端への切り込みは、キーラが担当した。
「こんにちはー! 旅の者です。お水、一杯いただいても? ……あ、そういえばさっき、坊やの熱のお話が聞こえたんですけど」
三分後には、事情の全部が聞き出されていた。粉屋の五歳の一人息子。熱が出て四日。薬師は隣町。行商の熱冷ましは効かず、今朝からは水も細くなってきている——母親のリタさんは、三晩寝ていない。
「あのね、おばさんたち。私の仲間、薬草にすっごく詳しいんです。診るだけでも、診せてもらえませんか」
『仲間』と紹介されたプシュケは、井戸端の視線を一身に受けて、深めに頭を下げた。よそ者の、しかも小娘だ。信用されるかどうか——
「……銀の髪の、氷の嬢ちゃんかい」
年かさのおばあさんが、目を細めた。
「フェルデの渡しの、嫁入り道具の。……噂は、川より速く流れるんだよ。頼めるかね、うちの村の坊やも」
✦ ✦ ✦
粉屋の家は、村の水車小屋の隣にあった。
熱を出しているのは、五つになる男の子だった。頬が赤く、呼吸が浅い。母親は憔悴しきっていたが、プシュケたちが旅の者だと知ると、藁にもすがる目になった。
「お医者さまでは、ないのですが……薬草の心得は、あります。診せていただけますか? 症状は、いつから、どんなふうに始まりましたか。……最初から、ゆっくりでいいので、順番に教えてください」
母親のリタさんの話は、あちこちに飛んだ。しかし三晩寝ていない人なので、無理もない。プシュケは急かさず、記録帳に時系列を並べ直しながら聞いた。四日前の夕方から発熱。二日目に行商の薬。三日目の夜がいちばん高熱。今朝から食欲なし、水は少し。
「食べたものは。四日前の、昼」
「え……ひ、昼? ええと、確か、川で従兄弟たちと遊んで、帰りに……」
「川。……分かりました」
枕元に膝をついて、プシュケは九年間の書庫を頭の中で開いた。
熱。四日目。咳は、浅い。喉の腫れは——ある。舌の色。目の充血はなし。汗の出方。手足の先の温度。読んだ医書の頁が一枚ずつめくれていき、症状の組み合わせが絞られていく。
「……喉の熱病だと、思います。この年頃の子が、季節の変わり目にかかるものです。命に関わる型では、ありません。ただ、熱が長引くと体力を削られます。解熱と、喉の炎症を抑える薬草が、要ります」
「や、薬草って、どんな」
「一番効くフリムベル——は、この辺りには自生しません。代わりに」
頭の中の薬草図譜と、この三日間で見た街道の植生を突き合わせる。
「川辺に、ヤナギの若木がありましたね。あの樹皮。それと、湿った土手に生えるニガハッカの葉。あとは、蜂蜜があれば」
「ヤ、ヤナギとニガハッカなら、そこの川に……蜂蜜はうちにあります!」
「では——キーラさん」
「まっかせて! 採ってくる! 場所、教えて!」
✦ ✦ ✦
それからの三十分は、二人の共同作業だった。
キーラが川辺を駆け回って材料を集め、プシュケが台所を借りて薬を作る。ヤナギの樹皮を削いで、細かく刻んで煮出す。ニガハッカの葉は、すり潰して蜂蜜と練る。煮出した汁は布で三度漉して、湯冷ましで割る。
「プシュケちゃん、手つきが薬師さんだ……」
「王宮の温室では、色々な植物がありましたので。……姫からお借りして、書いてあることは、一通り試しました」
「あの……ほんとうに、その辺の草で、薬になるんですか」
リタさんの声には、不安が滲んでいた。無理もない。行商から買った、ちゃんとした包み紙の薬が効かなかったのだ。川辺の木の皮がそれに勝るとは……。
「なります。……というより、行商の熱冷ましの中身も、元をたどれば、だいたいこのヤナギです」
プシュケは、煮出しの火加減を見ながら続けた。
「薬草を挽いて、固めて、包むと、薬になります。お店で売られている薬は、手間と包み紙のぶん、値段が上がります。でも、効き目の芯は同じです。……ただし、生の薬草は、量の加減がすべてです。多すぎれば毒、少なすぎれば水。そこだけは、素人仕事では、危ない」
「じゃ、じゃあ、嬢ちゃんは」
「量は、九年ぶん、本で読みました。……大丈夫です。任せてください」
任せてください、と他人に言ったのは生まれて初めてかもしれなかった。言ってみると、その言葉は思ったより背筋の伸びる言葉だった。
苦い薬湯を、男の子は嫌がった。当然である。五歳の子供に、ヤナギの煮出し汁は罰に等しい。
「にがいの、やだ……」
「……ですよね」
プシュケは少し考えて、それから氷魔法をほんの一滴だけ使った。指先で、薬湯の入った椀の縁を撫でる。
「これで、冷たくなりました。冷たいと、苦味は、少し隠れます。それと」
ニガハッカの蜂蜜練りを、匙の先にほんの少し。
「お薬の、あとに。甘いのを、あげます。……順番の約束が、できますか」
「…………できる」
男の子は椀を両手で持って、鼻をつまんで一息に飲んだ。それから約束の蜂蜜を舐めて、「……あまい」と呟いて、少しだけ笑った。
✦ ✦ ✦
薬湯を飲ませて様子を見るあいだ、キーラは台所でリタさんに粥の炊き方を仕込んでいた。
「熱のあとはね、とろとろ粥がいいの。米を炒ってから炊くと、消化にいいんです。あと、ちょっとだけ塩」
「お、お客さまに、そんな」
「お客じゃないですよ、通りすがりです。通りすがりは、台所を借りたら粥を炊くものなんです」
そんな決まりは、世界のどこにもない。ないが、リタさんは四日ぶりに、少しだけ笑った。三晩寝ていない人を笑わせるのも、たぶん薬の一種だった。
熱は、夕方には下がりはじめた。
峠を越えた、とプシュケは判断した。あとは温かくして、水分を摂って眠ること。作り置いた薬湯の使い方と、ぶり返したときの見分け方を、母親に紙に書いて渡した。
「お代を……お代を、払わせてください。うち、貧乏だけど、でも」
「では、1Øで」
プシュケは即答した。
即答できたのには、理由がある。実は昨日、ちょうどキーラに教わったばかりだったのだ。「タダはだめなの。もらいすぎも、だめ。タダだと相手が借りを背負っちゃうし、もらいすぎると、次に困ったとき、人を呼べなくなるから。『ちょうどいい安さ』が、いちばんの親切」——商人の家の、施しの作法である。
「そ、そんな。薬師さまなら、この手間は10Øは」
「わたしは薬師ではなく、通りすがりの旅の者なので、1Øで充分です。……それより」
男の子の枕元の、木彫りの兵隊さんを指す。
「あの子が元気になったら、あの兵隊さんの隊列を、また並べさせてあげてください。四日間、出撃待ちのようでしたので」
母親は泣き笑いの顔で、何度も頭を下げた。
その夜は、村長の家に泊めてもらった。
日が暮れてから発つ旅人を、村が放っておかなかったのである。夕食時には、村じゅうから持ち寄りの皿が集まった。芋の煮っころがし、川魚の塩焼き、誰かの家の漬物。井戸端のおばあさんは「氷の嬢ちゃんの噂、ちゃんと次の村にも流しといたげるからね」と請け合った。
「旅のお方。明日の朝、水車小屋の粉を、少し持っておいき。堅焼き菓子とやらの粉に、うちの粉は最高だよ」
粉屋の主人——男の子の父親はそう言って、深々と頭を下げた。
翌朝村を出るとき、粉屋の二階の窓が、がたりと開いた。
「ねえちゃんたちー!!」
熱の下がった顔が窓から身を乗り出して、ぶんぶんと手を振っていた。枕元の木彫りの兵隊が、窓枠に一列に並べてあった。出撃済みらしい。
「もう寝てなさーい!!」
キーラが叫び返し、男の子は笑いながら母親に窓から引っ剥がされた。
✦ ✦ ✦
村を出る道で、キーラはしばらく黙って歩いていた。
めずらしいことだった。この人の沈黙は、たいてい三歩と続かない。
「……キーラさん?」
「んー。……ちょっとだけ、考えてた」
キーラは、澄み切った空を見上げて言った。
「プシュケちゃんの九年間ってさ。お母さんのために、調べて調べて、調べ続けた九年間なんだよね。お母さんの病気は、まだ治せてないけど」
「……はい」
「でも、今日の男の子は、治った。プシュケちゃんの九年間で」
プシュケは、足を止めた。
「九年間、ひとりも治せなかったんじゃないんだよ。……九年間の力が、今日、ひとり治したの。これからも旅の先々で、きっと治すの。お母さんの薬を探す旅がね、そのまんま色んな人の薬になってるの。——それって、すごいことだと思わない?」
プシュケは、自分の手のひらを見た。薬湯の匂いが、まだ指に残っている気がする。九年間、この手は「まだ何も救えていない手」だと思っていた。書庫で頁をめくるだけの手だと。
その手が、昨日子供の熱を下げた。
「……キーラさんは、ときどき」
声が少しだけ揺れ、揺れたまま言った。
「わたしが九年かけて出せなかった答えを、三歩で言いますね」
キーラは一瞬、はて…?と考え事をした後、微笑みながら返事をした。
「えへへ。……歩くの、得意なので」
プシュケは、その間の抜けた返事に少しだけ笑った。