学者の町リブロンは、匂いでわかる町だった。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。紙と、インクと、古い革表紙。通りの両側には製本工房と写本屋と古書店が軒を連ね、行き交う人の半分が、何かしらの本や紙束を抱えている。
「わー……本屋さんだらけ。プシュケちゃん、ここが例の——ねぇ、プシュケちゃん?」
プシュケは、すでに三歩先を歩いていた。
リブロンへの道のりの最後は、プシュケの足のほうが速かった。旅の始まりとは、逆である。キーラは追いかけながら、「本の町が近づくと速くなる魔導師」とこっそり日記に書き留めていた。
大通りには、青空の下に本を並べた露店市まで出ていた。古地図の束。欠けた百科事典。手書きの薬草図譜。プシュケの頭の中では、買うべき本の一覧が、既にきちんと整列している。第一候補、南方薬草図譜の改訂版。第二候補、大戦前の東部地誌。第三候補——
「プシュケちゃん、歩くの速いよー」
「……普通、です」
「いつもより速いよ。あと、無表情なのに、なんかこう……きらきらしてる」
「気のせい、です」
気のせいではなかった。リブロンはプシュケが旅程に入れることを、旅の初めから決めていた町だった。大陸でも指折りの古書の集積地。王都の書庫にもない本が、ここにはある。
目当ての店は、路地を二本入った奥にあった。
『ベシル書房』——古びた看板の下、開けっ放しの扉から本の匂いが道まで溢れ出している。店内は、壁も、床も、天井近くまで、本、本、本。棚に収まりきらない本が床に塔を作り、塔と塔のあいだに、人ひとりぶんの谷が通っている。
プシュケは、その谷に足を踏み入れて——十歩で、我を忘れた。
大戦前の東部地誌。絶版の薬草図譜。背表紙の消えた伝承集。王都の書庫で三年探した本が、無造作に、床の塔の中ほどに挟まっている。
「プシュケちゃん、目がすごいことになってるよ」
「……静かに、お願いします。いま、大事なところです」
「本の谷で遭難しないでね」
「遭難するなら、本望です」
「本だけに?」
「…………意図して、いません」
その谷間の帳場に、白い髭の小柄な老人が埋もれていた。
「いらっしゃい。……ほう。嬢ちゃんがた、旅の人かね」
店主のベシルは、プシュケが差し出した書名の一覧を眼鏡越しに眺めると、ひょい、と眉を上げた。
「薬草学に、伝承集に、古地誌。……嬢ちゃん、これは『読む本』の並びじゃないのぅ、『調べる本』の並びじゃ。なにを探しとる?」
プシュケは、少しだけ迷って——この老人の目が、本を愛する人の目だったので——正直に言った。
「華を、探しています。あらゆる病を治すという……永久氷星華を」
老人は、しばらくプシュケの顔をじっと見た。それから、よっこらせ、と立ち上がった。
「……奥へおいで。見せたいものがある」
✦ ✦ ✦
店の奥の小部屋で、ベシルが棚から取り出したのは、革装の古い写本だった。
表紙の文字は掠れているが、扉頁にはこうある——『三大星華考』。
「三大……星華?」
「実は嬢ちゃんの知っている華、キュラリアだけじゃないんじゃよ」
老人は、骨ばった指で頁を繰った。古い時代の丁寧な手で、三つの華が描かれていた。
「星の名を冠する華は、三つある。まず、嬢ちゃんの探しとる永久氷星華(キュラリア)——」
青白い華の絵の横に、伝承の文体でこう記されていた。
『その華、あらゆる病を癒す。時の病すら越えて癒す。特殊なる氷の地に咲き、大いなる精霊これを守護す』
「……時の、病すら」
読み上げる声が、少しだけ揺れた。読み間違いではないのか、三回も読み直した。時間の病すら、越えて癒す。
「……特殊な、氷の地」
「どこかまでは、書いておらん。じゃが『氷の地』と『大精霊』。手がかりとしては上等じゃろ」
「氷の地って、ストラルとか? プシュケちゃんの故郷、雪の国だよね」
と、キーラが言った。
「王国内なら……とっくに、見つかっているはずです。王家も学者も、探した記録がありますから。『特殊な氷』というのが、ただの雪や氷ではない、ということだと思います」
「ほう。嬢ちゃん、読み方を知っとるの」
プシュケは、頁に穴が開くほどその二行を見つめた。九年間、断片しか拾えなかった伝承の、いちばんまとまった記述がそこにあった。
「……写しを、取らせていただけますか。一字一句、正確に」
「かまわんよ。インクは帳場のを使いなさい」
写しを取る手が震えないように、三呼吸おいてからペンを持った。時の病すら、越えて癒す。九年前、六歳のプシュケが聞いた病名と、数百年前の写本の一行が、この小部屋で初めてまっすぐ繋がった。おとぎ話と切り捨てた近代の学者たちは、この写本を読んでいない。読んでいれば、「時の病」という限定の付き方が、おとぎ話にしては妙に具体的であることに、気づいたはずだ。創作なら「あらゆる病」で筆を止めればいい。わざわざ時の病を書き足したのは——書いた誰かが、それを知っていたからではないのか。
「キーラさん。……この一行、どう思いますか」
「ん? ……プシュケちゃんのお母さんのために書いてあるみたいだね」
「————ええ。……そう、読めてしまうんです。困ったことに」
期待は目を曇らせる、それは分かっている。分かった上で、写しの文字は、記録帳のどの頁より丁寧に書かれた。
他の華についての記載もあったので、興味本位でそちらも調べてみる。
「二つ目。滅裂焔星華(ラフィリア)」
赤い華。伝承は言う——
『その華、強大なる魔法を授け、魔法の代価を軽くす。守護者これを保ち、試練を課す。試練を越えし者、華を一輪賜う』
「守護者が、ずっと守っているんですか? 華を、ひとりで?」
「らしいのう。会えたという記録も、数十年にいっぺんくらいは混じる。偽物やら見間違いやらも、ようけあるがの」
「試練って、何をやらされるんだろう……力比べかな」
「キーラさん。伝承の華の守護者と、力比べを」
「だって『試練』としか書いてないよ? なぞなぞかもしれないし、料理対決かもしれないでしょ」
「ひっひ。存外、その心構えが正解かもしれんよ。記録に残っとる試練は、毎回ちがうそうじゃからな」
最後の三大星華について目をやる。
「三つ目が——聖天輝星華(サフェリア)」
金色の華。
『その華、千年とも二千年ともいわれる時間を宿す。触れる者の時間を、大いに増す。されどその力ゆえ、備えなくして近づく者を、光もて焦がす』
「千年以上の寿命が……増える?」
キーラが、写本を覗き込んだ。
「そんなのがあったら、世界がひっくり返っちゃわない?」
「ひっくり返るじゃろうな。じゃから、誰も見つけられんのが道理でな。……ただ」
ベシルはそこで、少しだけ声を落とした。
「サフェリアはのう。妙なんじゃ。キュラリアもラフィリアも、数十年にいっぺんくらいは『見た』『会った』という記録が混じる。じゃがサフェリアだけは——いつからか、記録がぴたりと途絶えとる」
「途絶えてる、って……前は、あったんですか」
「あった。目撃の噂も、光を見たという話も。それがある時期から、ぷつりとな。……まるで誰かが、拾い上げてしもうたみたいに」
小部屋が、少しだけ静かになった。
拾い上げる。千年ぶんの時間を宿し、近づく者を焦がす華を? 誰が? どうやって? ——そして、何のために?
理屈で考えれば、記録の途絶にはもっと平凡な説明がいくらでもつく。伝承の流行り廃り。写本の散逸。ただの偶然。
古い写本の金色の華は、なにも知らない顔で本の中に咲いていた。
✦ ✦ ✦
「それにしても、嬢ちゃんがたは良いところに来なすった」
お茶を淹れ直しながら、ベシルは言った。
「華だの古代だのを追うなら、いま、学者連中の間で噂になっとる話が、もうひとつあってな」
「噂?」
「——知られざる魔法の技術書、というやつじゃ」
老人は、南東の方角へ顎をしゃくった。
「旧タイラー領。世界大戦で滅びた国の、辺境の洞窟にな。今の七属性のどれでもない魔法について記した古文書が眠っとる——という噂じゃ。学会で二人、真面目に調べとる者がおる」
「どれでも、ない……?」
予想外の話を聞いて、プシュケは眉を寄せた。魔法は七属性。聖、炎、氷、雷、土、風、水。世界の歴史書物でもある、大星典にもそう書かれている。どれでもない魔法など、理論の枠の外だ。
枠の外。——おとぎ話と同じ場所。
ベシルは湯呑みを置いて、少しだけ声を低くした。
「ああ、それとな、同じ古文書のことを、ダルケン帝国の買い付け人らしき男も訊きに来よったよ。ひと月ほど前かの。……学者の噂は、足が早い。誰が、何のために追っとるのかまでは、儂には分からんがな」
『ダルケン帝国』という言葉は、二人にとっては遠い国の名前でしかなかったが、プシュケは心の頁の隅に『先客あり』と、小さく書き付けた。
「なにそれ!!」
大きな声を出したのは、キーラだった。目が、爛々としている。
「知られざる魔法!? 何それ、見たい!! プシュケちゃん、それ見たくない!?」
「え……ええと」
「だって誰も知らない魔法だよ!? 誰も知らないってことは、何ができるかも分からないってことでしょ!? もしかしたら、すごいかもしれないでしょ!?」
「こ、根拠が、飛躍して……」
「旧タイラー領って、南東だよね!? わたしたち、南東に行くよね!?」
ベシルが、ひっひ、と笑った。
「嬢ちゃんのその『見たい』は、良い旅人の目じゃよ。……理屈は、あとから追いつくもんじゃ」
プシュケは、写本とキーラの顔を見比べた。
正直に言えば、心はもう決まりかけていた。誰も知らない魔法。理論の枠の外。
もしそんなものが本当にあるのなら——「治らない病」の外側にだって、何かがあるかもしれない。もしかしたら、何かキュラリアの手掛かりになるかもしれない。
「……行き先の候補に、入れます。まずは、この写本をもう少し、詳しく」
「ゆっくり見ていきなされ。わしは店番に戻るでな」
ベシルが小部屋を出ていき、二人が写本を挟んで額を突き合わせた——そのときだった。
店の表から、がしゃん、と何かの倒れる音がした。
続いて、押し殺した老人の声と、それに被さる柄の悪い男の声。
「——だからよぉ、ベシルの爺さん。期日は昨日だぜ? 利息ってのはなあ、待っちゃくれねえんだよ」
プシュケとキーラは顔を見合わせた。
表に出ると、店先でベシルが数人の男たちに囲まれていた。