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CHAPTER I 第4話 静かすぎる入り江
Ourhour-Traveler

第4話 静かすぎる入り江

第一章 導きの星 編

下り道の途中の岩場で、ラースは一度、足を止めた。

崖の縁から、入り江が見下ろせた。砂浜の先に見張り小屋と桟橋。桟橋には、あの黒ずんだ帆の船。岩壁に沿って、木組みの小屋がいくつか並んでいる。

「見張りがいないね」

ラースが呟いた。

「それって、いいことじゃ……」

「どうかな。戦いの真っ最中なら、音がする。これから始まるなら、見張りがいる。どっちもない、ってことは——」

ラースは言葉を切って、下り道の先へ目を細めた。

「もう、終わってるってこと」

どっちが勝って終わったのかは、言わなかった。教わったばかりの握り方で、キーラは槍を握り直した。

入り江は、静かすぎた。

下り道を抜けると、波の音だけが聞こえた。鳥の声もない。海賊の根城というよりは、さびれた漁村のようにも見える。

そして、その砂浜のあちこちに——人が、転がっていた。

「……っ」

キーラの足が、すくんだ。

見覚えのある制服。ナビアの警備隊だ。二十人はいる。武器は遠くへ蹴り散らされ、全員が後ろ手に縛られたまま、砂の上で気絶していた。

昨日、聞き取りに来てくれた若い隊員の顔が浮かんだ。喉の奥が、ひゅっと細くなる。

————これが、戦いの、後。

ラースは足音もなく砂浜へ下りると、手近な隊員のそばに膝をついた。縛られた腕を取り、袖を少しずらして手首の内側を覗き込む。結晶の輝きを確かめて、次の隊員へ。またその次へ。

「大丈夫、死んでない」

三人目のところで、ラースは言った。

「気を失ってるだけだ。傷も、急所は外されてる。……この分なら全員助かるよ」

キーラの膝から、力が抜けそうになった。よかった、と思うより先に、体のほうが安心してしまった。

「ほ、ほどきましょう、縄。早く」

「今は駄目」

伸ばしかけた手を、静かな声が止めた。

「動かすと傷に障る人がいる。それに、目を覚まして騒がれたら、こっちの居場所が知れる。……順番だよ。ほどくのは、終わってから」

ラースの言うことは、いちいち正しかった。正しくて、少しだけ冷たく聞こえて、でもその手は、隊員の縄の食い込んだ手首を、そっと楽な向きに直していた。

「それにしても——」

ラースは倒れた隊員たちを見回して、感心したように呟いた。

「いい警備隊だ。誰も殺さずに、負けてる」

「……どういう、意味ですか」

「勝ち目がなくなったあとも、最後まで誰かを守る戦い方をしてた、ってこと。順番を間違えなかったんだね。——偉いよ、この人たち」

だから、とラースは立ち上がった。

「ボクらも順番を間違えないようにしよう。まず、リンゴ。それから——」

言葉の途中で、ラースが消えた。

正確には、消えたように見えた。次の瞬間、キーラの視界の端で、金属と金属のぶつかる重い音が弾けた。

振り向きざまのラースが、短剣一本で大斧を受け流していた。

岩陰から躍り出た大男の斧。まともに受ければ短剣ごと潰されるはずのそれを、ラースは刃を立てず斜めに滑らせて、斧の勢いを地面へ逃していた。大男がたたらを踏む。

「ほう、やるな貴様——」

大男が言い終わる前に、ラースの柄頭がその顎を打ち抜いた。すると、膝から崩れた。

「小僧ォ!」

小屋の陰から杖の男。掲げた杖の先に炎の玉が膨らむ——が、放たれるより早く、ラースは投げた短剣の柄で男の額を打ち、駆け寄りざまに手刀で意識を刈り取っていた。

炎の玉が、主を失って砂の上でほどけて消える。

二人。ほんの、数呼吸だった。

キーラは、槍を構えることすらできていなかった。いま見たものを、頭がまだ数え終わっていない。力比べを一度もしていないのに、大の男が二人、砂に沈んでいる。

「相手の力は、相手のものだからね」

ラースは短剣を拾い上げながら、なんでもないことみたいに言った。

「借りて、返しただけ」

「か、返して……?」

「利子はつけたけど」

そのとき、岩場の上で砂の鳴る音がした。見上げると、弓を背負った女が身を翻すところだった。あっという間に岩の向こうへ消えていく。

「三人目は逃げたか。——頭領のとこに行ったね」

ラースは短剣を鞘に納め、初めてちょっとだけ真面目な顔をした。

「追おう。伝令が着く前と後じゃ、面倒くささが違う」

✦ ✦ ✦

倒した二人は、彼ら自身の帯でしっかりと縛った。縛り方はラースが教えてくれたが、手際が良すぎてちょっと怖かった。

「よし。じゃあ、リンゴを探しに行こうか」

根城の中は、岩屋と木組みの通路が入り組んでいた。

酒と潮と、埃の匂い。通路のあちこちに、町から奪ったのだろう木箱や麻袋が無造作に積まれている。手近な木箱の側面に、見覚えのある焼き印があった。麦の穂の意匠——オーレン製パン。ルカの家の箱だ。

あの中に、うちの店の品もあるんだろうか。そう思った瞬間、胸の底の火がまた熱を持った。

「キーラ、こっちの通路は——」

先を行くラースの声が、角の向こうで途切れた。

「……ちょっとだけ混んでるね」

角を曲がって、キーラは息を呑んだ。

広めの岩屋。酒盛りの途中だったらしい海賊たちが、七、八人。全員がこちらを見ていた。

「あぁ? なんだガキ……侵入者だ! おい、侵入者だぞ!!」

怒声が岩屋に反響する。抜き身の刃が、次々に立ち上がる。ラースは——見れば、通路の反対側から来た別の三人を、もう相手取っていた。

「キーラ、そっちは任せた」

「ま、任せたって……えぇ!?」

考える間もなかった。最初のひとりが、無造作に斬りかかってくる。

体が勝手に槍を構えた。突き出された剣を、夢中で穂先で払う。腕に痺れが走った。重い。大人の男の力は、こんなに重い。

「へっ、槍なんか持っちゃって。嬢ちゃん、怪我するぜぇ?」

囲まれて、じりじりと輪が縮む。

怖い。

手が震える。息が浅い。喉の奥が乾いて、唾を飲む音が、自分の耳にやけに大きく聞こえた。

二人目が、面白半分に斬りかかってきた。半歩下がって、槍の柄で受ける。また腕が痺れた。三人目が横から棍を振る。夢中で屈む。頭の上を、風がうなって通った。当たっていたら、と思った瞬間、足がもつれかけた。

「おいおい、もう腰が引けてるぜ」

「泣くなら今のうちだぞ、お嬢ちゃんよぉ」

嘲る声が、輪になって迫る。

倉庫の板壁の隙間が、頭をよぎった。お父さんの背中。自分の心臓の音。あのときのわたしは、隠れていることしかできなかった。

今のわたしは——今のわたしは。

(いま、わたしは、槍を持ってる)

そのとき。

体の奥で、なにかが走った。

————風よ

ラースのおまじないが残していった、あの温かいなにかが、胸の奥で強く一度うねって——風になった。

古槍の穂先に、風が纏わりついていた。

目に見えるか見えないかの、細い細い風の渦。それが槍の軸を伝って回りつづけ、キーラの前髪をふわりと持ち上げた。

「……なんだぁ?」

海賊のひとりが眉をひそめた、その瞬間、キーラは踏み込んでいた。

考えるより先に、突きが出た。

風を纏った穂先が男の剣の腹を叩くと、剣は面白いように弾け飛び、岩壁に当たって高い音を立てた。呆気にとられた男の鳩尾へ、返す石突がめり込む。

「ごっ……!?」

ひとり。

「て、てめぇ!」

左から斬りかかる刃を、体を開いてかわす。かわせた。体が軽い。風が槍と一緒に回って、次の突きを勝手に連れてくる。二人目の斧が弾け飛び、三人目の短刀が飛び、そのたびに石突と柄が、確実に急所のとなりを打った。

殺さない。

誰かに教わったわけでもないのに、穂先は最後まで、一度も人に向かなかった。武器を落とし、膝をつかせ、うずくまらせる。それだけを体が選びつづけた。

気づけば、立っている海賊はいなくなっていた。

「————はぁ、はぁ」

岩屋のあちこちで、男たちがうずくまって呻いている中、肩で息をしていた。七人、八人。数えて、もう一度数えて、それが全部自分のやったことだと、ようやく頭が追いついた。

槍を握った手のひらが、じんじんと熱い。穂先の風は、まだ小さく回っている。散らばった剣や斧を、キーラは震えの残る足で、ひとつずつ部屋の隅へ蹴り集めた。誰も拾えないように。それくらいの知恵は回った。

「へぇ」

振り向くと、ラースが通路の壁にもたれて、こちらを見ていた。足元には三人、綺麗に伸びている。いつから見ていたのか。

「君、やるじゃん」

「い、いまの……わたし、いまのって……魔法、ですか? わたし、魔法なんて習ったことも……」

キーラの家は、代々の商人だ。属性持ちの家系でもない。魔法なんて、広場の大道芸か、成星式の祝いの光くらいでしか見たことがない。なのに。

「ラースさん、さっきの『おまじない』……あれ、なにを、したんですか」

ラースは壁から背を離すと、こともなげに言った。

「君の潜在能力を、すこし引き出しただけ。素質は元から君のものだよ。風、向いてると思ったんだよね」

「向いてるって、そんな、八百屋の目利きみたいに」

「似たようなものだよ。ボク、目利きは得意なの」

ラースは、キーラの槍の穂先を指さした。

「それと——さっきの戦い方。誰も殺さなかったでしょ。囲まれて、あれだけ追い詰められて、それでも最後まで」

「……夢中で、覚えてないです」

「夢中のときに出るものが、その人の本物だよ」

ぽん、と軽くキーラの肩に手を置いて、ラースはすぐに離した。褒められたのだと気づくまでに、少しかかった。

そして、通路の奥——ひときわ大きな扉のほうへ目をやりながら、付け足した。

「ただ——それが君の最大値じゃないけどね」

「え?」

聞き返すより先に、扉の向こうから床を震わせるような野太い声が響いた。

「——おうおう、そうかい。招かれざる客、ってやつかァ」

割れ鐘みたいな、あの声だった。

皆さんからいただいた時間 12.19Ø
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