◀ 目次へ
CHAPTER II 第31話 三分の反撃
Ourhour-Traveler

第31話 三分の反撃

第二章 銀色の書庫 編

「ひとつ」

プシュケは、帳簿のページを開いて向けた。

「利息の計算日です。契約書の条項では、利息は月末締め——ひと月は五週、締めは五週目の星曜ほしかけ日です。ですがこの七つの月は、四週目の星曜日で締めて、残る一週ぶんを翌月ぶんと二重に数えています。五週の月から、都合よく四週の月を作っている」

「……週の読み違いでしょうな。うちの若いのが」

「ふたつ。端数の扱い」

ページを、めくる。

「1Ø未満の端数は、切り捨てが商いの慣例です。この帳簿は、利息の計算のときだけ切り上げ、返済の記入のときだけ切り捨てている。一回あたりは小さな数字です。三年ぶん積むと——」

樽の上で指を走らせる。暗算は書庫の九年で鍛えてある。

「42Ø。ベシルさんの、四十二時間ぶんです」

「みっつ」

グロムの顔から、余裕の表情が引きはじめていた。

「返済記録の日付です。ベシルさんは毎月、きちんと星曜日ほしかけびに返済しています。ですがこの帳簿では、七つの月だけ、記帳日が翌週になっている。返済が遅れた扱いになって、遅延の利息が乗る仕組みです。……ベシルさん。返済のとき、受け取りの控えは」

「も、もらっとらん。グロムさんが『帳簿につけるから要らん』と」

「だ、そうです」

プシュケは最後の頁の隅を、指先でトンと押さえて、帳簿を閉じた。

「付け加えると。この三つの細工には、共通点があります。どれも、単体では『うっかり』で通る。暦の読み違い、端数の慣例の勘違い、記帳の遅れ…。一つずつなら、若い者の計算違いで済む話です。でも三種類のうっかりが、七つの月に利息の増える方向にだけ、一度も逆向きなく揃うことは——確率の上で、起こりません。うっかりは両方向に転ぶものなので」

グロムの眉が、初めて、動いた。

「以上、三点。三年ぶんを合計すると、過払いは632Ø。——お返し、いただけますね?」

✦ ✦ ✦

沈黙は、長くなかった。

「……ふ。ふふ。お嬢さん、面白い読み方をなさる」

グロムは、指輪を鳴らして、包み込むように笑った。切り替えの早さだけは、大した商人だった。

「だが、それはお嬢さんの『解釈』だ。帳簿の読み方には流儀ってものがある。うちの流儀じゃ、これで正しい。……それとも何かな、よその街のお嬢さんが、この町の商いにケチをつけなさる?」

声の圧が、一段増した。それに合わせて、後ろの男二人がジリジリと間合いを詰める。

理屈で崩せない相手は圧で崩しにくる。これも本に書いてあった。書いてあったが、対処法までは書いていなかった。実践は、いつも本の少し外側に——

「あ、いたいた! こっちです、みなさーん!」

通りの向こうから、能天気な声がした。

キーラだった。いつのまにか消えていたていたが、戻ってきたときはその後ろにぞろぞろと——十人からの町の人が、ついて来ていた。

「パン屋のトゥーレさんと、船具屋のおじさんと、仕立屋のおばあちゃんと、あと薬屋さんと……みんな、グロムさんの『お客さま』だって!」

プシュケが時貸し屋と格闘している三分のあいだに、キーラは通りを一本走って、聞き込みを終えていたらしい。

あとで聞いた手際は、こうだ。まずパン屋に飛び込んで、「ベシルさんが時貸しに詰められてます」と一言。パン屋のトゥーレさんは店の火を女房に任せて飛び出しながら、「うちも借りてる、様子がおかしいと思ってた」と吐き出した。トゥーレさんが船具屋を呼び、船具屋が仕立屋を呼び、仕立屋のおばあちゃんに至っては、呼ばれる前から通りに出ていた。

雪玉が坂を転がるように、証言は膨らんだ。曰く、「返済の控えをくれない」。曰く、「利息が月によって違う気がする」。曰く、「星曜日に返したのに遅れた扱いにされた」——。

「三分で、よくこれだけ……」

「商人の娘だからね。市場の噂の速さは、体で知ってるの。あとね、走るのは、もともと得意!」

キーラいわく、噂と火事は風上から。人を集めたいときは、いちばんよく喋る人から。……プシュケの本棚には、載っていない技術だった。

「手口、ぜんぶ一緒だって!」

キーラはにっこり笑って、とどめの一言を置いた。

「ね、グロムさん。『流儀』なら、みんなの帳簿もまとめて組合と衛兵さんに見てもらいましょう? 数字は嘘をつかないんですよね?」

✦ ✦ ✦

グロムの計算は、速かった。

一人分の過払いなら揉み消せるが、十人分の間違いは商売が終わる。天秤が音を立てて傾くのが、傍で見ていても分かった。

「————本日は、帳簿の、点検日でした」

グロムは、汗を拭きながら宣言した。

「点検の結果、若い者の計算違いが見つかりましてな。ええ、ええ、誠に遺憾ながら。過払いのお客さまには、順次、お返しいたします。……商いは、信用ですからな」

「いい心がけです」とプシュケは言った。

「控えも毎回くださいね!」とキーラが言った。

「うちは今日から利息を確認するぞ!」と船具屋が言った。

「あの指輪、一個ずつ減っていくよ、今後」と仕立屋のおばあちゃんが予言した。

去り際、グロムは一度だけ振り返って、プシュケを見た。

「……お嬢さん。名前を、聞いておきましょうかね」

プシュケは静かに返した。

「必要、ありません。あなたの帳簿に、わたしの名前が載る予定は無いので」

大男が何か言いかけたのを、グロムが指輪の手で制した。深追いをしない判断の速さだけは、最後まで商人だった。

グロムと男たちが、逃げるように角を曲がって消えると、通りに、わっと笑い声が弾けた。

✦ ✦ ✦

「あんたら、命の恩人じゃ」

ベシルは、返ってきた632Øの証文を握りしめて、何度も何度も頭を下げた。

「632Øといやあ、わしの余生には、ばかにならん時間じゃ。……礼をさせてくれ。何がいい。本か。本じゃな。よし、どれでも——いや、待て。それじゃわしの店が終わる」

「あの、それでしたら」

プシュケは、店の奥を指した。

「例の写本を。——ゆっくり書き写させて、いただけませんか。一晩で構いませんので」

ベシルは目をしばたたいて、それから皺だらけの顔で笑った。

「一晩と言わず、気の済むまで書いていきなされ。……ついでに、わしの知っとる話も、みんな付けてやろう。三大星華の伝承なら、この町でわしより詳しい者はおらんでな」

その晩の通りは、ちょっとした祭りのようだった。

トゥーレさんのパン屋が、焼きたてを一山、店先に開放した。船具屋が樽椅子を並べ、仕立屋のおばあちゃんが、どこからか香草茶の大鍋を持ってきた。過払いが戻るのはこれからなのに、みんな、もう取り返した顔をしていた。

「嬢ちゃん、あんた王都の人だって? 王都の学者はてえしたもんだ」

「い、いえ、あの、学者というほどの」

「三分だぜ、三分! あの帳簿を三分!」

囲まれて、褒められて、香草茶を注がれて、プシュケは対処に困った。

「え、ええと、その。褒められたときの、作法が……」

「作法なんかいらないよ、嬢ちゃん! ほら、パン食いな!」

「た、食べます。食べますから、いっぺんに、差し出さないで——」

両手にパン、膝に焼き菓子、隣で仕立屋のおばあちゃんが「うちの孫の嫁に」と言い出し、船具屋が「いや冒険者続けたほうが世のためだ」と真顔で止めた。囲まれるのも、騒がしいのも、袖が触れるのも、苦手なはずだった。苦手なはずなのに——今夜のこの囲まれ方は、市場の雑踏とは何かが違った。音の洪水ではなく、音の焚き火で、悪い気はぜんぜんしなかった。

トゥーレさんが焼きたてを配りながら、しみじみ言った。

「しかしなあ。うちら、何年も気づかなかったんだぜ。おかしいおかしいとは思ってたのに、誰も帳簿を疑うとこまで行けなかった」

「……疑えなかったのは、当然です」と、プシュケは言った。「あの帳簿は、疑われ方を知っている帳簿でした。それに、皆さんは、商いと暮らしで手一杯です。帳簿をじっくり眺める余裕があったのは、通りすがりの、暇な旅人だけです」

「暇な旅人さんね、ありがとう」

トゥーレさんは笑って、満足そうな顔でみんなの元へ戻った。

また今日も、氷の魔法でも家の名前でもなく、ただ読んで、数えて、見つけたことが誰かの時間を守った。

嬉しそうな顔で話すベシルさんも、焼きたてのパンを配るトゥーレさんの声も、胸をなでおろす通りの人たちの顔も、みんな温くて、少し嬉しいと感じた。

先日キーラさんが、私の九年間を肯定して、気づかせてくれたから、今の状況を素直に受け入れられるのかもしれない。

そんなことを考えていると、店先でキーラが「やったね」と小突いてきた。

プシュケは頷いた。今日の戦いは、槍も氷も使わなかったけれど——二人の勝利と呼んでいい気が、していた。

皆さんからいただいた時間 202.71Ø
◀ 第30話 目次 第32話 ▶