夜のベシル書房は、昼とは別の顔をしていた。
灯りはランプがふたつ。本の塔の影が壁で揺れて、店じゅうの本が静かに息をしているみたいだった。奥の小部屋の机に、例の写本——『三大星華考』が開かれている。
プシュケは、ペンを執った。
「わあ……プシュケちゃんの字、きれい」
横から覗き込んだキーラが、感嘆の息を漏らした。書き写しの一行目から、プシュケの筆跡は定規で引いたように揃っている。
「……執事に、躾けられましたので」
「わたしの字はねー、お父さんに『値札だけは読めるように書け』って言われてた」
「値札だけ」
「値札は読めます」
「他は」
「……まぁまぁかな」
分担は自然に決まった。プシュケが書き、キーラが原本を音読する。キーラの音読はゆっくりで、ときどきつっかえたけれど——不思議と、聞きやすかった。声そのものがあたたかいのだ。伝承の古めかしい文体がキーラの声を通ると、誰かが囲炉裏端で話してくれる昔話になった。
「『されどその力ゆえ、備えなくして近づく者を、光もて焦がす』……ねえ、この『光もて焦がす』って、日焼けのすごいやつかな」
「もう少し、深刻だと思います」
「『守護者これを保ち、試練を課す』……守護者さんは、ずーっとお留守番なんだね。ひとりぼっちで」
「保ち、と、ただひと言だけ。……言い伝えは、長く残るほど言葉が削れて、いちばん硬い芯だけが残ります。このひと言の後ろの年月は、たぶん、わたしたちの想像より、ずっと長いです」
「じゃあ、会いに行ったら——試練のあとでだけど——ちょっとだけ、よろこぶかもね」
音読係の合いの手は、たいてい脱線だった。脱線だったけれど、ときどき思いがけない角度から本の急所を突いた。写しの余白には、プシュケの端正な注記に混ざって「まようもの→であえる?」というキーラの感想が残ることになった。
インクが減りつつもページは着実に進む。写本にはかなりの時間かかったので、ランプの油を一度足した。途中窓の外を夜回りの灯りが二度通り過ぎ、段々と窓明かりが少なくなっていく。本と、声と、ペンの音だけの夜は、プシュケにとってこの旅でいちばん贅沢な夜だった。
「『その華、あらゆる病を癒す。時の病すら、越えて癒す』……ねえ、ここ何回読んでもいいね」
「……はい。何回でも」
読み上げの途中、キーラが写本の奥付のあたりで手を止めた。
「ね、これ書いた人って、誰なんだろう」
「署名は、ありません。書体から見て、百年以上は前の写しです。しかも、これ自体が、さらに古い何かの写し。……伝承の本は、たいてい、そうです。書いた人の名前より、書かれた中身のほうが、長生きする」
「ふうん……。じゃあ、この人も、誰かのために書いたのかなあ」
「……と、言いますと」
「だってさ、百年以上も前に、お金にもならない花の言い伝えを、こんなに丁寧に写すんだよ? きっとこの人も誰かに読ませたかったんだよ。『あきらめないで』って」
プシュケはペンを止めて、掠れた文字の列を改めて見た。丁寧な手だ。急ぎの仕事の字ではない。一字ずつ、確かめるように写された字。百年以上前の誰かの「あきらめないで」が、写本屋の棚で眠って、今夜ストラルの小娘の手元まで届いた——そういう読み方を、この音読係は三頁で眠る読書力でやってのける。
「……その説、写しの余白に、書き留めます」
「え、わたしの思いつきだよ?」
「思いつきにも、著者名を。『キーラさん説』と」
夜半にベシルが香草茶と蜂蜜を差し入れてくれた。それから老店主は、よっこらせと椅子に落ち着いて、約束どおり知っている話を語りはじめた。
✦ ✦ ✦
「三大星華をな、本気で探した者は、昔からぽつぽつおる」
ランプの灯りの中で始まったベシルの声は、本の頁をめくるのと似た静かな音だった。
「金持ちが、私兵を百人雇って山を調べ上げた話がある。学者が、四十年かけて目撃談を何件か集めた話がある。……が、どっちも見つからんかった」
「四十年かけてでも……」
「その学者の数十年はな、今もどこかの書庫に眠っとるはずじゃ。目撃の場所を地図に落とすと、面白いことが分かる。散らばりすぎとるんじゃよ。北の山にも、南の谷にも、東の島にも。植物の分布としては、ありえん散らばり方じゃ。じゃから近代の学者は言う、『つまり全部、見間違いかホラじゃ』とな」
「……あるいは」
と、プシュケは写しから顔を上げた。
「全部が偽物、とも限りません。本物は、ひとつ。残りは、その本物の噂が、人の口から口へ旅するうちに、よその土地の話に化けたもの——ということも考えられます。写本と、同じです。写されるたびに、少しずつ写し間違える。……そう読めば、これは分布ではなく、候補地の一覧」
「ひっひ。……そうじゃ。その読み方ができる者だけがこの先へ行ける。ところがな、面白いのはここからでの」
ベシルは、湯気の向こうで目を細めた。
「数少ない『会えた』という記録は、揃いも揃って、探しとらん者ばかりなんじゃ。道に迷った巡礼。子の熱冷ましの薬草を探しとった母親。戦で全部をなくして、あてもなく歩いとった男。……わしの婆さまは、こう言うとった」
——華はのう。探す者の前には現れん。願う者の前に現れるんじゃと。
「え、でもちょっと待って」
と、キーラが身を乗り出した。
「探してる人は、みんな願ってるんじゃないの?」
「そこがなぞなぞたるゆえんじゃな、嬢ちゃん」
「探すのと、願うのは……違うのですか」
プシュケの問いに、老人はすぐには答えず、蜂蜜を茶に溶かした。
「わしにも、正しいところは分からん。じゃがの、婆さまの解釈はこうじゃった。——探す者は、華を『手に入れる物』として見とる。願う者は、華の向こうの『誰か』を見とる。星々は、どっちの目もようく見とるんじゃと」
小部屋が静かになり、ランプの芯が、ジ……と鳴った。
プシュケは、手元の写しの乾きかけたインクを見つめた。九年間自分がしてきたのは、どちらだったろう。手段を探していた。文献を漁っていた。それは「探す」だ。でも、その全部の始まりには、いつだって——読みかけの本のしおりと、『また明日ね』の声が。
「……プシュケちゃんは、大丈夫だよ」
キーラがふいに言った。
「だって、プシュケちゃんの探しものは、最初からずっとお母さんのことだもん。花はそのついで。……プシュケちゃんの願いって、たぶん世界で一番きれいだよ」
「————」
耳が熱くなった。この耳は、本当に昔から正直で困る。
「……書き写し、続けます」
「あ、照れた」
「照れて、いません。ページをめくってください、音読係さん」
ベシルが、ひっひ、と愉快そうに笑いながら新しい茶を注いだ。
「嬢ちゃん。婆さまの言葉には、続きがあってな」
老人は、茶碗を両手で包んで、思い出す目になった。
「『願う者の前に現れる。——ただし、願いを一人で抱えとる間は、まだ早い』とな。婆さまいわく、華ちゅうもんは、願いが独りぼっちのうちは、重すぎて受け取れんのじゃと。誰かと分けて、軽うなってから、やっと持てる大きさになる。……ま、婆さまの言うことじゃ。学術的な裏は、なんもないがの」
裏のない言葉が今夜はよく刺さる夜だった。九年間独りで抱えてきたこの願いは、この数週間で確かに少し軽い。軽くなった分だけ、遠くまで運べる気がしている。
✦ ✦ ✦
書き写しが終わったのは、夜明け前だった。
三大星華の記述や、周辺の伝承ぜんぶ。ベシルの語りの要点も、余白に書き留めた。インクの乾いた写しの束は、ずっしりと九年ぶんの帳面のどれよりも重かった。
キーラは、机に突っ伏して眠っていた。音読は途中から子守歌になり、子守歌は途中から寝息になった。三頁で寝る人が、よくぞ夜半までもったと思う。本人の歴代最長記録を、四十倍は更新したはずだ。
プシュケは、自分の外套を、そっとその肩にかけた。
「そういえば、ベシルさん。ひとつ、伺っても」
片付けの手を借りながら、プシュケは、夜のあいだ胸に引っかかっていたことを聞いた。
「サフェリアの記録の途絶——『誰かが拾い上げたみたいに』と、仰いました。……ベシルさんは、本当のところ、どう思っておいでですか」
ベシルはランプの火を細めながら、しばらく黙った。
「……学者の答えなら、『資料不足。判断保留』じゃな」
それから、声を一段落として続けた。
「だが、じじいの勘の答えなら——気味が悪い、じゃ。伝承ちゅうもんはな、嬢ちゃん。火と同じで、消えるときはゆっくり消える。ぷつりとは消えん。ぷつりと消えるのは、誰かが水をかけたときだけじゃよ」
誰かが、水をかけた。
千年の時間を宿す華の噂に、水をかけられる誰か。プシュケは、写しの束をしまう手を少しだけ止めた。この違和感も、余白に書き留めておくことにした。いつか、どこかの頁とつながる気がしたから。
「……良い連れじゃの」
片付けをしながら、ベシルが小さく言った。
「本の虫にはな、ああいう連れがいい。本は、答えをくれる。じゃが、頁を閉じたあとの夜道は、連れがおらんと暗いでな」
「……はい」
プシュケは素直に頷いた。
机で眠るキーラの寝顔を、プシュケは少しのあいだ眺めた。
三頁で眠る人が、夜半まで音読をした。伝承にも、古文にも、興味はないはずだ。あるのはただ、「プシュケちゃんの探しもの」への興味だけ。人は自分に関係のないもののために、こんなに夜更かしができるものだったか。……いや違う。この人の中では、たぶんもう「関係のないもの」ではないのだ。わたしの探しものは、いつのまにか二人の探しものに名義が書き換わっている。
(名義の書き換えに、判を押した覚えは、ないのですが)
ないのに、抗議する気もないのだった。
夜明け前のいちばん静かな時間、プシュケは写しの束の表紙に題を書いた。『三大星華考・写』。少し考えて、その下に小さく書き足した。『写し手・ダイヤスト・プシュケ/音読・キーラ』。数百年後の誰かがこの写しを見つけたら、『音読』とは何の係かと首をひねるだろう。ひねればいい。この写しは二人で作ったのだ。記録は正確でなければいけない。
窓の外が、藍色に変わりはじめていた。学者の町の朝は、紙とインクの匂いに焼きたてのパンの匂いが混ざって始まるらしかった。
——のだが、その焼きたての匂いを、プシュケはよく覚えていない。
朝の光で目を覚ましたキーラが見たのは、写しの束を枕に、机に突っ伏して眠る写し手の姿だった。キーラは、自分の肩に掛かっている外套に気づいて、しばらくにこにこした。それから、その外套を、持ち主の肩にそっと掛け直した。
外套をかけられたプシュケは、暖かい気配を感じ取り、目をこすりながら顔を上げた。
「……プシュケちゃん、おはよ」
「————寝て、いません」
がば、と顔を上げた頬に、写しの束の紐の痕が、くっきりついていた。
「いまのは、その。……目の、休憩です」
「うん。目の休憩、けっこう長かったね」
「…………記録帳には、書かないでください」
書かない、と音読係は請け合うが、自分の日記には書く気まんまんの顔をしていた。