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CHAPTER II 第33話 三頁の壁
Ourhour-Traveler

第33話 三頁の壁

第二章 銀色の書庫 編

写本を終えた二人は、リブロンにはもう数日いることになった。

写しの整理と、旅支度と、プシュケの「どうしても回りたい本屋」が四軒。キーラは文句ひとつ言わず付き合ってくれた。

四軒の本屋は、四軒とも性格が違った。

一軒目は、薬草と医学の専門店。プシュケはここで、何年も探していた南方薬草図譜の改訂版を確保し、店主と誤植の話でしばらく盛り上がった。キーラは棚の薬草の絵を眺めて、「これ、うちの町の裏山に生えてた」「これも」「あ、これは食べたことある」と言うと、図を実体験で照らし合わせるという店主が目を丸くする読み方をした。

二軒目は、地図と地誌の店。東の国々の地図を広げてもらい、旅程の相談をした。店主は「旧タイラー領へ行くなら、戦争の名残で街や道が変わっているから、昔の経路を信じすぎるな」という、値段のつかない助言をくれた。

三軒目は、貴族向けの豪華な装丁の店で、目新しい本がないかと流し見で探したが、

「装丁に、中身が負けています」

「あと、店員さんの目が、値踏みだったね」

「ええ。……悪いほうの、商人の目でした」

と話し、二人そろって五分で出た。

そして四軒目が、いちばん雑多で、いちばん面白い店だった。もちろんキーラも、プシュケに付き合ってくれたのだが——

「……キーラさん。また、寝てます」

本屋の隅の試し読み用の長椅子で、キーラは本を開いたまま、こっくりこっくり船を漕いでいた。膝の上の本は三頁目で開いている。

「はっ……ね、寝てない! 目を閉じて、その、内容を反芻してた!」

「三頁ぶんを、ですか」

「三頁ぶんを」

本人いわく、字を目で追っていると、三頁目あたりで必ずまぶたに重りがつくのだという。市場の帳簿なら平気なのに、物語や学術的な本だとだめらしい。

「帳簿は、読めるのに」

「帳簿はね、数字の向こうに、お客さんの顔が見えるの。この人まとめ買いしたなあ、とか。今月は苦しそうだなあ、とか。……物語はさ、字の向こうに、まだ誰の顔も見えないんだもん。見える前に、眠くなっちゃう」

なるほど、とプシュケは思った。読めないのではない。顔が見えれば読める人なのだ。診断が出れば処方は決まる。顔の見える本を選べばいい。

「本って、じっとしてるでしょ。わたし、じっとしてるのが下手なの」

もったいない、とプシュケは思った。心の底から思った。本の中には、じっとしたまま行ける場所がこんなにあるのに。

それに——これは、打算も少しある——旅の相棒が本を読めるようになれば、調べものの手が二本から四本になる。キュラリアの手がかりは、これからも本の中から拾うことが多いはずだ。三頁の壁は、旅の実務の壁でもあった。

でも正直に言えば、打算は二割だった。残りの八割はもっと単純で、もっと子どもっぽい気持ちだ。わたしの好きな場所にこの人を連れてきたい。この人がわたしを、市場や原っぱや川魚の食堂に連れて行ってくれたみたいに、本の中の景色をこの人と分け合ってみたい。

——そこで、思い立った。

「キーラさん。ひとつ、勝負をしませんか」

「勝負!? いいよ! なにで?」

「わたしが選んだ本を、一冊。最後まで読めたら、キーラさんの勝ち。途中で寝たら、わたしの勝ちです」

「うっ……い、いいよ! 負けたらどうなるの?」

「勝ったほうが、今日の夕飯の献立を決められる、で」

「乗った!! ……あれ、待って。それ、わたしが勝っても負けても、プシュケちゃんは楽しいやつじゃない?」

「気づきましたか」

「ずるい!! でも乗る!!」

プシュケは、本の谷へ入っていった。

九年間本だけは読んできたから、目利きなら負けない。キーラという人も、この町に来てからずっと読んできた。じっとしているのが苦手で、知らない場所の話が好きで、食べ物の描写に目がなくて、人の声で聞く物語なら夜半まで起きていられる人。

候補は、三冊まで絞れた。

一冊目、冒険譚の名作。却下。冒頭に系図と地名が三十個出てくる。三頁の壁が、二頁に早まるだけだ。二冊目、恋の詩集。保留。短いのは強みだが、キーラが詩を読む姿が、どうしても想像できなかった。

三冊目——本の塔の中ほどで、背表紙が呼んだ。

選んだのは、薄い、絵入りの一冊だった。

『東方見聞 食べ歩き道中記』——数十年前の行商人が、東の国々を食べ歩いた旅行記。挿絵つき。一章が短く、章ごとに知らない料理が出てくる。

選書の根拠は、五つ。一、章が短いため、壁が来る前に章が終わる。二、この人の集中力の最大手である食べ物。三、著者が商人なので、値切りの場面で必ず身を乗り出す。四、挿絵がたくさんあるので、目の休憩所になる。五、読んでいる本人が今まさに旅の中にいるので、旅の本はうってつけである。

九年間、症例を読み、伝承を読み、行間を読んできた。その読む力を、人ひとりに向けて使ったのは初めてだった。人もある程度読め、読めた中身に合う本を選べる。書庫の技術の、まったく新しい使い道だった。

「……食べ物の本だ」

「旅の本です。さあ、どうぞ」

「うう、受けて立つ! ……あ、挿絵がある。えらい」

「挿絵は、えらいです」

✦ ✦ ✦

その夜、宿の食堂で事件は起きた。

「プシュケちゃん!! 読めた!! 全部!!」

キーラが、本を振りかざして駆け込んできたのである。夕飯どきの食堂で、他の客がぎょっと振り返った。

「最後まで!? 一回も寝ないで!? わたしが!?」

「お、落ち着いてください。何頁でしたか」

「九十六頁!! 自己最高記録!! 今までの記録、三頁!!」

「三十二倍です」

「さんじゅうにばい!!」

食堂の客たちが、事情も分からぬままなんとなく拍手をした。世界には、内容不明でもとりあえず祝うという文化があるのかもしれない。キーラは全方向にお辞儀をし、プシュケはフードを深くかぶり直した。

キーラは椅子に座るなり、身振り手振りで中身を語りはじめた。南の国の、麺を音を立ててすする文化のこと。荒野の民の香辛料だけで作る煮込みのこと。船の上でしか作れない、揺らして固める菓子のこと。

「あのね、いちばんすごいのがね、著者のおじさん、食べすぎてラクダに乗れなくなるの! 自業自得!! しかもそれを『経費』って書くの! 商人の風上にも置けない! 最高!!」

実は、プシュケもその本は読んでいる。読んでいるのにキーラの再現つきで聞くと、初めて読む本みたいにおもしろかった。おじさんが宿代を値切って麺一杯で手を打つ章では、「分かる、それが正しい」と商人の血が全力の相槌を打ち、煮込みの章では「この香辛料七種って何!? プシュケちゃん知ってる!?」と質問が飛んできて、薬草図譜の知識が思わぬ形で役に立った。

「それでね、船旅の章! 揺らして固める菓子! あれ、どうやって固めてるの? プシュケちゃんの氷なら再現できる?」

「揺らしながら冷やす、のだと思います。理屈の上では……ええ、たぶん、できます」

「じゃあ今度やろう! 旅の実験!」

「本の中の菓子を、本の外で作る……。それは、その、良い読書の使い方です。とても」

読んだ本が、次の遊びの種になる。書庫では、読み終えた本は棚に帰るだけだった。この人の手にかかると本は棚に帰らない。旅の荷物の中で、次の出番を待つ道具になる。

「ふふ……」

つい、声が出た。それに気づいたキーラが、ぴたりと止まる。

「あ。プシュケちゃん、いま笑った」

「……笑って、いません」

「笑った! 声出てた!」

笑っていた。自覚もあった。誰かが本の話をこんなに楽しそうにするのを、生まれて初めて見たのだ。書庫の九年間で、一度も見たことのない光景だった。本はひとりで読むものだと思っていたので、読んだ話をこんなふうに分け合えるものだとは知らなかった。

「ね、プシュケちゃん、この本の続きってある?」

「二巻と三巻が、あります。三巻では、著者は船から落ちます」

「読む!! 明日買う!!……て、え!?そうなの!?」

翌朝、二人はその本を持ってベシル書房に駆け込んだ。二巻と三巻の在庫を聞くと、老店主は帳場から眼鏡越しに二人を眺め、「……ほう。壁が、破れたか」とすべてを察した顔で笑った。

「新しい本の虫が一匹、生まれたの。めでたい日じゃ。二巻は、ほれ、その塔の三段目。三巻は……どこじゃったかな。探すのも修行じゃ」

「探す! がんばります!!」

キーラが本の谷に消えていく。ベシルはその背中を見送って、プシュケにこっそり言った。

「……嬢ちゃん。良い選書じゃな」

「そう、でしょうか」

「本屋はな、客の選ぶ本で、客同士の仲まで読めるんじゃよ。……あの一冊は、『読ませたい本』じゃなくて、『あの子の隣に置きたい本』の選び方じゃった。それはな、本好きの選書のいちばん上等なやつじゃ」

いちばん上等、その言葉を心の中で反芻していると、奥の谷から「あったー!! 三巻!!」という歓声が響いて、店の本たちが少しだけ揺れた気がした。

——勝負のことは、二人ともすっかり忘れていた。思い出したのは夕飯の注文のときで、協議の結果、引き分けとして献立は半分ずつ決めた。キーラが揚げ魚、プシュケがサピエトの葉の和え物と、結局いつも通りだった。勝敗のつかない勝負が、案外いい勝負であるのかもしれない、と二人は思った。

皆さんからいただいた時間 191.85Ø
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