出立の前に、路銀を稼いでおこう——ということで、二人はリブロンの組合に寄った。
掲示板のいちばん上に、赤い縁取りの依頼が貼ってあった。赤縁は急ぎの印だ。
『西街道に「歩く木」が居座り、荷馬車が通れない。移動または駆除。報酬80Ø』
「歩く木……トレント、ですね」
受付の説明によると、三日前から森の古木が一本、街道のど真ん中に根を下ろしてしまったらしい。トレントは本来、臆病で動きも遅いので、森の奥から出てこない魔物だ。ただしその幹(胴)は太いため、並の斬撃は樹皮に食い込みもせず、無理に燃やせば街道沿いの畑まで延焼しかねない。手をこまねいているうちに、物流の町の西街道が三日止まっているという。
「受けます!」と、キーラが即答した。
「……理由を、聞いてからでも」と、プシュケが補足した。
「理由?」
「トレントは、理由なく森を出ません。本に、そう書いてありました」
受付は、二人を見比べて少し言いにくそうに付け足した。
「言っておきますが、お嬢さんがた。この依頼、昨日、腕自慢の傭兵が三人がかりで挑んで、斧を二本だめにして帰ってきてます。等級の上では中堅向けですが、実質は……」
「実質は?」
「誰も手の付け方が分からない依頼です。だから赤縁のまま、三日、残ってる」
手の付け方が分からない。つまり、力の問題ではなく読み方の問題だ。プシュケは、それならと思った。読み方の勝負ならこちらの土俵である。
✦ ✦ ✦
現場の手前で、まず荷馬車の列に出くわした。
西街道の路肩に、立ち往生の馬車が十台あまり。御者たちが所在なげに賽子を振ったり、馬に水をやったりしている。
「三日だぜ、三日」
と、先頭の御者がぼやいた。
「回り道は峠越えで二日余計にかかる。積み荷は待っちゃくれねえ。組合は『対処中』の一点張りでよ」
「木を、どうにかしようとは」
「したさ。斧は弾かれた。綱で引けば根を張り直す。火をかけようって奴もいたが……見りゃ分かる。あの木の周り、麦畑だ。風向きひとつで、畑一体が丸焼けよ」
つまり、力ずくも火も使えない。プシュケは頭の中で、対処の選択肢に線を引いていった。残る手は多くない。
現場に行くと、なるほど、道の真ん中に木が生えていた。
大人が五人がかりでも抱えきれない幹。街道の敷石を割って張った根。枝の末端は枯れかけて、葉は半分も残っていない。近づくと、幹の節くれがぎょろりと動いて、こちらを見た。
『……む、しろ』
軋むような、低い低い声だった。
「しゃ、喋った!?」
「古い個体は、まれに人語を使うそうです。……むしろ? むしろ、の続きが、あるはずです」
『……水、』
古木は、それきり黙った。枝が一本、力なく、森とは反対の方向——街道の先を指した。
「水……。ね、プシュケちゃん、この子、いくつくらいなんだろう」
「トレントの年輪は、樹皮の襞の数で推定できると、図鑑に。……この幹のシワの数だと」
数えて、プシュケは少し黙った。
「……三百年。あるいは、それ以上」
三百年。大戦の何倍も前から、この森で立っていた計算になる。国が興って滅ぶのを、根を張ったまま何度も見てきた齢だ。その齢の生き物が、今渇きひとつで街道の敷石の上で干からびかけている。長生きの重さと、渇きの単純さの釣り合わなさが、妙に胸に応えた。
プシュケは周囲を歩いて調べた。森の縁の土を握ると、乾いている。下草の色やヒトクイソウの葉の萎れ方を確認し、頭の中で地誌の頁がめくれていく。
「……キーラさん。この森、水源が細っています。今年は雪解けが早かったと、地誌にありました。奥の沢が、涸れかけているんだと思います」
「じゃあ、この子……喉が渇いて、水を探しに出てきたの?」
「おそらく。街道の先には、川があります。ただ、トレントの足では、あと十日かかる距離です。それまでに——」
枯れる。言葉にしなくても、キーラには伝わった。
「駆除依頼、だけどさ」
キーラは槍を担いだまま、幹を見上げた。
「これ、駆除じゃなくて、引っ越しのお手伝いだよね」
✦ ✦ ✦
まず初めにプシュケが空気中と地中の水分を集めて凍らせ、氷の塊をいくつも作る。冷結と集氷の応用——戦闘用ではなく、生活魔法の延長線。
「水のままじゃ、だめなの?」
「水は、地面に染みて逃げます。氷なら、溶けるぶんだけ、ゆっくり飲めます。……弱った体に、一気の水は毒ですので」
氷塊を根元に積むと、古木は最初、警戒するように動かなかった。それから根の先が一本ずつ、恐る恐る氷に触れた。
『…………、』
次の瞬間、太い根が何本も氷塊を抱え込んだ。ゆっくり溶けるそれを、貪るように吸う。乾いた樹皮に、みるみる色が戻っていく——とまではいかないが、節くれの目に光が戻った。
『……お、……お、……』
「たくさんどうぞ。まだ作れます」
見物に来ていた御者たちが、遠巻きにざわめいた。「トレントに水やってるぞ」「魔導師さまが?」「討伐じゃねえのか」——依頼は討伐だが、やることは討伐ではないのだ。
やがて、ざわめきの質が変わった。先頭の御者が腕組みをほどいて、つぶやいたのだ。
「……そういや、俺のガキの時分は、あの森の沢で泳いだもんだ。近ごろ、水音を聞かねえと思ってた」
「言われてみりゃ、下草も茶色いな」
「よく見てみると、このトレントなんか元気がなさそうだな」
本当は『水』のひとことは、三日前から誰の耳にも届いていたはずだ。届いていても、「魔物の声」として聞き流し、だれもまともに取り合わなかった。敵の言葉を言葉として聞くには、ちょっとした構えの変更が要る。その変更を、たまたま通りすがりの二人がやった。それだけの話だった。それだけの話が、三日誰にもできなかった。
「おーい、嬢ちゃんがた! 水なら、うちの樽の分けてやろうか!」
「あ、じゃあお願いします! 氷の材料にします!」
立ち往生の荷馬車の列から、水樽が二つ転がされてきた。それは、三日睨み合った相手への講和の品だった。
次に本格的な引っ越し。水を得て動けるようになった古木を、街道から森の、川に近い側へ誘導する。ここでキーラの出番だった。
「こっちだよー! 水の匂い、こっち!」
風を纏った槍で、川の方角から湿り気を含んだ風を送る。古木の残り少ない葉が、ざわ、とそちらへ傾く。一歩。地響き。また一歩。トレントの歩みは氷河のようだったが、確かに街道の外へ向かっていた。
問題がひとつだけ起きた。古木が森の縁で、また動かなくなったのだ。見ると、根の一本が、街道の敷石の割れ目に、深く挟まっていた。
「引っこ抜くと、根が折れます。折れると、この弱り方では」
「凍らせて、砕く——は、だめだよね。根が相手じゃ」
「……違う方法を、やります」
プシュケは、根より少し離れたところにまだ余っている水を撒くように指示し、少しの間待つ。
そして、敷石やその周りの土が十分に水を吸ったところで、その部分を凍らせた。
「キーラさん。この部分に衝撃を加えてください。根に触れないように——できますか」
「風のさじ加減なら、まかせて!」
風を纏った石突が、こつん、凍らせた部分に衝撃を与える。ノルディオの原っぱで、風車を回して覚えた加減だった。怒りの風では、絶対にできない細工だった。
するとその部分が砕け、道の余白が出来たことで生じた隙間から、根がするりと抜けた。
『…………おお、』
古木は二人を見下ろして、枝を一本、深く、ゆっくりと垂れた。それはまるで、お辞儀に見えた。
それから、垂れた枝の先がキーラの頭の上でひらいた。枯れかけの梢のどこに残っていたのか、小さな緑の若葉が一枚、くるくると舞い落ちて、金髪の上に、ちょこんと載った。
「……くれたの? これ」
『……みず、の……こ、』
水の子。三百年の語彙で、それが精一杯の呼び名らしかった。キーラは若葉を両手で受けて、宝物の顔をした。魔物の方から贈り物があるなんて、滅多にないことである。
古木は氷河の歩みで森へ入り、川の匂いのするほうへ遠ざかっていった。街道に残ったのは、割れた敷石と、根の跡と、見送る人間たちだけだった。御者の誰かが、ぽつりと「達者でな」と言った。三日の恨みは、どこにも残っていなかった。
✦ ✦ ✦
「移動、完了です。駆除は、していません」
組合への報告で、受付は苦笑いした。
「報酬は『移動または駆除』ですから、満額で結構ですよ。……しかし、水不足とはねえ。組合から町に、森の沢の改修を上げておきます」
「お願いします。それと、報告書に一行、加えていただけますか。トレントは人語を解する。今後似たようなことがあれば、西の森の個体には、まず声をかけること——と」
「……冒険者の報告書に『まず声をかけろ』とは。前代未聞ですが、書きましょう。前例ってのは、こうやって増えるんでしょうな」
80Øは、時元コインで受け取った。二人で40Øずつ。この旅でいちばん大きな稼ぎが、誰の血も流さない依頼だったことを、プシュケは静かに気に入った。
帰り道、夕焼けの街道でキーラが伸びをした。
「今日の依頼、よかったねえ。誰も欠けてない」
「……はい。トレントも、含めて」
「あ、そうだ。プシュケちゃん、さっきの氷すごかったね。氷魔法ってあんな風に使うこともできるんだね」
「……氷も、頑張れば色々使えるらしい、です」
プシュケは、自分の指先を見た。
凍らせて、砕くだけが、二人の連携ではないらしい。凍らせて守る。冷やして潤す。風で導く。二人の手札は、旅の日数ぶんだけ増えていく。
夕焼けの向こう、森の梢の上に鳥が数羽、輪を描いていた。三百年の古老が川辺に落ち着く場所を、あの鳥たちはたぶんもう知っている。若葉を髪に挿したままの相棒が、鼻歌まじりに歩いている。明日はいよいよ出立の支度だ。南東へ。旧タイラー領の、噂の洞窟へ。