携行食の補充、外套の繕い、油布で三重にした本束の防水包みなど、翌日に向けた旅支度そのものは既に終わっていた。
荷物の重さは出立時より二割増え、その二割のほとんどが紙だった。キーラに「また本が増えてる」と指摘されたが、「必要経費です」で押し通した。
しかしその支度とは別に、プシュケには済ませておくべき仕事があった。
伯父への、定期報告である。
王立省の調査任務という建前がある以上、報告書の提出は義務だ。というよりも、義務でなくても書くつもりだった。あの人は絶対に「便りがない」ことを気に病む。気に病んだ顔は見たことないけれど。
宿の机に紙を広げ、プシュケは書き出した。
『王立省辺境資源調査・第一次報告
調査員ダイヤスト・プシュケより、フォルシス宰相へ。
一、行程。アルメリオを経て、現在リブロンに滞在。明朝、東方へ出立予定。
二、調査事項。リブロンにて古文献『三大星華考』の写しを入手。永久氷星華に関し「特殊なる氷の地」「大精霊の守護」の記述を確認。
三、その他。東方に「知られざる魔法の技術書」なる文献の噂あり。永久氷星華の手掛かりになる可能性もあるため、旧タイラー領辺境を次の調査目標とする。
以上』
読み返すが、過不足なし。簡潔で正確で様式どおり。
様式どおりに書ける理由は単純で、書き方をあの人の書類で覚えたからだ。子どものころ、王立図書館の読書と、温室でのアリシアとの茶会以外に、伯父の執務室の隅で、決裁待ちの文書の山を許可を得て読むのが好きだった。国の文書というものは、無駄や嘘が無くて静かだった。あの山の中の一枚一枚が、どこかの町の橋や井戸になり、やがて国境の砦になった。フォルシス伯父さまの文章は、地味で、硬くて——よく読むと、必ず誰かの暮らしのほうを向いていた。
だから、報告書はあの人への手紙として、実はいちばん正しい文体のはずなのだ、はずなのだが。
「うわ、かったーい!」
肩越しに覗き込んだキーラが、遠慮のない感想を述べた。
「か、硬くありません。報告書とは、こういうものです」
「これ、伯父さんに出すんでしょ? お役所じゃなくて」
「伯父は、お役所の長のような人です」
「でもさあ」
キーラは、報告書の隅をつついた。
「プシュケちゃんが元気かどうか、どこにも書いてないよ。伯父さん、まずそれが知りたいと思うけどなあ」
「……任務の報告書に、私事は書きません」
「じゃあ追伸は? 追伸は私事を書くための発明だよ。うちのお父さんが言ってた」
「絶対に言ってません、そんなこと」
「言ったの! 問屋さんへの手紙にね、本文はお金の話でカチカチなのに、追伸に『腰はどうですか』って書くの。そうするとね、次の取引がちょっとだけ、うまくいくんだって」
「……それは、商売の技術では」
「技術でもあるけど、本心でもあるんだよ。両方だから、効くの」
言い合いになったが、結局負けた。
しかしどう書いたらいいのかわからず、ペンを持ったまま五分固まった。固まっていた時間に考えていたのは、辞令を三日で整えた人のことだ。あの人の「行ってこい」も、書式で言えば、公文書に紛れ込んだ追伸のようなものだったのかもしれない。だったら、返事をするのが礼儀というものだった。
『追伸。
同行者が一名できました。ナビア出身の冒険者で、キーラさんという方です。風の三級を使います。よく食べ、よく笑う、いい人です。
わたしは元気です。』
読み返すとかなり良い線まで行っていたが、『いい人』と言う曖昧な表現が引っかかった。
(もっとこう、別の何か……伯父様が納得するような言葉で……。)
そしてプシュケはもう少し考えた後、一行を書き足した。
『安心してください。信頼できる方です』
書いてから気づいたが、この一行は、キーラ本人の目の前で書くには、いささか、率直すぎた。すると書き終わったプシュケを見て、横からキーラが文章をのぞき込んだ。
「……読まないで、ください」
「もう読んじゃった。えへへ」
「~~~っ、封をします! 今すぐ!」
今まで追伸の大切さが分からなかったが、書き終えた紙面を見ると、報告書は確かに、報告書のはずなのに少しだけ手紙の顔をしていた。
✦ ✦ ✦
手紙といえば、キーラも書いていた。
例によって両親宛て。それからもう一通、宛先を書いては消し、書いては消ししている紙があった。
「……出さないんですか、それ」
「んー、リーリアの。今、ゼネライトっていうロイゼルの都市にいるのはわかるんだけど、具体的に街のどこの場所にいるのか分かんなくてね。まぁ、実家に送れば転送してもらえると思うんだけど……。それに、何書いていいか、分かんなくなっちゃって」
キーラはペンの尻で頬をかき、めずらしく歯切れが悪かった。この人の言葉の在庫が切れるところを、プシュケは初めて見た。大事な相手ほど、言葉は選びすぎて詰まる。それはストラル王国でも、ロイゼル商国でも平等に起こることらしかった。
「会わなくなって長いとさ、近況って、どこから書けばいいんだろうね。海賊が来たとこから? 旅に出たとこから? ぜんぶ書いたら本になっちゃう」
「……最初の一行が決まれば、あとは、勝手に続くものですよ」
プシュケは、自分の報告書を折りながら言った。
「わたしの本の、九割は、そうやって書かれています」
「最初の一行かあ。……よし」
キーラはしばらく宙を睨んで、槍の素振りをするみたいに深呼吸をひとつして、それから一気に書いた。覗くつもりはなかったけれど、勢いのある字が、目に入った。
『リーリアへ。あなたのくれた髪飾りは、いま、海賊の根城と、狼の夜と、雨の祠を越えました。』
続きは、勝手に続いたらしい。それからキーラのペンは、夕飯まで止まらなかった。
書きながらキーラはときどき笑い、ときどき手を止め、一度だけ鼻をすすった。手紙というものは、書いている顔を見れば中身の温度が分かる。会わなくなって長い幼馴染みへの手紙は、笑いと鼻すすりの配合で書かれていくものらしい。
「リーリアってね」と、ペンを走らせたままキーラが言った。「二年前に、お父さんの転勤で、ゼネライトに引っ越しちゃったの。それまではね、わたしが市場や浜で見つけた面白いものを、ぜんぶ話してあげる係だった。あの子は花の話の係。……この手紙も、そのつづき。係のつづき」
「……いい係です」
「でしょ。旅に出て、係の縄張りが、すっごく広くなっちゃった。書くこと、多くて多くて」
遠くの幼馴染みのために、世界を見て回る係。——その構図に、聞き覚えがあった。氷の中の母のために、世界の果ての華を探す係。縄張りの広さも、係を降りる気のなさも、同じだった。この金髪の人とわたしは、持ち場がちがうだけの、同じ係なのかもしれない。
途中で一度だけ手が止まって、キーラはプシュケを見た。
「ねえ、プシュケちゃんのことも書いていい? 『すごい魔導師の友だちができました』って」
「……と、友だち」
「あ、同行者のほうがいい?」
「———どちらでも。お好きに、どうぞ」
書いていいか、の答えとしてはたぶん満点ではなかった。でもキーラは「じゃあ友だちで!」と即決して、続きを書きはじめた。プシュケは自分の記録帳に向き直って、意味もなく同じ行を三回読んだ。
友だち……不思議な感覚になるけど、嫌じゃない単語。
✦ ✦ ✦
夕方、それぞれ書いた手紙を、ギルド支部に預けた。
「王都行きは、隊商便で十五日ほど。ナビア方面は、船便次第で一月かかることも」と、窓口の係が言った。
「一月かあ。……ね、係の人、質問! 手紙が届くまでの一月の間に、書いた人がすっごく元気になってたり、逆にへこんでたりしたら、手紙の中身って、古くなっちゃわない?」
「はは。よく聞かれますよ、それ。うちの親方の受け売りですがね——手紙ってのは、書いた瞬間の、その人の時間を届けるもんです。古くなるんじゃない。その時間のまんまで届くんです。だから、いい時に書きなさい」
いい時に書きなさい、という言葉に二人は顔を見合わせた。この街で過ごした数日間は、いい日だったろうか。時貸しを追い払って、本の写しを取り終えて、トレントを討伐せずに川へ帰して。……悪くない。悪くないどころではない。今の二人の時間が、二十日後の王都と一月後のナビアにこのまま届く。
ゼネライトへ行く手紙たちと、サークライトへ行く報告書。荷馬車に載せられて、それぞれの読み手のところへ何日もかけて旅をする。
「ねえ、プシュケちゃん。手紙ってさ、ちょっとだけ時元コインに似てるね」
「……と、言いますと」
「他の誰かの時間が、めぐり巡って手にした人のもとへ届く」
「————。……その着想、記録帳に、いただきます」
「どうぞ! 名前つきで!」
プシュケは、ギルド受付の窓口から遠ざかる荷を見送った。
王都の執務室で、あの難しい顔が「追伸」の三行を読む場面を想像してみる。眉間の皺が、ほんの少しだけ緩むところまで想像してみる。
——書いてよかったかもしれない。追伸。
「キーラさん」
「ん?」
「追伸の発明者に、感謝します」
「でしょ! うちのお父さんに言っといて」
「ですから、絶対に違います」
✦ ✦ ✦
——二十日後の王都。
執務室で報告書を受け取ったフォルシス宰相は、本文を一分で読み終え、追伸の三行を五分かけて読んだ。それから、決裁の山の一番下から一枚の白紙を引き抜き、何かを書きかけて、やめ、書きかけて、やめ、最終的に公文書の返信の末尾に一行だけ書き足したという。
『追伸。息災、何よりである。同行者殿に、姪をよろしくと』