出立前日は、別れの挨拶で埋まった。
まずベシル書房。老店主は餞別だと言って、東部の古い道中案内を一冊押しつけてきた
「絶版じゃ。金は取らん。そのかわり、旅の帰りに道中の話を聞かせに来い。本屋への礼はな、本の代金か、次の本の種かどっちかじゃ」
プシュケは深々と頭を下げ、キーラは
「三大星華、見つけたら絶対に知らせに来ます!」と請け合った。
「ひっひ。楽しみが増えたわい。」
そういって、ベシルは二人を送り出した。
次にパン屋のトゥーレさん。こちらは、明日の朝の焼きたてを取り置く約束と、道中用の堅パンをひと包み渡してきて、
「銭はいらねえ。時貸し屋から返してもらった時間の利子だ」
と言い張られ、押し問答の末、半額だけ払った。商人の娘と職人の意地の、痛み分けである。
仕立屋のおばあちゃんには、プシュケの外套の裾のほつれを、あっという間に直された。
「行っといで。学者町はいつでもここにあるよ。……本と、パンと、口の悪い年寄りつきでね」
数日いただけの町なのに、別れの挨拶が半日仕事になった。もしかしたら、これがキーラと旅をするということなのかもしれない。ひとりの旅なら、この町の思い出は写しの本束だけだったはずだ。
挨拶を終えて宿に戻ると、荷造りの音がしていた。
プシュケの荷物は、来たときより重くなっていた。原因は分かっている。写しの束と、買い足した本が三冊。かわりに着替えを一枚減らそうとして、キーラに「なんで!?」と全力で止められた。
「本を減らすんじゃなくて!?」
「本は、減らせません」
「服も減らしちゃだめ! ……もう、わたしの鞄に一冊入れたげるから」
「! ……お願い、します」
即答してしまった。キーラは呆れ顔で笑って、いちばん厚い地誌を自分の鞄に収めた。
「重くないですか」
「へーき。それにほら、わたしの鞄、『食べ歩き道中記』の三巻も入ってるし。本仲間がいたほうが、寂しくないでしょ」
「本に、社交性の概念を……」
「あるよ? 棚のはじっこの本って、ちょっと寂しそうだもん」
反論しようとしてやめた。ベシル書房の本の塔を思い出したのだ。あの雑然と積まれた本たちは、たしかに整然と並んだ王都の書庫の本より楽しそうに見えた。本の社交性…非科学的だが、こういう仮説の扱いに、プシュケは最近ずいぶん柔らかくなった。
それからしばらく、互いの荷造りの音だけが続いた。
学者の町の夜は、みな写本や読書をしているので静かだった。ランプの灯り。畳んだ服。窓の下を、夜回りの提灯がゆっくり通っていく。明日からまた、道の上の日々が始まる。屋根と寝台とトゥーレさんのパンに、体が未練を言っているが、言わせておく。未練の残る町は、いい町だった証拠だ。
会話が、ふと途切れた。
キーラは寝台の上で、明日の道順を鼻歌まじりに指でなぞっている。プシュケは写しの束を油紙に包み直している。
別に沈黙は気まずくなかった。この数週間で、二人の沈黙は気まずくない沈黙になっていた。
だからこそ、聞くなら今だと思った。旅の空の下でも、焚き火の前でもなく、屋根の下のこの穏やかな夜に。ずっと鞄の底に沈めてきた問いを取り出すなら。
「キーラさんは怖く、ないのですか。旅の終わりが」
言ってから少し驚いた。誰かに自分から話しかけるのは、いつだって少しだけ勇気の要る仕事だったのに。今のはするりと出た。
「ん?」
キーラの手が、止まった。
「終わり?」
「……旅は、いつか終わります。探しものが見つかっても、見つからなくても。わたしの旅は、特にそうです。キュラリアが見つかれば終わる。見つからないまま、いつか路銀と時間が尽きても——終わる」
言葉にすると、思ったよりはっきりした形をしていた。ずっと鞄の底に沈めていた問いだった。
「見つからなかったら、と考えると。……わたしは、ときどき、とても怖いです。九年調べて、二十七件の『回復例なし』を知っていて、それでも出てきて。この旅の終わりに、何もなかったら。……あの氷の部屋に、なんて言って帰ればいいのか」
キーラは荷造りの手を完全に止めて、寝台の縁に座り直した。
ちゃんと考えてから答える人の、間があった。
「怖いよ?」
出てきたのは、あっけないくらい正直な答えだった。
「わたしも怖い。旅の終わりっていうか……この旅で、自分がなんにも見つけられなかったら、って思うと、けっこう怖い。わたしの探しものなんて、名前もないんだし。目印もないから、もう通り過ぎちゃってても、気づけないかもしれないし」
「……キーラさんでも、そう思うのですね。」
「そりゃそうだよ。でもね」
キーラは膝を抱えて、少しだけ考えて続けた。
「ナビアでね、旅に出るかどうか迷ってた夜、思ったの。行って、なにも見つからないのは怖い。でも、行かないでいるのは——見なかったことのほうが、あとで怖いんだ」
見なかったことのほうが、あとで怖い。
「おばあちゃんになったわたしが店の帳場でさ、『あのとき行ってれば』って考えてるとこ、想像しちゃったんだよね。そっちのほうが、ずっと怖かった。……だから、プシュケちゃんも大丈夫」
「……なにが、ですか」
「プシュケちゃんはもう、行くほうを選んだ人だから。九年調べて、怖いのぜんぶ知ってて、それでも王都の門を出た人だから。——終わりがどっちでも、『見なかった』にだけは絶対ならないよ」
それに、とキーラは指を折りながら話し続けた。
「今日までで、もう、けっこう見つけてるよ? 三大星華の写しにある『特殊な氷の地』っていう手がかり。ベシルさんの婆さまのなぞなぞ。南東の古文書の噂。……九年で断片だったのが、この数週間でこんなに。前に進んでないみたいで、進んでるんだよ、ちゃんと」
言われて、プシュケは頭の中でこの旅を振り返った。この旅の収穫の欄は、事実、王都の九年よりすでに行数が多いかもしれない。怖さは収穫の欄を読まずに、空白の欄ばかり読むから大きくなる。帳簿の読み方の癖は、こういうところにも出るらしかった。
しばらく、どちらも喋らなかった。
ランプの芯が、じじ、と小さく鳴った。
「……それに、さ」
キーラが少しだけ声の調子を変えて、付け足した。
「もし……もしも、だよ。旅の終わりに、プシュケちゃんが泣くことになったら——そのときは、隣にわたしがいるよ。ひとりで氷の部屋に帰ることには、もう、ならないから」
プシュケは、返事ができなかった。
九年間、いちばん怖かったのは、実は見つからないことそのものではないのかもしれない。見つからないまま帰った日の、あの静かな部屋の寒さを、ひとりで受け止める寂しさと虚しさ。誰にも言ったことのないその怖さの、いちばん深い場所を、この人は地図もなしにまっすぐ歩いてきて、灯りを置いた。
(……どうして、分かるんですか。言っていないのに)
聞けなかった。聞いたら、答えより先に別のものが出てしまいそうだった。
かわりに、荷造りの手を動かした。写しの本束の紐を、必要以上に固く結び直した。目の奥が熱いのを、手元の作業のせいにしておきたかった。
キーラはそれ以上、何も言わなかった。言わないでいてくれることまで含めて、さっきの言葉の続きだった。
「……キーラさん」
「ん?」
「明日の朝食は、わたしが奢ります」
「???え、なんで!? え、やった! ……なんで?」
「利子です。なにかの」
「なにかの利子! いちばんおいしいやつだ!」
意味は分かっていないはずなのに、受け取り方だけはいつも満点だった。
なにの利子かは言わなかった。言わなくても、この夜のことは記録帳に書かなくても、一生忘れない気がした。
✦ ✦ ✦
その夜、寝台に入ってから、プシュケは長いあいだ天井を見ていた。
怖さは消えていない。たぶん、旅の終わりまで消えない。でも、怖さの置き場所が変わった気がした。鞄の底に隠しておくものから荷物のひとつとして、ちゃんと持って歩くものに。持って歩く荷物なら、重さを分けられる。今夜、一冊の地誌が隣の鞄に移ったのと同じやり方で。
(……ふしぎな人)
理屈で慰めないのに、理屈より効く。効いた理屈は、あとから記録に書ける。効いた言葉は、記録に書けない。もしかしたら、書けないものの方が一番長持ちするのかもしれない。
まぶたの裏に、九年間の書庫と、氷の部屋と、王都の門と、それから——この数週間の、焚き火と、猫と、本の谷と、今日の荷造りの灯りが、順番に流れていった。
眠りに落ちるその間際、胸の奥でちいさな音がした。
厚い氷の表面で、最初のひび割れが、ピシと鳴るときの音。長いあいだ凍っていたなにかが、溶けはじめる音だった。
白銀の願いは、ひとつだと思っていた。母を治すこと、それだけだと。
——もうひとつ、あったのかもしれない。誰かと、こんなふうに歩きたかったこと。
それを認めるのは、また今度でいい。プシュケは目を閉じて、今度こそ眠った。
✦ ✦ ✦
翌朝は、約束どおりプシュケの奢りだった。
トゥーレさんの焼きたてのパンと、温めた山羊の乳。キーラは三つ食べ、プシュケはひとつ半食べた。
「利子の朝ごはん、おいしいねえ」
「……なにの利子か、聞かないんですね」
「聞かなーい。おいしいから」
東の門を出るとき、二人は一度だけ振り返った。紙とインクの匂いの町。時貸しと戦って、写しを取って、木を川へ帰して、新しい本の虫が一匹生まれた町。
門の上の朝日が、屋根瓦をぜんぶ蜂蜜の色にしていた。
「行ってよかった、って言える町が、またひとつ増えたね」
「……はい。記録帳に、記入済みです」
街道は東へ。当面の目標は、旧タイラー領——現在はエルビ民主国となっている——へ行き、知られざる魔法の本が眠っている洞窟へ向けて。町に来る前より荷物は少し重かったが、足取りはそれより軽かった。