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CHAPTER II 第38話 白銀の願い
Ourhour-Traveler

第38話 白銀の願い

第二章 銀色の書庫 編

東へ進むにつれて、道の空気が少しずつ変わっていった。

すれ違う荷馬車の荷が変わる。食料と反物が減って、鉄と木材が増える。すれ違う冒険者や行商人の顔ぶれが変わり、ぽつり、ぽつりと国境の話が混ざりはじめる。

「——またデンタルの検問が厳しくなったとよ」

「帝国さんのご機嫌次第さ。ここんとこ、向こうの巡回が増えてるって話だ」

「おっかないねえ。二十数年前に小競り合いがあったと聞くが、大戦にいたっては、六十年も前の話だろうに」

キーラとプシュケはちょっとした旅人の休憩所で、香草茶の湯呑みを両手で包んだまま、聞くともなしに聞いていた。

ストラル王国と、ダルケン帝国。国境を挟んだ二つの国は、六十年前の大戦では敵同士だった。今は戦争こそないけれど、と地誌の記述が頭に浮かぶ。商人は国境を越えるが、兵は国境を睨み合う。

「プシュケちゃん、帝国って行ったことある?」

「ありません。ストラル王国と帝国は……その、あまり仲がよくないので。書物の行き来も、少ないです」

「ふうん。どんな国なんだろ」

「軍の国、と聞きます。規律と、鉄と、それから——聖騎士団」

「せいきしだん」

「帝国の精鋭です。地上での物理戦なら、大陸最強とも。……本の受け売りですが」

キーラは「大陸最強かあ」と串焼きを齧った。

ストラル王国には王立魔導軍、ロイゼル商国にも軍隊がいたが、二人ともそういった戦いとは無縁だったので、聖騎士団という単語はただの遠い存在だった。

デンタル手前の宿場では、初めて帝国の兵を遠目に見た。

国境の巡回だという黒っぽい鎧の騎兵が、街道の向こうを隊列を乱さず駆けていく。それだけのことなのに、宿場の通りは、しん、と音を落とした。露店の売り子が呼び込みをやめ、子どもが親の袖の陰に入り、みんな目だけで騎兵を追った。

騎兵が丘の向こうに消えると、通りは何事もなかったように音を取り戻した。

「……みんな、慣れてるんだね。ああいうの」

「慣れて、はいないと思います」

プシュケは売り子の顔を見ていた。呼び込みを再開した声が、さっきより少しだけ高くなっていた。

「慣れたふりが、上手になっただけです。国境の町は、どこも。……本で読むのと、見るのとでは、ぜんぶ違いますね」

大戦は六十年前に終わった。終わったことに、なっている。けれど国境の空気は、終わったものの上に暮らす人たちの慣れたふりでできていた。地誌のどの頁にも、この静けさは書かれていなかった。

宿場の食堂で、老いた店主が注文の皿を置きながら、聞いてもいないのに教えてくれた。

「嬢ちゃんがた、東へ行くのかい。……悪いこたぁ言わねえ、街道からは外れなさんな。それと、黒い鎧を見たら、道の端に寄って目を合わせないこと。……別に、何をされるってわけじゃねえよ。ただ、昔からの癖みたいなもんさ。この町のな」

癖、と店主は言った。六十年かけて体に染みた用心を、この土地の人は、癖と呼ぶことにしたらしい。呼び名を軽くしないと、持ち歩けない重さというものがあるのだろう。プシュケは礼を言って、心にその言い回しごと書き留めた。歴史書は出来事を書く。癖は出来事のあとを生きた人の側に残る。

✦ ✦ ✦

帝国領のデンタルが近づいた日の夕方、街道の丘の上から東の空が見えた。

地平線の向こうはもう帝国の空だ。帝国は平原が多く、世界有数の麦の産地だ。

一面に広がる平原が、まるで夕日に焼かれたようにオレンジ色に染まってた。

この平原のさらに向こうが、旧タイラー領——六十年前に消えた国の、名前だけが残る土地。

「ここの帝国領を超えると、そこから先は、わたしも本でしか知らない土地です」

プシュケは、風にはためく地図を押さえて言った。

地図上の旧タイラー領は、一部が新たな国——エルビ民主国と記述されていた。しかし、その記述の無い大部分が広い空白のままで、町の名は消され、道は破線になり、川と山の形だけが残っている。国が消えるというのは、地図がこんなふうに白くなることなのだと、指でなぞって初めて分かった。この空白のどこかに、七属性の外側が記されている「知られざる魔法の技術書」が眠っている洞窟があるかもしれない。

「空白って、わくわくするね」と、キーラが地図を覗き込んだ。

「……不謹慎、かもしれませんよ。そこは、消えた国です」

「うん。だから、さ」

キーラは、空白の縁を指でそっとなぞった。

「誰かが行って、見て、覚えてこないと。空白のままにしとくのが、いちばん、消えた国に悪い気がする」

理屈になっているような、いないような、いつもの理屈だった。でも記録を仕事にしてきた身には、その理屈はまっすぐ響いた。見て、書けば、空白は空白でなくなる。わたしたちの旅は、誰かの消しゴムの跡を、もう一度書き起こす旅でもあるのかもしれない。

「わたしなんて、地図でも知らないよ! ……ね、プシュケちゃん。怖い?」

出立前夜と、逆向きの質問だった。プシュケは少し考えて、正直に答えた。

「怖い、です。すこし。……でも、それより」

言葉を探す。見つかった言葉は、自分でも意外なくらい単純だった。

「見たい、が勝ちます」

キーラがぱっと笑った。夕焼けの色の、いつもの笑い方だった。

「うん。それでこそ、わたしの同行者!」

「……同行者は、わたしの台詞です。誘われたのは、わたしなので」

「じゃあ、おそろいだ」

その夜の野営で焚き火が落ち着いたころ、キーラがふとプシュケの髪元を見て言った。

「ね、前から聞きたかったんだけど。その髪飾りの銀細工ってダイヤスト家の紋章?」

「……いえ、違います。ダイヤスト家のものではありません。母の形見ですが、そういった細かいことは聞きそびれました。白銀の細工を王都の職人にも見せたことがありますが、首をひねられました」

「じゃあ、それも『まだ誰も知らない』やつだ」

「……ええ。わたしの頭の上に、ずっと、謎がひとつ載っています」

火を見ながら、プシュケは少しのあいだ黙った。それから、めずらしく自分から言った。

「キーラさん。……ひとつ、見せたいものが、あります」

立ち上がって焚き火から少し離れ、指先に冷気を集める。母がやっていた手つきを、記憶の底から一動作ずつ、ゆっくり引き上げながら。

冷気が形になっていく…茎、葉、花びら。

焚き火の灯りの中に、手のひらほどの小さな氷の花が咲いた。

「わ……………きれい……! え、待って、これ、プシュケちゃんが!? 今!?」

「……母が、得意だったんです、氷像。猫や、鳥や、お城。わたしはずっと作れませんでした。技術の問題では、なくて。……作ろうとすると、母の指先ばかり思い出して、手が止まるので」

九年間、一度も作らなかった。作れなかった。それが今夜、なぜ作れたのか。理屈は、まだわからない。ただ、隣で「きれい」と言ってくれる人がいる夜は、思い出が手を止める側ではなく、手を動かす側に回る——それだけは確かだった。

「初めての氷像が、お花なんだね」

「はい。……いつか母が起きたら、見せます。『あなたの娘は、猫より先に、花を覚えました』と」

氷の花は朝までに溶けて草の露となり、朝日で光った。消えものの美しさを惜しいと思わなくなったのも、この旅で覚えたことのひとつだった。

丘を下る二つの影は、最初の日よりずっと近くを歩いていた。

白銀の願いを胸に抱いた少女の旅は、こうして二人の旅になった。氷は、もうひとりで凍っていない。

✦ ✦ ✦

——同じ夜。

はるか東、帝都リーベストの、深夜の執務室。

刃のように湾曲した巨大な城壁の内側で、軍都は眠らない。工廠の火は夜通し赤く、城壁の哨戒灯は等間隔に流れ、石畳を交代の衛兵の靴音が規則正しく刻んでいく。この都市では、夜すら、規律の一部だった。

その中枢、執務室の灯りは今夜も最後まで消えない。

部屋の主は、老いていた。老いてなお、背筋のひとつも緩んでいなかった。決裁の済んだ書類は寸分の狂いなく積まれ、ペン先は磨かれ、茶は手つかずのまま冷めている。窓の外には、眠らない軍都の灯り。机の上には、大陸の全図が広げられていた。

扉が、控えめに叩かれた。入ってきた副官が書類を一束、机の端に置く。

「宰相閣下。各方面の月次報告です。それと……例の辺境の調査隊から進捗が」

「要点だけ」

「は。予定より、二月の遅れと」

「……そうか。下がってよい」

副官は一礼して、退出した。扉が閉まるまで、老宰相はペンを止めなかった。遅れの報告に、叱声も舌打ちもない。この人の不興は、音を立てない——帝都の官吏なら誰でも知っている事実を、副官は扉の外であらためて噛みしめたはずだ。

ロザリア・フォン・マーベルスはペンを執り、地図の上に印をひとつ打った。

商都ゼネライト。すでに打たれた印は、ほかに——王都サークライト。自由都市ラターニェ。中央都市ノルデイン。聖都トリスタン。軍事都市ジオーグ。エルビの都市リベルタ。大陸の主要な都市の上に、静かな手つきでひとつ、またひとつ。

十一。

そして最後のひとつを、帝都リーベストの上に。

十二。

「……祭りが来る」

宰相は、誰もいない部屋で、独り語った。

「十二年に一度の、星導祭。世界中の物流が動き、世界中の道が開く。——我々のために、開く」

老いた指が、十二の印の上を順番になぞっていった。急がない手つきだった。何十年もかけて組み上げてきた者だけが持つ、時間を味方につけた者の手つき。この世界で、時間ほど高価なものはない。そしてこの老人ほど、時間の使い方に長けた者もそういなかった。

ロザリアの手からペンが置かれると、窓の外で帝都の時計塔が深夜の鐘を打った。

誰も知らない場所で、時計の針はもう動きはじめている。

西の街道の野営地では、焚き火のそばで、二人の旅人が眠っている。片方の鞄には三大星華の写しが、もう片方の荷物には曲がった軸の風車が。それぞれの主より先に、静かな寝息の番をしている。

星暦1211年。「12」の重なる史上最大の星導祭まで、あと少し。

同じ星空の下、帝都の執務室の灯りと街道の焚き火の残り火は、互いの存在を知らないまま同じ夜の底で燃えていた——。

——第2章・完

皆さんからいただいた時間 194.49Ø
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