夜明けの鐘と同時に、帝都リーベストの聖騎士団本部は目を覚ます。
「——構え!」
号令に習い、訓練場に二百の剣が立つ。石畳を踏み鳴らす音、打ち合う木剣、若い騎士たちの汗。その列のあいだを、ライナスト・フィーリスはゆっくりと歩いていた。
副団長の一日は、部下の稽古から始まる。
「ロルフさん。踏み込みが深すぎます。一撃で仕留めようとしていますね」
「は、はいっ! 自分は、その、早く決めたほうが有利かと」
「相手が一人なら、そうです」
フィーリスは木剣を借り受けると、若い騎士の正面に立った。
「三人だと思って、打ち込んでください。遠慮なく」
「さ、三人ですか!?」
「実戦で、敵が一人ずつ律儀に来てくれたことが、私は一度もありません」
周りで見ていた騎士たちから、控えめな笑いが起きた。しかしフィーリスが盾を構えると、模擬戦の合図となり、訓練場の空気がすっと締まった。
模擬戦が始まると、速く、重く、まっすぐしていて、ロルフの打ち込みは悪くなかった。だがフィーリスは、それを正面から受けなかった。半歩の移動と盾の角度だけで軌道を逸らし、流れた剣ごと相手の体を、隣の仮想敵の進路へ導く。二の太刀を受け、三の太刀を滑らせ——気づけばロルフは、自分の攻めの勢いに自分で足をもつれさせていた。
「い、いまの、何が……」
「あなたの力です。私は借りただけ」
どよめく訓練場に、フィーリスは向き直った。
「よく誤解されますが——盾は、攻撃の反対語ではありません」
声を張るのは、得意ではない。でも、通る声の出し方なら知っている。
「一撃で倒す剣は、外れれば隙になります。ですが、守りは外れません。仲間を守り、自分を守り、崩れない陣形が敵の力を削り続ける。守り切ることが、最も速い勝利です。——今日はそれを、体で覚えてください」
「「「はっ!!」」」
二百の声が、揃った。
稽古の解散間際、若い騎士がひとりおずおずと手を挙げた。
「あ、あの、副団長。……副団長ほどの腕なら、剣でも団の上位に入れます。なのに、どうして盾なんですか」
いい質問です、とフィーリスは思った。自分も昔、父に同じことを聞いた。
「私が最初に剣を握った理由が、『勝ちたい』ではなかったからです」
若い騎士は首をかしげたが、フィーリスは続けた。
「勝ちたい人は、剣が伸びます。守りたい人は、盾が伸びます。どちらも正しい。……あなたはどちらですか、と聞いているうちは、まだ決まっていません。決まった日に、あなたの得物も決まりますよ」
私の場合は、十歳の冬だった——とまでは、話さなかった。屋敷の使用人の子が、凍った池に落ちた日。大人を呼びに走るより、氷の上を這って手を伸ばすほうを体が先に選んだ。引き上げたあと、震えるその子を外套でくるみながら思ったのだ。強くなりたいではなく、間に合う人になりたい、と。得物より先に、あの届く手の長さが決まった。盾はあとから付いてきた形にすぎない。
✦ ✦ ✦
稽古のあと井戸端で汗を拭っていると、若い騎士たちの声が風に乗って届いた。
「……すげえよなあ、副団長。おれの剣、指一本ぶんの動きで流されたぜ」
「隊列演習でよ、副団長が盾に入ると、こう、背中があったかくなるんだよな。ああ、崩れねえなって」
「けっ。……女の副団長サマに、ずいぶん懐いたもんだな」
最後の声は、低かった。
「実力だろ」
「実力ぅ? ライナストの家の名前だろうが。おれはまだ認めてねえよ」
フィーリスは手ぬぐいを畳んで、何も聞かなかった顔で井戸を離れた。
慣れている。女の身で、聖騎士団の副団長。ここまでの道の半分は稽古で、半分はこういう声と一緒に歩いてきた。認めない人を黙らせる方法は、ひとつしか知らない。実力を示して、明日も守り切ることだ。明後日も、その次も。
現に、さっきの低い声の主——古株の槍兵——は、去年の国境の演習で、フィーリスの盾の後ろにいた男だ。その時、崩れた斜面の落石をフィーリスは彼の頭上で受けた、が礼は言われていない。言われる必要もない。認めない口と、盾の後ろに入る足は別々に動くものだし、守る側が守る相手を選びはじめたら、盾は盾でなくなる。……とはいえ、私自身も聖人でもないので、井戸の水はいつもより少しだけ勢いをつけて汲んだ。
「——おーい! フィーリス!!」
湿った空気を、能天気な大声が吹き飛ばした。
✦ ✦ ✦
食堂の長机の向かいに、盆を派手に鳴らして、もう一人の副団長が座った。
エリス。同期にして、剣の天才。フィーリスが何年もかけて積んだものを、感覚で飛び越えてくるような女。そして、本部で一番よく笑う女。
「見たで、朝の稽古。またロルフのやつ、くるくる回されとったなあ」
「回してはいません。導いただけです」
「言い方ぁ」
エリスは笑って、山盛りの芋を頬張った。剣の腕と食べる量は比例する、が彼女の持論である。
「そういえばな、フィーリス。聞いたか。次の昇任の話」
「団長の椅子は、当分空きませんよ」
「当分、や。永遠やない」
エリスは、フォークをフィーリスに突きつけた。
「言うとくけどな。うちのほうが先に団長になるからな! 覚えとけよフィーリス!」
「はいはい」
「『はいはい』て! あんたなあ、同期に戦績五分の相手がおって、よう落ち着いてられるな!?」
「五分ではありません。三十一勝三十一敗——先週の模擬戦で、私が一つ勝ち越しました」
「あれはノーカン! うち、前の日ちょっと呑みすぎて」
「記録は正直です」
「帳簿かあんたは!」
三十一勝三十一敗と、一勝。
最初の一敗は、訓練兵時代の時だった。フィーリスはライナスト家の者として、小さいころから訓練兵として従事していたが、訓練兵同士の模擬戦で、入団三日目の小娘に三合で剣を弾き飛ばされた。それは型も何もない、獣みたいに真っすぐな剣だった。悔しくて眠れなかった夜に、宿舎の中庭で素振りをしていたら、その小娘が寝間着のまま現れて言ったのだ。
「あんた、おもろい剣するなあ。全然攻めてこんの。……なあ、明日もやろ」
その後、『明日もやろ』が十年ほど続いた。六十三回の勝ち負けと、数えきれない『いつもの喫茶店』と一緒に。剣の天才は、フィーリスの盾を『世界一攻めにくい壁』と呼び、フィーリスはエリスの剣を『世界一受けたくない斬撃』と呼んだ。互いの背中を任せて戦った演習は、どちらも無敗だった。
「ほんで? 三十二勝目は、いつ取らしてくれるん?」
「あなたの調子のいい日に、いつでも」
「言うたな? 言うたからな!」
食堂の周りの席から、忍び笑いが漏れる。副団長二人のこのやり取りは、本部の昼の名物だった。
ひとしきり言い合って、エリスは芋の最後のひとつを、フィーリスの皿にひょいと置いた。
「ん。あんた、朝から声張って、腹減っとるやろ」
「……ありがとうございます」
「ええってええって。——あ、そや」
立ち上がりかけて、エリスは思い出したように言った。
「また今度、いつもの喫茶店行こな。新しい茶葉が入ったんやと。あんた好みの、ベリーやつ」
いつもの喫茶店。本部から二筋裏の、静かな店。剣の話と他愛のない話を、半々でする場所。
「ええ。また今度」
フィーリスは頷いた。
普段から母親の紅茶を飲んでいたが、喫茶店を覚えたのはエリスのおかげである。エリスとの模擬戦で三敗目を喫した日に、「辛気くさい顔しなや。ええもん飲ましたる」と引っ張り込まれたのが、あの店だった。運ばれてきた一杯はとても香りが立ち、ベリーの甘酸っぱさが悔しさの角を静かに丸くしてくれた。以来、負けた日も、勝った日も、なんでもない日も、あの店の茶を飲んできた。それからというものの、ただ飲むだけだった紅茶に興味がわき、母親の教えを乞うて紅茶の流儀を習った。すると、茶器の扱いや蒸らしの時間も、いつのまにか店主より詳しくなって、「うちより上手に淹れるお客さん」の称号までもらった。
剣の天才は、剣以外のものもいくつも教えてくれた。喫茶店の空気。笑い飛ばし方。負けの寝かせ方。「また今度」の続け方。
エリスはにっと笑って、盆を返しに行った。その背中はいつもどおり真っすぐで、歩き方まで剣筋のように迷いがなかった。
——また今度。
なんでもない約束だった。何十回も交わして、何十回も果たしてきたいつもの約束。
✦ ✦ ✦
午後は書類仕事だった。
副団長の職務の三割は剣で、七割は紙でできている。隊の編成表、装備の申請、遠征の報告書。フィーリスの決裁の字は、教本に載せられると言われるほど端正で、そのぶん遅い。
書類の山の中に、一枚だけ引っかかるものがあった。それは、帝国開発部からの装備更新の通達。仕様の欄がいつになく曖昧で、予算の欄だけがいつになく大きい。差し戻しの付箋を書きかけて……やめた。開発部の予算は、宰相府の直轄だ。副団長の付箋の届く場所ではない。
(……近ごろ、この手の紙が、増えた)
気のせいであってほしい種類の勘だった。気のせいでない場合の想像はしないことにして、次の書類に移った。
夕方の鐘が鳴るころ、ようやく最後の一枚に署名を終えた。
窓の外で、帝都が夕焼けに染まりはじめていた。
書類を受け取りに来た事務方の老兵が、感心しながら言った。
「フィーリス副団長の決裁はありがたいですなあ。字が読める」
「……ほかの決裁は、読めないのですか」
「エリス副団長の字は、暗号です」
聞こえとるぞ、と遠くの机から声が飛んで、事務室に小さな笑いが起きた。
刃のように湾曲した大城壁。整然と並ぶ屋根。工廠の煙突。そのあいだを縫って、家路を急ぐ人々の流れ。
規律の国だ、軍の国だと外の人は言う。それは確かに事実だ。でもこの窓から見えるのは、パンの焼ける匂いと、子どもの声と、明日も続くと誰もが信じている普通の暮らしだった。
フィーリスは、剣帯を締め直した。
この景色を守る仕事に誇りを持っている。今日も、明日も。——恐らく、この先もずっと。