本部から屋敷までの帰り道を、フィーリスは歩くことにしている。
馬車を使えば十五分の道のりだが、歩けば倍以上の時間がかかる。それでも歩いて帰る理由は、この道が好きだからだった。
「あ! 副団長さまだ!」
大通りのパン屋の前で、店主の奥さんが手を振った。夫婦でやっている小さな店で、決まって夕方に焼き残りを安く出す。
「今日も歩きですか。お偉いさんなのに、物好きですねえ」
「歩くと、町の匂いが分かりますので」
「匂い?」
「はい。……この通りが、いつもどおりパンの匂いなら、帝都は今日も平和です」
奥さんは笑って、「じゃあうちは、平和の見張り番だ」と胸を張った。店の奥から、旦那さんの「焼きたてあがるぞー」の声。いい見張り番である。
「お疲れさまです、副団長さま。今日は黒パンの端っこがありますよ」
「では、二つ。……いえ、三つ」
「はいよ! ……ふふ、また例の子たちですか」
「観察が、鋭いですね」
「商売ですから。副団長さまの買い物の内容くらい、頭に入ってますよ。パンの切れ端を三つ買う日は、坊やたちが路地にいる日」
例の子たちは、二筋先の路地にいた。
木の棒を振り回す男の子が三人、騎士ごっこの真っ最中である。フィーリスの姿を見つけると、三人はシャッと背筋を伸ばして、見よう見まねの敬礼をした。
「ふ、副団長どのに、敬礼っ!」
「はい、敬礼。……ヨナスさん、今日も稽古ですか」
「うん! おれ、大きくなったら聖騎士団に入るんだ!」
いちばん小さいヨナスが、木の棒を振ってみせる。腕の力だけの大振り。フィーリスは黒パンの袋を石段に置くと、少年の後ろに膝をついて、小さな手ごと、構えを直した。
「肘は、体から離しすぎない。足は、肩の幅。……そう、それです」
「おおー……なんか、つよそう!」
「強そう、ではなくて、強いんです。いい構えは、嘘をつきませんから」
「ふくだんちょーどのも、ちっちゃいとき、こうやって直されたの?」
「ええ。父に、何千回も。……直されるうちが、花ですよ」
それから三人の顔を順番に見て、いつもの一言を付け足した。
「剣は、守るもののためにあるのですよ。誰を守るために強くなるのか——それを決めてから、振りなさい」
三人は、顔を見合わせた。
「……おれ、母ちゃん! 母ちゃん守る!」
「おれは妹! あと犬!」
「おれ……おれは、副団長どの!」
「私ですか」
意外な答えをもらったので思わず聞き返すと、ヨナスは大真面目に頷いた。
「だって副団長どのは、みんなを守ってるだろ。守ってる人のことは、誰が守るんだ? ……だから、おれが強くなって守る!」
フィーリスは一瞬、言葉に詰まった。
守っている人のことは、誰が守るのか。二百の部下を持つ副団長に、七つの子どもが警備計画のいちばん深い穴をまっすぐ指してきた。答えは持っていた。互いに守るのです、陣形とはそういうものです——教本の答えだ。でも、この子が言っているのは、たぶん陣形の話ではなかった。
それから少年の頭に、ぽんと手を置いた。
「……では、強くなってください。とびきり」
「「「はーい!」」」
返事だけはいつも満点である。黒パンを三等分して持たせると、子どもたちは戦利品を掲げて、夕焼けの路地を駆けていった。
帰り道の途中には、例の喫茶店もある。今日は素通りだが、窓越しに店主と目が合って互いに小さく会釈をした。店先の黒板に白墨の新しい文字。『東の茶葉、入荷しました』。エリスの言っていたベリーのやつだ。今度、と思いながら通り過ぎる。
門番の詰所の前を通ると、年配の門番が敬礼をくれた。フィーリスも返す。この国の敬礼は上下の礼であると同時に、「今日も互いに持ち場を守った」という労いの形でもある。
「副団長どの。今日も徒歩ですか」
「ええ。……いい夕焼けでしたので」
「は。……自分らの守っとる夕焼けが、いい夕焼けだと言ってもらえるのは、悪くないもんです」
門番はそう言って、もう一度、今度は略式ではない敬礼をした。
帝国は軍の国だ。けれど軍はこの暮らしの外側にある鎧であって、暮らしそのものは——パンの匂いと、木の棒の剣と、夕焼けの敬礼でできている。
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ライナスト邸の夕食は、静かだった。
いつものことである。この家の食卓に、賑やかさというものは代々備わっていない。
「……本部は、変わりないか」
父のヴァルターが、スープの合間に言った。フィーリスの父も、元聖騎士団副団長。今は退役して、庭の手入れと剣の素振りだけを日課にしている人。口数は、一日に十言あれば多いほうだ。
「はい。若い者が、よく育っています」
「そうか」
以上、である。
けれどフィーリスは知っている。この「そうか」の中に、どれだけのものが畳まれているか。父は娘が入団した年から今日まで、本部の階級表の写しを書斎にずっと貼っている。副団長昇任の日、父は「そうか」とだけ言って、その夜、庭でいつもの倍の剣を振っていた。
「そういえば、エリスさんはお元気?」と、母は続けた。「この前いただいた蜂蜜のお礼、まだできていないのよ」
「元気です。今日も食堂で、山盛り食べていました」
「ふふ。今度、お茶にお呼びしなさいな。あなたのお友だちなら、この家のお客さまですもの」
「……友だち、というか、同期で、好敵手で」
「お友だちでしょう」
「…………はい」
母には、昔から敵わない。
「フィーリス。おかわりは?」
母のカレンが鍋を傾けた。この家の言葉の少なさを、湯気と料理で埋めてきた人だ。父の「そうか」を翻訳し、娘の沈黙を読み、食卓の温度をもう何十年、一定に保ち続けている。
「いただきます」
「ふふ。……ねえ、あなた。この子、外では『副団長どの』なんですって。ご近所の坊やたちが言ってたわ」
「そうか」
「『そうか』じゃありませんよ。すごいことなんですから」
食後は母の紅茶と決まっている。
カレンの紅茶は、帝都の貴族の茶会でも評判だった。湯の温度、蒸らしの時間、注ぐ速さ。全部に理屈があって、全部に理屈以上の何かがある。フィーリスは幼いころから、この一杯で一日を終えてきた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます。ん。今日のは、少し濃い」
「あら、分かった? あなた、今日はちょっと疲れた顔をしていたから」
濃いめの紅茶は、母の「おつかれさま」である。この家の愛情表現は、こういう言葉で表さないところでできている。
「ねえ、フィーリス。今度のお休みは、いつ?」
「月末に、二日ほど」
「なら、市場に付き合いなさいな。秋の茶葉の仕入れどきなの。あなたの舌も、そろそろ仕入れに使える頃合いだわ」
「……光栄です、師匠」
「ふふ。生意気」
「お母さんの紅茶は、いつになったら追い越せるのでしょうね」
「あらあら。……そうねえ。あなたがこの家を出て、自分の誰かに、自分の一杯を淹れるようになったら——そのときは、負けてあげてもいいわ」
「自分の、誰か」
「そう。家族でも、お友だちでも、旅の仲間でも。……紅茶はね、フィーリス。淹れる技術が半分、誰に飲ませたいかの気持ちが半分なの。あなたの一杯は、まだ技術だけ。相手が決まったら、味が変わるわよ」
そういうものだろうか。でも茶会でも有名な母が言うのなら、そういうものらしい。
✦ ✦ ✦
紅茶を何杯か飲んだ後、フィーリスはいつものように庭へ出ると、既に父は日課の素振りしていた。
月明かりの下で同じ高さ、同じ速さ、同じ音の素振り。時計より正確な、千回の振り。
退役して十年。守る持ち場を退いた騎士が、それでも毎晩剣を振る。子どものころは意味が分からなかったが、今なら分かる。あれは鍛錬ではなく、祈りの形なのだ。今日も家族が無事だったことへの、明日も無事であることへの、感謝と畏敬の念なのだ。
フィーリスは何も言わず、隣に立って木剣を取った。
父もいつもと同じように、何も言わなかった。ただ、娘の一本目が振り下ろされる寸前、「肘」とだけ言った。二十二歳の副団長の肘は、父にとっては、まだ三度に一度甘いらしい。
二人ぶんの素振りの音が、しばらく庭に重なった。
千本目を数え終えると、父は木剣を納めて一言だけ残した。
「……いい振りだった」
そして右手を軽く上げ、家の中へと入っていった。
父が右手を上げるのは、いつもの終わりの合図なので、今日の稽古(素振り)はもうおしまいらしい。
木剣を片付けた後、就寝準備をして自室に行く途中、フィーリスは廊下の突き当たりで足を止めた。
飾り棚の上に、一振りの剣が架かっている。
ライナスト家の聖剣。代々、家のいちばんの使い手に受け継がれてきた剣だ。今の持ち主は父。刃には聖印が刻まれ、意匠は古いのに手入れは今日も完璧だった。
幼いころ一度だけ聞いたことがある。いつか私も、これを持てますかと。
父の答えは「そうか」ですらなかった。ただ黙って、フィーリスの構えを直した。それが答えだと分かるまでに十年かかった。——お前しだいだ、と父は言ったのだ。
「……おやすみなさい」
剣に一礼して、フィーリスは自室へ向かった。
窓の外、帝都の夜は静かで、城壁の哨戒灯がいつもどおり等間隔に流れていた。この街に守られて、守っている夜だった。
寝台に入る前、フィーリスは今日一日を指折り数える癖を、いつもどおりにやった。ロルフの踏み込み、改善。エリスの芋、山盛り。黒パン、三つ。ヨナスの構え、上達。母の紅茶、濃いめ。父の「いい振りだった」、一回。
数え終えて思う。守りたいものの一覧を作れと言われたら、たぶん今日一日をそのまま書き写せばいい。この暮らしの、この並びの、この温度。盾を握った十歳の冬から、一覧の中身は増えこそすれ、ひとつも減っていない。
明日も、護りたいもののために一生懸命頑張ろう。
そうやって一日の振り返りも終わったことで、うとうとと眠りにつこうとした時だった。
コン、コン、コン。強めの玄関のノックで、フィーリスは目を覚ました。