玄関を開けたのは若い伝令の帝国騎士だった。
「団長がお呼びです。至急、団長室へ」
彼はそれだけを言うと、目を合わせずに去った。副団長ともなると、夜間の呼び出し自体は珍しくない。国境の急報や編成の変更などいくらでもある。
ただ、伝令の目が泳いでいたのが、少しだけ引っかかった。
「気を付けてね、フィーリス。きちんと帰ってこれるときに帰ってくるのよ」
「はい、わかりました」
カレンは心配そうに見つめながら、身支度を整えているフィーリスに声をかけた。
(何か、大ごとじゃなければいいのですが……)
一抹の不安を抱えたまま、フィーリスは聖騎士団本部へと向かっていった。
✦ ✦ ✦
本部の廊下は、夜勤の灯りだけになっていた。
歩きながら、フィーリスは胸騒ぎの理由を数えた。夜の呼び出し、目の泳いだ伝令、そして——今夜にかぎって、団長室前の廊下から歩哨が下げられている。人払い、つまり記録に残したくない話。
団長室の扉を叩く。
「ライナスト副団長、参りました」
「入れ」
入って、フィーリスは半歩で止まった。
団長のゲルトは、机の向こうにいた。いつもの席で、いつもの姿勢。ただその顔が、見たことのない色をしていた。そして——窓際にもう一人。
細身の、老人。飾りの少ない文官服。手を後ろに組み、帝都の夜景を眺めている。振り向かなくても、誰かは分かった。この国で、この立ち姿を知らない軍人はいない。
宰相、ロザリア・フォン・マーベルス。
「……夜分にすまないな、ライナスト副団長」
ゲルトの声は、いつもより一段低かった。
「これより伝える件は、勅令に準ずる極秘事項だ。他言は反逆に問われる。——心して聞け」
任務の説明はゲルトが行い、ロザリアは最後まで窓際から動かなかった。
「特殊魔石の、配備計画だ」
机に広げられたのは、大陸の地図と魔石の設計図面だった。
図面の隅に、見覚えのある紋章があった。開発部。先日の、あの曖昧な仕様と大きな予算の通達の差出元。付箋を書きかけて、やめたあの紙。胸の底で何かがカチリ、と嵌まって欲しくない場所に嵌まった。
「聖属性と炎属性を融合させた新型——破滅晶だ。単体で都市の一区画を焼き払う出力を持つ。これを、各国の主要都市へ秘密裏に設置する」
図面の隣に、都市の名が並んでいた。
ロイゼル商国の商都ゼネライト、ストラル王国の王都サークライト、イェルター自由国の自由都市ラターニェ、シャネーグ連邦の中央都市ノルデイン、ベレスト教国の聖都トリスタン、その他の主要都市。……見間違いかと思った。仮想敵国の首都だけではない。友好も中立も、区別がなかった。
「設置後、有事の際には侵攻開始と同時に一斉に起爆する。併せて各地の召喚石を起動。敵国の中枢と防衛線を、開幕で同時に無力化する。……この前段作戦の指揮を、貴官に任せたい」
言葉の意味が、一拍遅れて届いた。
「————お待ちください」
自分の声が、遠くで聞こえた。
「主要都市への設置、とは。起爆の対象は軍事施設に限定される、ということですか」
「都市だ」
答えたのは、窓際の声だった。
ロザリアが、初めてこちらを向いた。怒りも、熱も、後ろめたさもない、静かな目だった。
「軍事施設に限定すれば、効果は三割落ちる。都市機能ごと停止させることに意味がある。——数字の話をしよう、副団長」
宰相はこちらへ歩きながら、淡々と数字を並べた。
「大戦の記録は読んでいるな。六十年前、開戦から一年で、帝国側の死者は十二万。うち九万が、緒戦の膠着で死んだ。前線が固まり、削り合いになったからだ。……この計画は、その膠着を消す。開幕で大勢が決まれば、戦争は短くなる。試算では、開戦初週の帝国側死者を、九割減らせる」
「……その代わりに、他国の市民が死にます」
「死ぬだろうな。だが総数は、削り合いの戦争より少ない。長い戦争は、双方の市民を殺す。短い戦争は、片方の市民しか殺さない。——どちらが慈悲で、どちらが帝国にとって有益か、計算できるか」
ぞっとするのは——この老人が、その理屈を心の底から信じていることだった。ただしこれは壊れた理屈ではない。完成しすぎた理屈だ。どこかで一度だけ掛け違えたボタンが、あとは全部正しく留められている。
「……閣下は」
ロザリアの歪に完成しすぎた理屈に、思わず言葉を返そうとした瞬間、
「ライナスト副団長」
ゲルトが強い口調で遮った。
「貴官の指揮能力、戦闘能力と、聖属性三級の適性を見込んでの下命だ。名誉なことと——」
返答の言葉が出る前に、頭の中を一覧が流れた。
ゆうべ数えた、守りたいものの一覧。パンの匂いの通り。木の棒の剣。夕焼けの敬礼。母の紅茶。——あの一覧と同じものが、ゼネライトにも、サークライトにも、他の街にもある。名前を知らないだけの、パン屋の奥さんと、ヨナスと、誰かの母の一杯が、あの地図の印のひとつひとつの下に暮らしている。
この作戦は、帝国の一覧を守るために、よその国の一覧をまとめて燃やす計画だ。
「……お断りします」
部屋の空気が張り詰めた。ゲルトが顔色を変える。宰相への不敬——だが、ロザリアは、眉ひとつ動かさなかった。
自分の声が、思ったより落ち着いていることに、フィーリス自身が驚いていた。膝は震えていない。声も割れていない。断る、と決めた瞬間から、体の芯は妙に静かだった。
「……理由を聞こう」
口を開いたのは、ロザリアだった。だが声に怒りはなく、純粋な聞き取りの声だった。
フィーリスは背筋を伸ばした。声が震えないように、腹の底に力を入れた。
「第一に、戦時協定違反です。非戦闘員への計画的攻撃、宣戦布告なき破壊工作の事前配備。列挙すれば戦時協定七項に触れます。帝国の署名した協定です」
「協定は、勝者が書き直す」とロザリアが言った。
「第二に」
フィーリスは、続けた。
「聖騎士団の憲章に反します。我らの剣は帝国の民と、帝国の誇りを守るためのもの。罪のない市民を焼く火に、聖印を刻ませることはできません。第三に——」
一度、息を吸った。
「——民間人を犠牲にして得られる勝利は、勝利ではありません。それは、六十年かけて世界がやっと埋めた墓を、もう一度掘り返す行為です。私は聖騎士として、人として、この作戦に加担することを拒否します」
言い切った。
ゲルトが、額を押さえた。「ライナスト副団長。これは依頼ではない。下命だ。拒否は反逆と——」
「構わん」
ロザリアだった。
ロザリアが片手を上げてゲルトを制すると、フィーリスをしばらくじっと見た。値踏みでも、威圧でもない。強いて言えば——検算をする目だった。答えの分かっている式を、念のためもう一度なぞるような。
そして。
「よろしい。ならば、この話は終わりにしよう」
と言って、老宰相は机の地図を自らの手で丁寧に畳んだ。極秘の図面を扱う手つきというより、読み終えた新聞を畳む手つきだった。その無造作さが、この計画の進み具合を、どんな言葉より雄弁に語っていた。もう、止まる段階にないのだ。一人の副団長の賛否など、歯車の一枚の交換で済む段階に。
✦ ✦ ✦
「……は?」
声が出そうになるのを、かろうじて飲んだ。
「聞かなかったことにしたまえ、副団長。今夜の話は、この部屋のどこにも存在しない。——ご苦労だった。下がってよろしい」
ロザリアは、もう窓の外を見ていた。その言葉を聞いて、何か言いかけていたゲルトは黙った。
「……失礼、いたします」
敬礼して退出し、扉が閉まる。
嫌な寒さで冷える廊下を歩き出して、十歩目で、フィーリスは自分の背中に冷たい汗が伝っているのに気づいた。
おかしい。
反逆罪まで持ち出した圧が、あんなにあっさりと引くだろうか。極秘計画を明かした相手を、「聞かなかったことに」で帰すだろうか。怒鳴られたほうがまだ分かる。処分を匂わされたほうが、まだ筋が通る。
あの引き際は——綺麗すぎた。
まるで、断られることまで、最初から計算に入っていたような。断らせて、それで何かの検算が済んだような。
(……考えすぎ、ですかね)
そう思おうとしたが、できなかった。訓練場で二百の剣を見てきた目が告げていた。あれは引いたのではない、構えを変えただけだ。
本部を出て、夜空を見上げた。
星が綺麗な夜だった。綺麗な夜に限って悪いことが起きる軍の古い迷信を、フィーリスは信じていない。信じていないが、今夜だけは星の綺麗さが妙に肌に冷たかった。
帰り道、いつもの大通りを通った。
しかし街には夜の帳がおりており、当然ながらパン屋はもう閉まっていた。窓の奥に竈の残り火の色だけが、ほんのり見えた。家の軒下に落ちている木の棒は、また明日の出番を待っているのだろう。喫茶店の黒板の白墨の文字が、暗い夜でも白く浮いていた。
いつもの景色だった。いつもの景色が、今夜は薄い硝子の向こうにあるように見えた。
(……この通りを守るために、よその国の同じ通りを焼く。それがあの宰相の理屈です。なら私の断りは、この通りを危うくしたのか。それとも——)
答えの出ない問いは、家までの道の長さでは足りなかった。ただひとつ、はっきりしていることがある。もう一度あの部屋に立っても、私は同じ言葉を言う。何度同じ質問をされても、同じ回答を出すだろう。それだけは、疑いようもなかった。
だが極秘事項は家族にも言えない。この胸の苦しさと、言えないものを抱えて、これからは生きていかねばならない。
孤独感に苛まれる中、夜の帝都にフィーリスの靴音だけが響いていた。