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CHAPTER III 第42話 静かな迫害
Ourhour-Traveler

第42話 静かな迫害

第三章 信念の盾 編

最初の異変は、花瓶だった。

執務室の窓辺に置いていた小さな花瓶が、床で割れていた。風で落ちたのだとその日は思った。

二日目は、書類だった。決裁を終えて提出したはずの編成表が「受け取っていない」と差し戻された。提出の控えは、綴りごと消えていた。

三日目には、執務室そのものが荒らされていた。引き出しは開けられ、書類は床に撒かれ、けれど金目のものは何ひとつ盗られていない。物盗りではない、物盗りに見せる気すらない。

——ああ、始まったのですね。

フィーリスは、床に散った書類を一枚ずつ拾い上げた。膝をついて、順番に揃えて埃を払う。手は震えなかった。震わせて見せる相手が、きっとどこかで見ているからだった。

廊下を歩けば、視線が離れていく。話し声が近づくと途切れる。井戸端では、先週まで「背中があったかい」と言っていた声が、今週は何も言わない。

食堂では、フィーリスの卓の周りだけ椅子が空くようになった。だが配膳係の人は、変わらず大盛りをよそってくれた。彼らは軍人ではなく、ただの配給係のため、フィーリスのことについては何も知らないようだ。

訓練場に出れば、あれほど集まっていた稽古の列が、まばらになっていた。

「……本日は、五名ですか」

集まったのは、ロルフを含む若い騎士が五人だけだった。先週まで二百人いた稽古である。

「ふ、副団長。その、みんな急に隊務が入ったとかで……」

嘘の下手な子である。嘘の下手な子が、フィーリスを庇うために嘘をついてくれている。だがフィーリスはそれ以上言わせなかった。

「五人いれば、五人の稽古ができます。——構え!」

その日の稽古は、いつもより丁寧にやった。

終わり際、ロルフが意を決した顔で歩み寄ってきた。

「副団長。自分は……自分たちは、その、隊の連中が何を言おうと」

「ロルフさん」

フィーリスは静かに遮った。

「あなたの剣は、この一年でとても良くなりました。その剣を、私への義理で折らないでください。……隊で浮けば、あなたの立場が悪くなる。稽古に来るなとは言いません。ただ、無理は」

「嫌です」

若い騎士は、生まれて初めての反抗みたいな声で、言った。

「じ、自分に剣を教えてくれたのは、副団長です。誰を守るために強くなるか決めろって言ったのも、副団長です。……自分、決めてますから。だから、明日も来ます」

そう言い残して、敬礼して走り去っていく。誰も見ていない訓練場で、その背中にフィーリスは深く頭を下げた。書類は作り直せばいい。花瓶は新しい花を挿せばいい。稽古に来ない部下を、責める理由はない。来てくれる部下に、応えない理由もない。

折れない、と決めていた。

向こうの狙いは、処分ではないのだ。処分には理由がいる。理由は記録に残る。ましてや帝国の聖騎士団副団長となればなおさらだ。だから記録に残らない方法で、じわじわと足場を崩し、自分から辞めるか、腐るか、暴発するのを待っている。ならこちらの返答はひとつだけ——今日も、明日も、いつもどおりに職務を果たすこと。

削れるのは、大きな仕打ちではなかった。大きな仕打ちには構えられる。削るのは小さいもののほうだ。廊下ですれ違いざま、挨拶を返されなかった一回。回覧が自分の机だけ飛ばされた一回。十年通った武具庫の係が、目を伏せて「規定が変わりまして」と申請書を求めた一回。一回、一回、一回……。それらは砂粒だ。だが砂粒は、夜の寝台に入ってからまとめて重くなる。

そんな本部とは裏腹に、帰り道だけは変化がなかった。パン屋の奥さんは今日も「端っこありますよ」と笑い、フィーリスは今日も三つ買った。本部の外の帝都は、何も知らずにいつもどおりだった。そのいつもどおりが、今はいちばんの薬だった。守っているものがそこにちゃんとある。ならば削られる価値も、まだある。

✦ ✦ ✦

「——なあんか、変な空気やなあ?」

食堂で、いつもどおり盆を鳴らして向かいに座ったのは、エリスだった。

いつもどおりなのが、逆に目立った。ここ数日、フィーリスの向かいの席は常に空いていたからだ。遠巻きの視線が、ちら、ちらと、二人の卓に刺さる。

「エリス。……その、今は、私の近くにいると」

「あ? なんや、席くらい好きに座らせえや。ここ、うちの定位置やぞ」

エリスは、フィーリスの言いかけた言葉ごと、芋の山で踏み潰した。

「執務室、荒らされたんやって?」

「……耳が早いですね」

「掃除、手伝ったろか」

「終わりました。三度目なので、手際が良くなってきています」

「三度て」

エリスはフォークを置いたが、その顔は笑っていなかった。この女が食事の手を止めるのは、よほどのことである。

「なあ、フィーリス。うち、難しいことは分からん。あんたが何に巻き込まれとるんかも、聞かん。どうせ聞いても言わんやろ、あんた」

「……ええ。言えません」

「やろな。——せやから、ひとつだけ」

エリスは、まっすぐにフィーリスの目を見た。

「なんかあったら、うちに言えよ。剣一本なら、いつでも貸したる。うちの剣、けっこう強いぞ」

知っています、とフィーリスは思った。三十一勝三十一敗と一勝ぶん、誰よりも知っている。

「……ありがとう、ございます」

「おう。よし、飯食え、飯。あんた最近、皿が軽いねん」

エリスの皿からまた芋がひとつ、フィーリスの皿に転がってきた。

「……ときに、エリス。あなたは、平気なのですか。私と食卓を囲んで、あなたまで妙な目で見られては」

「あー? 見たい奴には見せとけ」

エリスは、口の周りの芋のかけらを拭いもせずに言った。

「うちはな、フィーリス。剣と、飯と、ダチのことしか考えとらん。三つとも、他人の目ぇ気にして選ぶもんちゃうやろ」

「……剣と、飯と」

「ダチや。三つ目、大事やぞ。試験に出る」

出ません、と返しながら、フィーリスは皿の芋を口に運んだ。今日の芋は、少しだけしょっぱい気がした。

「……エリス、ひとつだけ約束してください」

「ん?」

「もし、この先。私が急にいなくなるようなことがあっても——追わないでください。詮索も、しないで。あなたは、あなたの持ち場に」

「…………」

エリスはしばらく黙って、芋を噛んでいた。そして飲み込んでから、短く言った。

「やなこった」

「エリス」

「約束できるか、そんなもん。……けどな、フィーリス。ひとつだけ教えたる。うちが追いかけるとしたら、それは詮索やない。ダチの追いかけ方や。文句あるなら、いなくなるな。以上」

議論の余地を、芋の最後のひとつと一緒に飲み込まれた。この人との問答で勝てた試しは、剣以外では一度もない。

遠巻きの視線の中で、その芋と声がどれだけあたたかかったか。

✦ ✦ ✦

その日の午後、フィーリスは半日の暇を取って、街のいつもの東屋にいた。

約束がひとつだけあったのだ。この嵐のような日々の、ずっと前から決まっていた約束——親しい人との茶会である。

誘ったのは、フィーリスの側だった。初めての誘いで文の書き方が分からず、便箋を三枚駄目にして、書き上げたのは夜半だった。なぜ今回はこちら側から誘ったのかと問われれば、うまく答えられない。ただ、この頃の帝都で彼女があたたかいと感じるものは、数えるほどしかなかった。エリスの芋。パン屋の端っこ。五人の稽古。——指折り数えるその中に、いつからか、あの白い卓が入っていた。

約束の刻限から、二時間待った。

しかし、卓の向かいは白いままで、使いの一人も来なかった。あの几帳面な人が、約束の十五分前に現れない——そんなことは、いままで一度もなかったのに。

(……お忙しい方、ですから)

三杯目の紅茶は頼まなかった。卓に小銭を置いて立ち上がり、足はいつもどおりの速さで本部へ向いた。胸の奥の小さな引っかかりには、名前をつけないことにした。つけたら、大きくなってしまう気がした。

✦ ✦ ✦

その夜、帰り際の廊下で、フィーリスは足を止めた。

団長室に、灯りが点いていた。扉がわずかに開いており、中から声が漏れていた。

盗み聞きの趣味はない——が、自分の名前が聞こえた気がして、足が止まったのだった。

「——例の前段作戦だが」

ゲルトの声だった。

「ライナストは外す。別の副団長に任せる」

「承知しました。では、そのように」

知らない声が、事務的に応じた。

「配備計画は前倒しだ。今すぐ招集を。明後日には、出発したい」

「明後日、ですか。また急な……」

「宰相閣下のご意向だ。祭りが近い。物流に紛れられるうちに、打てる手は全て打つ、と」

足音が、扉に近づいてきた。

フィーリスは影のように廊下の角を折れ、そのまま本部を出た。夜風が、火照った頭に冷たかった。

計画は、止まっていない。

止まっていないどころか——加速している。自分が断ったことで、前倒しになっている。あの夜の「終わりにしよう」は、やはり終わりでも何でもなかった。

そして。

(……別の、副団長。聖騎士団に、副団長は二人しかいない。私と——)

そこまで考えて、フィーリスは頭を振った。今は、それを考えている場合ではない。計画の中身、配備の経路、出発は明後日。動くなら、証拠を掴むなら、もう時間がない。考えるべきことが多すぎた。だからフィーリスは、その時いちばん大事なことを考えそびれた。

帰路で歩きながら、頭の中で手札を数えた。

計画の概要はだいたい聞いた。だが物証がない。配備の経路も、部隊の規模も、分からない。団長室に忍び込むか——いや、あの部屋はもう私を待ち構えている。なら明後日の出発を、外から見届けて、隊列の規模と方角だけでも——

考えはそこで途切れた。屋敷の通りの角を曲がったとき、街灯の下に見慣れない人影が二つ立っていたからだ。人影はフィーリスに気づくと、ゆっくりと闇へ下がった。

監視、屋敷にまで。

本部での嫌がらせと、屋敷への監視は種類が違う。前者は「辞めさせる」ための圧だ。後者は——「逃さない」ための網だ。圧と網が同時に張られるとき、その先にあるものを、軍人は知っている。網は、獲物が跳ねる瞬間のために張る。つまり向こうは、私が「跳ねる」ことをもう想定している。

(動くなら、想定の外から。動く前に、家族を——)

家族をどうする。何も知らせずに置くのは、盾の内に入れないのと同じだ。知らせれば、極秘漏洩の咎が両親にまで及ぶ。どちらの選択肢も穴が開いていた。穴の開いた選択肢しか残されていないことこそが、あの網の本当の恐ろしさだった。

夜の帝都を、フィーリスはかけ足で走った。

屋敷の方角の道が、いつもと同じ景色をしていることを無意識に確かめながら。

皆さんからいただいた時間 195.84Ø
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