屋敷の門をくぐった瞬間、分かった。
玄関の灯りが消えている。母は、フィーリスの帰りがどれだけ遅い夜でも、玄関の灯りを絶やさない人だ。二十二年、一度の例外もなく。
その玄関の扉が、音もなく開いた。
「——おかえりなさい」
母のカレンが暗がりに立っており、囁くような声でいつもの挨拶を言った。それから、いつもとまったく違う言葉を同じ静かさで続けた。
「あなたは、早く逃げて」
心臓が、一度大きく打った。
「……お母さん。何が」
「庭に、お父さんがいます。裏から、……急いで」
説明はそれだけだったが、それだけで足りた。この家は昔から、少ない言葉で足りるように、互いを見て生きてきた家だ。母の顔に浮かんでいるものを読み違えるほど、フィーリスはこの家の娘を疎かにやってこなかった。
敷地の中に誰かいる。複数。狙いは——私。
裏庭へ回ると、父のヴァルターが暗がりに立っていた。
平服のまま腰に二本の剣。構えてはいない。ただ立っているだけの父が、これほど「戦い」の匂いをさせているのをフィーリスは初めて見た。
「四人」
父は前を向いたまま言った。退役して十年の男が、闇の中の数を現役の斥候より正確に数えていた。庭の千回の素振りは、錆止めでもあったのだ。
「塀の外に、あと二人。手練れだ。軍の匂いがする」
暗殺部隊。頭のどこかが、妙に冷静にそう言い当てた。記録に残らない方法の最後の頁。迫害で足場を崩し、それでも折れなければ——消す。
「お父さん、私が出ます。狙いは私です。二人を巻き込むわけには」
「ならん」
短い、岩のような声だった。
「お前が死ねば、奴らの思う通りだ。お前が戦って勝っても、『副団長が乱心して人を斬った』ことにされる。……ここでお前にできることは、ひとつもない」
「ですが……!」
「フィーリス」
父が、こちらを見た。
それから腰の剣を一本、鞘ごと外した。
飾り棚の剣だった。ライナスト家代々の聖剣。刃に聖印を刻んだ、この家でいちばん古く、いちばん手入れされた剣。父はそれを、両手で差し出した。
「持っていけ」
「————」
「もう持ち主は、俺ではなく、お前だ」
受け取れなかった。受け取ってしまったら、この夜が本物になる気がした。
「お父さん、私……私が任務を断ったから、こんな」
「フィーリス」
父は、剣を差し出したまま動かなかった。
十歳の冬を思い出した。初めて父に稽古をつけてもらった日。木剣を握るフィーリスの構えを、父は黙って三度直し、三度目に一言だけ言った。
「良い構えだ」
あの日から今日まで、父の稽古はいつもその調子だった。百の言葉の代わりに、一つの正しい所作。千の褒め言葉の代わりに、たった一言。
だからこの沈黙も読めてしまう。父は今、急いでいない。追手が敷地に入っている夜に、急いでいないのだ。娘が自分の意志で受け取るまで、一晩でも待つ構えの沈黙だった。
「胸を張れ。お前は、ライナストの剣が斬ってはならんものを、正しく知っていた。それを教えたのは俺だ。……誇りに思う」
聖剣が両手に載せられる。重い、だがこれは剣の重さではない。これは生きろ、という願いの重さだ。この家の言葉の少なさで発された、いちばん大きな声だ。
受け取った瞬間、父はもう背を向けて庭の中央へ向かっていた。平服の背中が、月明かりの下で現役のどの騎士より大きく見えた。
「お父さん」
涙の混じった声に、父は振り向かなかった。振り向かないまま、右手だけを軽く上げた。稽古の終わりの、いつもの合図。今日はここまで、続きはまた明日——十年以上、何千回も見た、あの手の形だった。
「西の隠し通路を使いなさい」
いつのまにか、母が背後にいた。小さな包みをフィーリスの荷に押し込んでくると、ずしりと硬い感触があった。
「お母さん、これは」
「台所の、いつもの棚のものよ」
いつもの棚。今夜のこの状況で母が荷物に選んだものが、金でも宝石でもなく、あの棚のものだという事実に、フィーリスは泣きそうになった。泣いている暇も、中身を確認する暇もなかった。この包みが開かれるのは、もっとずっと先の話になるだろう。
それだけ言って、母は娘の外套の襟を両手で直した。子どものころから、出かける前にいつもしてくれた仕草だった。今日が最後になるかもしれない仕草を、母はいつもとまったく同じ手つきでやった。それがこの人の強さだった。
「寒くなる前に、ちゃんとした宿に泊まるのよ。安宿の毛布は薄いから」
「……はい」
「食事を抜かないこと。髪は、ちゃんと結うこと。それから——」
母の声が、そこで初めてほんのわずかに揺れた。
「——幸せに、なりなさい。誰が何と言おうと。それが、お父さんとお母さんの、最後の言いつけです」
「これを持って。……いいですか、フィーリス。振り返らないで。走って。生きて」
「お母さん、二人も一緒に……!」
「私たちが消えれば、奴らは総出であなたを追います。私たちが残れば、追手は割れる」
母は微笑んでいた。こんなときまで、この人は娘を守ろうとする。
「それにね。……この家は、私とお父さんの家なの。誰に追い立てられる筋合いも、ないのよ」
母が言い終わると、庭の方で剣と剣が交わる音が聞こえた。
「行け!」
父の声と同時に、フィーリスは走り出していた。
✦ ✦ ✦
隠し通路は、屋敷の西の井戸の底から続いている。
子どものころ、かくれんぼで一度だけ使って、父にこっぴどく叱られた道だ。あのとき父は、叱ったあとで通路の出口や扉の開け方など、全部教えた。「使うなと言ったのではない。正しく使えと言ったのだ」——十数年越しに、その言葉の意味が、いま足の下にあった。
真っ暗な視界と湿った土の匂いの中、フィーリスは手探りで走った。聖剣を抱きしめて。母の包みを潰さないように。
振り返らないで、と母は言った。
言われたとおり、通路の中では振り返らなかった。
出口は、屋敷を見下ろす丘の中腹にある。茂みを押しのけて、夜気の中に転がり出て、膝の土を払って——そこで。
振り返ってしまった。
✦ ✦ ✦
屋敷が燃えていた。
オレンジ色の光が、夜をめくり上げていた。見慣れた屋根の線が、火の中で崩れていく。玄関の灯り。母の台所。父の庭。聖剣が置かれていた飾り棚。二十二年ぶんの家が、音を立てて燃えていた。
爆ぜる音が丘まで届いた。風向きのせいで、熱の気配まで届いた気がした。
「————、」
声は出なかった。
出そうとした声は、ぜんぶ喉のどこかで燃えてしまった。
膝が砂利を噛んでいた。いつ崩れ落ちたのかも分からなかったが、目だけは離せなかった。あの屋根の下で、母はいつも通り紅茶をいれていた。あの庭で、父は夕方いつもの素振りをしていた。あの食卓で、あの部屋で、あの家で——
(逃げて。……お願い。お父さん、お母さん、逃げて)
祈りは、炎の音に呑まれた。
——走って。生きて。
母の声が耳の奥で言った。
幻聴か、はたまた本当の声かを聴いたフィーリスは、ハッと我に返って走りだした。
門は使えない。夜間の城門には定期巡回があり、要注意人物に私の名前が載っていないはずがない。だから水路だ。城壁の西の、排水の暗渠。哨戒の交代の間隙は、頭に入っている。入れたのは私だ。この都市の守りの図面を、七年かけて、この手で引き直してきたのだから。
守るために覚えた抜け道を、逃げるために使う夜が来るとは思わなかった。
暗渠の水は冷たかった。膝まで浸かって身を屈めて、光の届かない道の歩数を数えた。二百歩目のあたりで、頭上を哨戒の靴音が通った。規則正しいいつもの間隔の音。昨日までは、あの音の側にいた。そして、あの音を誇りに思っていた。音が遠ざかるまで、フィーリスは水の中で息を殺した。誇りの音から隠れる息の殺し方を、体はなぜか知っていた。知っていることが悲しかった。
水路を抜けた後、夜の帝都の外れを街道沿いに西へ向かった。涙は出ていたが、拭かなかった。拭く時間も惜しかったし、拭いたら足が止まる気がした。聖剣が腰で鳴った。母の包みが、荷の中で硬かった。それだけが、この夜彼女に残されたものの全部だった。
走りながら、頭のどこかで誰かが数を数えていた。
父の素振りは千回。母の紅茶は二十二年。玄関の灯りは一晩も欠かさず。でも、この家が積み上げてきた「いつもどおり」の数を、炎はたった一晩で——
数えるのをやめた。数えたら足が止まる。
城壁の哨戒灯が、いつもどおり等間隔に流れていた。
昨日まで守ってきた光が、今夜はただ遠かった。
夜明け前、街道を外れた林の中で一度だけ足を止めた。体が燃料切れを起こして、動かなくなったからだ。
木の根に座り込んで、聖剣を胸に抱え直した。鞘の冷たさが頬に触れた。
(……胸を、張れ)
父の声を繰り返した。誇りに思うと、お前の断りは正しかったと父は言った。だがその結果、全てが燃えた。正しさの代償がこれだ。この代償を、私は生涯かけてどう合わせればいいのか。
答えの代わりに、街がある東の空が白みはじめた。
屋敷のない帝都の、最初の朝が来ようとしていた。