どこをどう走ったのか、覚えていない。
気づけば夜が明けていて、気づけば知らない町の安宿で、フードを目深にかぶったまま部屋を求めていた。国境方面の名前も確かめなかった町。宿の主人は詮索をしない人で、それだけが救いだった。
部屋に入って鍵をかけ、聖剣を壁に立てかけて。
そこで糸が切れた。
✦ ✦ ✦
町の掲示板で公報を見たのは、宿を取る直前だった。
『反逆者ライナスト家、討伐。当主夫妻、死亡』
人だかりの後ろから、フードの奥でその二行を三度読んだ。しかし三度読んでも、文字は変わらなかった。周りの人々が口々に何か言っていた。「ライナストって、あの聖騎士の」「反逆だってさ、おっかない」「へえ、あの家が」——どの声も遠かった。
『討伐』という言葉を、フィーリスは職業柄どういう意味か正確に知っている。軍が使うとき、それは「抵抗されたので排除した」の公式表現だ。父は戦ったのだ。母は最後まであの家にいたのだ。
宿の部屋の鍵をかけたところまでは覚えている。
それから丸一日、フィーリスは泣き続けた。
泣く、という言葉が正しいのかも分からなかった。涙は出たり、止まったりした。止まっているあいだは、寝台の縁に座って、床の木目を見ていた。木目は何も答えなかった。腹は空かなかった。喉だけが渇いて、水差しの水を義務のように飲んだ。
考えは、ぐるぐると同じところを回った。
私が任務を断らなければ。断ったあとすぐに家を出ていれば。あの夜、父の隣で戦っていれば。いや、そもそももっとうまく立ち回って、計画を内側から止める道が——
どの道も、途中で燃え落ちた。全部もう選べない道だった。
一度だけ妄想の中で、「受けます」と言ってみた。あの団長室で、そう言った世界の自分を想像してみたのだ。家は燃えず両親は今夜も食卓にいて、私は副団長のまま——他国の街に、魔石を配って回っている。
想像は三秒で吐き気に変わった。ああ、と分かった。あの夜の私に、本当の意味での選択肢は最初からなかったのだ。「受ける」は私が私でなくなる道で、人は自分でなくなる道を道とは呼べない。だから、後悔の形が少しだけ変わった。断ったことは悔いていない、悔いても仕方がない。悔やむべきは、断ったあとの動きの遅さ——それなら、これからいくらでも取り返しようがある。
そう考えている最中も、階下から宿の子どもの笑い声がし、別の場所では誰かが廊下を掃く音がした。自分の荒れた心とは裏腹に、世界はひどく普通の音でできていた。それが無性に腹立たしくて、そして腹を立てた自分が情けなくて……。フィーリスはまた床の木目に戻った。
いつの間にか夕方だった。
窓の外から、市場の音が届きはじめた。
「——らっしゃい、らっしゃい、夕市だよ! パンが安いよ!」
「奥さん、いい芋が入ったよ!」
「こら、走るんじゃない、危ないだろ!」
呼び込みの声や値切る声、子どもを叱る声や笑い声など。
フィーリスはのろのろと顔を上げて、窓辺に寄った。
眼下の通りに、夕市が立っていた。買い物籠を提げた奥さんたち。店じまいを急ぐ八百屋。仕事帰りの男が、串焼きを一本買って歩き食いしている。犬が吠え、誰かが笑い、教会の鐘が夕刻を告げた。
帝都のパン屋の夫婦と、同じ顔をした人たちだった。
木剣を振っていた、あの子たちと同じ声だった。
「…………」
それでも世界は、続いている。
その事実は、最初は絶望の形をしてフィーリスを刺した。両親が失われた翌日にも、パンは焼かれて誰かが笑っている。世界は、ライナスト家の炎を気に留めてもいない。
——でも
窓枠を握って夕市を見下ろしているうちに、心に刺さったトゲがゆっくりと別の形に変わっていった。
この人たちの上に、あの魔石が落ちるのだ。
ゼネライトにも。サークライトにも。ノルデインにも、トリスタンにも。この夕市とそっくり同じ営みの上に、開幕の一斉起爆が。九割減るという数字の外側で、この呼び込みの声が、値切る声が、子どもを叱る声が——燃える。
私の家が燃えたように。
「……ああ」
声が、少しずつ出た。
そうか。私が泣いている場合ではないのか。
泣くのを、やめられるわけではない。この涙は、たぶん一生折々に出る。出てもいい。ただ、泣きながらでも歩ける。父は闇の中で敵を数えながら、剣を差し出した。母は声を揺らしながら、襟を直した。あの家の流儀は最初からそうだった。悲しみと仕事は、両手に一つずつ持てる。
✦ ✦ ✦
その夜、フィーリスは一日ぶりに食事をとった。
宿の階下の食堂で、固いパンと豆のスープ。味はほとんど分からなかったが、それでも全部食べた。体は資本だ。これから使うのだから英気を養わねば。
食べ終わるころ、宿の女将が黙って白湯のおかわりを置いていった。
「……宿代に、含まれていましたか」
「含まれてないよ。おまけさ」
女将はそれだけ言って、次の卓の皿を下げにいった。泣き腫らした目の客に、事情を聞かず白湯を一杯。この国の人はこういうことをする。フィーリスの守りたかった国は、宿の白湯の中にもちゃんとあった。
国と国家は違うと、白湯を飲みながら思った。私がこれまで守ってきたのは国で、これからも守るのも、その白湯を置く手と、夕市の声と、パンの匂いのほうだ。あの執務室の地図に、印を打つ手では無い。二つを同じ「帝国」の名前で呼んできたことが、そもそもの掛け違いだったのかもしれない。反逆者の烙印は国家からもらった。国からは、まだ白湯をもらっている。ならば私はまだ、この国の騎士でいられる。
部屋に戻ると、壁の聖剣の前に膝をついた。
「……お父さん。お母さん」
刃に刻まれた聖印が、ランプの灯りで鈍く光った。
「私は、生きています。あなたたちが、生かしてくれました」
言葉にすると、涙がまた出そうになった。
「この命の使い道を、決めました」
——親が残してくれたこの命を、私の信じることのために使う。
「計画を、止めます。あの魔石を、一つ残らず。誰の家も、どこの夕市も、燃やさせません。……それが、ライナストの剣の、正しい使い方だと信じます」
立ち聞きした言葉が、頭の中にあった。——今すぐ招集を。明後日には出発したい——あれが二日前の夜。つまり配備部隊は、今日帝都を発っている。行き先は各国の主要都市で、物流に紛れて実行すると言っていた。主要街道ならば追える。証拠を掴み、経路を暴き、各国に警告する道がまだ残っている。
一人で、どこまでやれるかは分からない。
反逆者として追われる身で、どこまで届くかも。
各国に警告する、と口で言うのは簡単だ。だが誰が信じる? 帝国の反逆者が「帝国が魔石を仕掛けて、都市を脅かしています」と訴えて、どこの国の門が開く? 物的証拠がいる。配備の現物や経路の記録…、動かぬ何かが必要だ。
「……ですが、やらない理由には、なりません」
辺りはすっかり暗くなり、窓の外の夜空に星が出ていた。
エリスは今頃どうしているだろう、とふと思った。私の失踪は、本部でどう伝えられただろう。反逆者、もしくは一家討伐。あの子はそれをどんな顔で聞いただろう。——なんかあったらうちに言えよ——言えないまま来てしまった。いつか事情を話せる日が来たら、あの喫茶店で今度こそ。
(また今度です、エリス。……必ず)
翌朝、フィーリスは町でいくつかの支度をした。
古着屋で旅装を一式。地図屋で西部街道の図を一枚。補給もいつできるかわからないので、食料や水分も。
古着屋の鏡の前で、旅装に替えた自分を初めて見た時、一瞬だれかわからなかった。くたびれた外套をまとい、飾りのない革帯をつけている旅の傭兵くずれの女、まさにそんな感じだ。そこには階級章も、家名も、二十二年の経歴も、鏡の中にはもう何ひとつ映っていなかった。
(……身軽、なものですね)
皮肉のつもりの独白は、思いがけず半分だけ本音の味がした。色々なものを失い、あとに残ったのは、剣と包みと止めるべき計画と——守りたいものの、一覧だけ。一覧は燃えていなかった。むしろ、帝都の外のこの町の夕市のぶんだけ、一行増えてすらいた。
聖剣は、鞘に布を巻いてただの長物に見せた。ライナストの聖印は、いまの帝国で、いちばん見せてはいけない紋章になった。父の剣に布を巻く手が一度だけ震えて、それきり震えなかった。
偽名も決めた。宿帳に書く名は「フェリ」。母が幼いころ呼んだ愛称だ。嘘の中にひとつだけ本当を混ぜておくと、呼ばれたときに反応が遅れない。
掲示板の前を、もう一度だけ通った。
公報の二行はまだ貼られていたが、フィーリスは立ち止まらなかった。立ち止まらずに、胸の中で二行の上に自分の二行を重ねた。——当主夫妻は娘を逃がしきった。娘は生きている——と。
宿に戻り、フィーリスは荷物をまとめた。路銀、替えの下着、携行食——そして、母の包み。
硬い感触のそれを開けようとして、手が止まった。
まだ開けられなかった。これを開けたら、あの夜の母の手が本当に「最後」になってしまう気がした。……いつか、もう少しだけ強くなれた日に。
包みを荷のいちばん奥に、そっと戻した。
窓の外、市場はもう店じまいをして夜の静けさが戻っていた。
フィーリスは灯りを消して、逃亡者になって初めての、浅い浅い眠りについた。
眠りの底で短い夢を見た。庭の素振りの音と、濃いめの紅茶の湯気の夢。目が覚めたとき頬は濡れていたが、体は動いた。動く体で、フィーリスは夜明け前の街道に出た。
西へ。荷は軽く、剣は重く、朝は約束どおり来た。