最初の襲撃は、町を出て二日目の朝だった。
街道が林に呑まれるあたり、鳥の声が不自然に途切れた。フィーリスは歩調を変えずに、耳だけを開いた。右の茂みに、草を踏む音がひとつ。左の木の上、衣擦れがひとつ。前方の倒木の陰に、呼吸がひとつ。
三人。
「……朝から、ご苦労さまです」
言い終わる前に、右の茂みから刃が来た。
抜き打ちの聖剣が、それを受けた。走る火花、重い斬撃。これは軍の剣ではない。もっと薄く、もっと速い、殺すためだけの刃。黒ずくめの装束、顔は布で覆われ、体のどこにも所属を示すものがない。
——影布。
名前だけは聞いたことがあった。宰相直属の暗殺部隊。存在自体が噂の域の、帝国の影。副団長ですら「噂」しか知らされていなかった組織が、いま私に刃を向けている。この国の水面下がどれだけ深いのか、深さの見当がまた一段狂った。
(存在、しましたか)
二人目が死角から音もなく迫る。フィーリスは受け流した一人目を盾代わりに回り込み、間合いを潰した。暗殺者の剣は速いが、軽い。正面の打ち合いになれば、聖騎士の剣が上回る。だから彼らは正面に立たない。立たせるのが、フィーリスの戦いだった。
「護盾」
短い詠唱で淡い光の盾が展開し、木の上からの投げ刃を弾く。その反射光の一瞬で、三人の位置を焼きつけた。
守り切ることが、最も速い勝利です——自分の稽古の声が頭の中でした。
二人目の剣は、下から来た。
地を這うような軌道で、受ければ体勢が崩れる高さ。だがフィーリスは受けなかった。半歩引いて空を切らせ、伸びきった腕を聖剣の峰で打つ。その攻撃によって骨の鳴る音がしたが、影布は声ひとつ上げず、逆の手の短刀で、返礼してきた。
(——痛みで止まらない)
普通は訓練された兵でも痛みで怯むが、この者たちは怯まない。痛覚ごと訓練で潰してあるのか、あるいはそれが潰されているのか。斬り結ぶたび、布の奥の目に感情らしいものが何ひとつ映らないのが、どの刃よりも冷たかった。
戦いは、長くなかった。一人目の腕を打ち、二人目の膝を崩し、三人目が引き笛を鳴らして、三つの影は林に溶けた。深追いはしない。できない。彼らの狙いは討ち取りだけではなく、消耗させることでもあるのだから。
(……殺しは、しない。まだ)
峰打ちと関節攻撃など、無力化に留める戦い方をフィーリスは選び続けていた。甘さだと教官なら言うだろうが、あの布の下にいるのは命令で動く帝国の兵だ。私が昨日までそうだったのと同じ、命令の中身が違うだけの同じ人間だ。彼らを斬り捨てる日が来たら、私は「乱心した反逆者」の公報に、自分で判を押すことになる。斬らずに勝ち続けるのは意地だった。分の悪くて体力を倍食う、けれど譲れない意地だった。
去り際、風に乗って囁くような声が残った。
「……次は、六人」
悪質な予告だった。もちろん親切心からではなく、これも消耗のうちだ。移動中は次の襲撃を彷彿とさせ、眠るたびに「六人」を数えさせる、毒の一滴だ。分かっていて、フィーリスはその夜から六まで数えないと眠れなくなった。
フィーリスは息を整え、剣の血振りをして——刃こぼれを確かめた。
✦ ✦ ✦
それからしばらく、限界になりながらもフィーリスは逃亡生活を続けていた。
雨の夜でも、屋根のない野営をしなければならない。煙は居場所を教えるため、火は焚けない。濡れた外套にくるまって、木の根元で剣を抱いたまま眠る。眠りは浅く、夢は見ない。夢を見る深さまで、落ちられない。
食べるものは乾いたパン。しかし数日もすると、その食料も尽きた。そんな時、名も知らぬ村はずれの畑の隅に、売り物にならない曲がった芋が捨ててあった。しかし手持ちに時元コインは無かったため、代わりに服からちぎったボタンを一つ、畑の柵に結んでいただいた。反逆者になっても、盗人にはなるまいと思った。思ってから、その律儀さに少しだけ笑った。笑えたことに、少しだけ救われた。
五日目には、一度だけ人の情けに触れた。
荷馬車の老夫婦が、雨の街道でずぶ濡れのフィーリスに馬車の中を貸してくれたのだ。おじいさんは何も聞かず、おばあさんは黙って干しプラムを握らせてくれた。半日ぶんの距離と、屋根と、プラムの甘さ。降ろしてもらうとき深く頭を下げると、おばあさんは笑って手を振った。
「気をつけてな、べっぴんさん。……追われてるんだろ。顔で分かるよ。うちの息子も昔、そういう顔してた」
それ以上は何も聞かれなかった。息子さんがその後どうなったのかも、聞けなかった。ただ、おばあさんのプラムの握らせ方が、とても丁寧なことだけは分かった。
帝国の民はこういう人たちだ。フィーリスの守りたいものは、旅の道にもちゃんとあった。あの魔石の計画が守ると言い張っているものと、あの計画が焼くと決めているものが、同じ顔をしていることを宰相はどれくらい理解しているのだろう。
どれだけ疲れていても、夜ごとの聖剣の手入れだけは欠かさなかった。
眠る前に刃を拭い、油を引いて刃こぼれを指で確かめる。父がやっていたとおりの手順で、父がやっていたとおりの丁寧さで。手入れの十五分だけは、逃亡者の時間ではなくライナストの娘の時間だった。刃に映るランプの灯りの中に、時々、庭の月明かりが見えた。気のせいだと分かっていて、その気のせいのために手入れは続けられた。
逃亡中は川を三度渡った。
追手は匂いより痕跡を追うため、水で足跡が消えるのは好都合だった。軍の教練で教わったすべてを、教わったときには想像もしなかった向き——帝国から、逃げるために——使っている。
その倒錯が、夜ごとに骨身に染みた。
数日前まで守っていた国に追われている。
最近まで誇りだった聖印を、布で隠して歩いている。すれ違う巡回兵に顔を伏せ、検問を避けて獣道を選び、偽名を使って馬車や街道の人間とやり取りをする。
(お父さん。お母さん。……私は、正しかったのでしょうか)
弱音は、夜の分だけ湧いた。そして湧くたびに、丘の上の炎を思い出した。あの炎が答えだった。正しくなければ、誰もあんなふうに命を懸けて逃がしたりしない。
だが正しさは、腹の足しにはならなかったし、夜の寒さも防いでくれなかった。正しさだけを毛布にして眠る夜が、こんなに冷えるものだとは誰も教えてくれなかった。
✦ ✦ ✦
二度目の襲撃は、五人だった。三度目は、七人。
——六人、ではなかった。襲撃の数さえ、揺さぶりの道具だった。
三度目の夜は、廃屋の納屋で迎え撃った。狭い場所は数の利を殺す。扉一枚ぶんの間口なら、七人は一人ずつしか来られない。守り切ることが最も速い勝利の応用だった。
戦いの最中、一度だけ影布の一人が口をきいた。
「……投降しろ。楽になるぞ」
「お断りします」
刃を合わせたまま、フィーリスは静かに返した。
「断るのは、得意なんです。——最近、特に」
冗談を言える余力がまだあることを、自分で確かめるための軽口だった。影布は応えず、刃だけが応えた。それでいい、こちらの余力の残高を、敵が知る権利はない。
納屋の梁が三本折れ、フィーリスの左腕に浅い傷が二つ増え、七つの影はまた潮のように引いた。
追撃の余力はなかった。壁にもたれて座り込み、傷を縛りながらフィーリスは考えた。勝ってはいる、一度も負けてはいない。それなのに、戦うたびに確実に貧しくなっていく。パンが、眠りが、時間が。この戦いには、勝ち続けても減っていくものしかなかった。
襲撃者の数が増えているのと、包囲の網が狭まっている事実に、眠りはさらに浅くなった。
もう何日目だっただろうか、ある夜は橋の下で過ごした。
雨だったが火はなく、毛布は湿って川音だけが大きかった。眠りの浅瀬で、夢とも思い出ともつかないものが、切れ切れに流れた。訓練場の号令、母の紅茶の湯気、エリスの笑い声。——なんかあったら、うちに言えよ。
(……言えたら、どんなによかったでしょう)
目が覚めると、頬が濡れていた。雨のせいにしておいた。
しばらくすると橋の上を、夜明けの荷馬車が通っていく。車輪の音は規則正しく、生活の音だった。世界のすぐ隣で眠って、世界に入れない朝だった。
次の朝、フィーリスは小川の水面に映る自分を見た。
そこには頬のこけた、目の落ち窪んだ知らない女がいた。そして副団長の面影は、全くなかった。あるのは、逃げ続ける獣の顔だった。
「……まだ、です」
水を両手で掬って、顔を洗う。
「まだ。……まだ、折れて、いません」
言い聞かせる声が、自分でも分かるほど細くなっていた。
それでも進んでいる、そう信じるしかなかった。
輸送部隊の痕跡は、三度拾えた。宿場の飼い葉の大量発注。橋の通行記録の妙な空白。西へ向かう「祭りの先触れ」にしては重すぎる轍の跡。逃げながら追っている。狩られながら、狩っている。影布が思うよりも、この獲物はまだ牙を持っていた。
配備部隊の経路には、まだ追いつけていない。そのうえ体力は削れ、気力は磨り減り、味方はこの大陸のどこにも一人もいない。
✦ ✦ ✦
ある朝、フィーリスは小川のほとりで短い祈りをした。もともと信心深いほうではないが、それでも心の余裕が尽きた人間は、星にでも祈るしかないのだった。
(どなたでも、構いません。……あと少しだけ、時間をください。あの石が、誰かの町に届く前に)
祈りの返事は無かったが——星々は案外、聞いていたのかもしれない。