日が真上に上っているとき、フィーリスは崖を背にしていた。逃げ場のない岩壁の冷たさが、外套越しに背骨まで届いていた。
街道脇の林、逃げ込んだ先は選び間違いだった。浅い谷が行き止まりになっていて、背後には岩壁、そして前には——影布が九人。
「……ライナスト・フィーリス」
隊長格らしい長身の影が、初めて口をきいた。布の奥の声は砂のように乾いていた。
「よく逃げた。賞賛する。——終着は、ここだ」
「終着かどうかは、乗っている者が決めます」
「強がりも、賞賛しよう」
フィーリスは聖剣を構えた。腕が重い、一週間以上の疲労が鎧のように体に張り付いている。しかし息を整え、冷静に戦場を分析する。
全部で九人。正面からの五人はしのげるが、残る四人が回り込んだ時点で盾は崩れる。それでもある程度は抵抗はできるだろうが、長期戦になれば——
(……ここまで、ですか)
不思議と恐怖は薄かった。かわりに、悔しさの目録が順番に流れた。魔石の経路を掴みきれなかったこと。警告をどこの国にも届けられなかったこと。エリスに事情を話せなかったこと。母の包みを、開けずじまいだったこと。……走馬灯のように死の間際に数えるものが「やり残した仕事」ばかりというのは、我ながらつくづく騎士だった。父もあの庭で、こんな目録を数えたのだろうか。
それでも剣は下ろさなかった。下ろし方を、この逃亡生活で忘れていた。一人でも多く道連れに——ではない。一秒でも長く立っていれば、その一秒ぶん計画の露見の目が残る。私が高く売れれば売れるほど、影布はここに釘付けになる。最後の勤めは、自分の時間を使って値段を吊り上げることだった。
「守り切ることが」
呟く。自分の稽古の声を、自分に。
「最も速い、勝利です——!」
影布が一斉に動いた。
最初の三刃を、受け流して弾いた。だが四人目の刃が脇腹を掠める。
熱い。
五人目を崖の岩ごと蹴って牽制し、六人目——回り込まれた。背後は岩壁との狭間、盾の外に刃が来る。
その瞬間だった。
「——その人から、離れてくださいっっ!!」
✦ ✦ ✦
声と風は、ほとんど同時に来た。
谷の入り口から吹き込んだ突風が影布の体勢を崩し、風を纏った槍ごと金髪の少女が飛び込んできた。
「事情は分かりませんが——多勢に無勢は見過ごせません!!」
(——誰、です……?)
呆気にとられるフィーリスの前で、少女の槍が唸った。九対一だった包囲が、九対二に変わる。いや——
「キーラさん。左に三人、固まっています」
谷の入り口にもう一人。銀髪の小柄な少女が、青白い杖を構えていた。ただその戦場を見る目が、尋常ではなかった。
乱戦の真っただ中で、敵と味方の配置と、地形を一瞬で読み切った目。凛と冷えた声が、詠唱を紡ぐ。
「白妙の息吹よ、いざ我が掌に凍てつきて、氷の華として咲き誇れ——氷華」
左手に固まった三人の足元が、一瞬で白く凍りついた。
「もらったぁ!!」
風の槍が、凍った三人の得物を続けざまに弾き飛ばす。氷が動きを止めて、風が武器を奪う。見たこともない連携だった。
「な、なんなんだ、お前たちは……!」
影布の一人が、初めて驚きの声を出した。だがそれも無理もない。九対一の詰みの盤面に、駒が二つ空から降ってきたのだ。しかも二つとも、盤の読めない種類の駒だ。答えたのは風だった。
「通りすがりの、旅の者です!!」
通りすがりが崖下の乱戦に飛び込むか、という顔を布の上からでも全員がしていたが、フィーリスも内心同じ顔をしていた。
「あなたも! 立てますか!?」
金髪の少女が、こちらに背中を向けたまま叫んだ。
「……っ、はい!」
体が勝手に応えた。久方ぶりに、背中を預けられる誰かがいた。それだけで腕の重さが半分になった。
(この二人——何者です? いえ、今は)
考えるのは後だ。フィーリスは頭を切り替えた。敵は九人の布陣、味方は槍と魔導師、ならば自分の仕事は決まっている。二人に刃を届かせない壁になることだ。
「お二人とも! 私を軸に、円を意識してください! 槍の方は右回りに、魔導師の方は私の左後方へ!」
「わ、分かりました!」
「え、えっと、右回り! 時計の進むほう!」
「はい、時計の進むほうです!」
即席の指示に、二人はすぐ応えた。氷が敵の足を選んで止め、風が武器を選んで弾き、聖剣がその隙間を守り切る。三人の呼吸が、二巡り目には噛み合いはじめていた。
初めて組む相手と、こんなことがあるのだろうか。
私は帝国の訓練場で、何百人に連携を教えてきた。その経験からわかることだが、呼吸を合わせるには最低でも三月かかる。互いの癖を知り、間合いを覚え、信頼を積んでやっと二人はひとつの陣形になる——それが教本で、経験則だった。だがこの二人との呼吸は、二巡りで合った。理屈に合わない、合わないが剣を交えれば分かることもある。この二人はたぶん、旅の毎日で「合わせる」練習を、飯の支度から荷物の分担までずっと積んできたのだ。連携とは、戦場の技術である前に暮らしの技術なのかもしれない。
✦ ✦ ✦
影布は、練り直しが速かった。
魔導師と槍手を分断すべく、三人が銀髪の少女へ走る。フィーリスは反射で盾に入った——が、少女は慌てなかった。足元の地面を薄く凍らせ、走り込んだ影布の足を滑らせ、転んだところへ、フィーリスの峰打ちが落ちる。
「助かります。……フィーリスと、申します」
「プシュケ、です。……その傷、あとで見せてください」
戦いの中で名乗り合う日が来るとは、思わなかった。思わなかったが、悪くなかった。
次の波は、投げ刃だった。岩壁の上に回った二人が、雨のように打ち下ろしてくる。狙いは魔導師——詠唱を潰す気だ。
「プシュケさん、続けて! ——護盾!」
光の盾が、少女の頭上に展開する。刃が二枚、弾かれて落ちた。プシュケは瞬きひとつせず、詠唱を紡ぎきった。肝の据わった魔導師だった。凍った岩壁から足を滑らせた影布を、外周から回り込んだキーラの風が、まとめて薙ぎ払う。
「ナイスです!!」
「そちらこそ!」
声を出して連携を取るのは、いつ以来だろう。1週間——いや、もっとずっと、久しぶりの気がした。
一方のキーラは、隊長格と正面から打ち合っていた。
風を纏った古槍は鋭かったが、隊長格の剣はそれを上回って冷たかった。速さではなく、殺しの経験の差。三手目、隊長格の刃が、槍の柄を正確に狙った。
ベキッバキッ
嫌な音がした。
「————あ、」
折れた穂先が宙を舞う。旅の序章からを共に戦ってきた、店の防犯用の、あの古槍が。柄の半ばからあっけなく。
魔物相手には一度も起きなかったことだった。人を殺すために鍛えられた刃と技は、道具の芯まで殺しに来る。
「キーラさん!!」
プシュケが叫ぶ中、隊長格の剣が返す刀で振り下ろされる——が、キーラは下がらなかった。
折れた柄を両手で握り直して、勇猛果敢に前に出た。半分の長さの得物は、半分の間合いで使う。振り下ろしの内側へ体ごと進み、風を纏った折れた柄の先端が、隊長格の鳩尾へ突き込まれた。
「がっ————」
長身の影が、崩れ落ちた。
「……っはあ、はあ……。ごめんね、最後まで付き合わせて」
キーラは、折れた柄に小さく言った。
フィーリスはその光景を、目に焼きつけていた。
得物を折られて、前に出る。教本では、それを愚行と書く。しかし実戦は、それを勇気と呼ぶことがある。だが今回は、そのどちらでもなかった。あの子のあれは——誰かを守っている最中の当たり前の顔だった。軍の訓練場でフィーリスがずっと教えようとして、言葉にしきれなかったものが、折れた槍の先にあっさりと立っていた。
✦ ✦ ✦
頭を失った包囲は長くもたなかった。
氷が二人を捕らえ、風が二人の得物を飛ばし、聖剣の峰が残りを黙らせた。動ける影布が引き笛を鳴らし、倒れた仲間を引きずって、影は谷から潮のように引いていった。
引き際、最後の影が一瞬だけフィーリスを見た。
布の奥の目に、初めて感情らしいものが浮かんでいた、困惑だ。一週間以上かけて孤立させ、削って追い詰めたはずの獲物の隣に、なぜ味方が生えている——その顔のまま、影は林に消えた。
(生えたのですよ)
フィーリスは、荒い息の下で思った。
(あなたがたの知らない場所から。私ですら知らない、計算の外側から)
戦闘が終わり、静けさが戻ってくる。
「……勝った? 勝ったよね? プシュケちゃん、怪我はない!?」
「ありません。キーラさんこそ、その、槍が」
「うん。……うん! あとで、ちゃんとお葬式する! それより、騎士のお姉さんは——」
二人が駆け寄ってくる。
駆け寄ってくる、その足音を聞きながら、フィーリスは妙なことを考えていた。この逃亡期間中、寄ってくる足音は全部敵の音だった。草を踏む音や砂利の音も、全部警戒して剣の柄に手を置かなければならなかった。しかし今近づいてくる二つの足音は——剣の柄に手を置かなくてもいい音だった。たったそれだけのことが、こんなに体の力を抜くのか。
フィーリスは、何か言おうとした。礼を。名を。事情を。この逃亡期間中で初めて向けられた、敵意のない二対の目に何かを。
言おうとして——膝から力が抜けた。
張り詰めていた糸が音を立てて切れるのが、自分でも分かった。とうに限界値を超えていた疲労と、安堵という名の優しい暗闇に、視界がゆっくりと傾いていく。
「わわわっ!? ちょ、しっかり!!」
「キーラさん、脇腹に出血です。……宿へ。急ぎましょう」
「事情、聞かないの?」「傷が先です」「だよね」——遠くなる意識の端で、二人の声がそんなやり取りをしていた。
事情より、傷が先。
その順番を当たり前に言える人たちの、肩のあたたかさを最後に、フィーリスの意識は久しぶりに落ちていった。