夢を、見ていた気がする。
父が庭で素振りをしている中、母が入れた紅茶の湯気が香る。しかしその直後、屋敷の屋根が燃え……。いいものと悪いものが、順番も脈絡もなく流れていって、しかし最後に、あたたかい風が吹いた。
目を開けると、知らない天井があった。
宿の部屋だ。窓から午後の光に清潔な寝台。脇腹に丁寧な手当ての感触もする。体を起こそうとして、フィーリスは自分の腕に力が入らないことに驚いた。
「あ! 起きた!!」
扉が開いて、金髪の少女が盆を持ったまま飛び込んできた。
「プシュケちゃん! 起きたよ!!」
「聞こえています。宿中に聞こえています」
金髪の少女に続いて、銀髪の少女が続いて入ってくる。すると谷での記憶が、ゆっくりと繋がった。風の槍の人と、氷の魔導師の人。
「……私は、どれくらい」
「三日! まる三日、寝てました!」
「三日……!?」
三日、と改めて言われて、部屋の中の痕跡が意味を持ちはじめた。
窓辺の椅子に畳まれた毛布、誰かがここで寝ずの番をしていた形だ。机の上には、薬瓶と包帯と、几帳面な字の看病の記録『一日目・夜 熱高い。氷枕交換三回』があり、その隣には丸っこい字の書き込み『二日目・ひる おかゆ少し食べた!えらい!』があった。
……えらい、とは記憶にないが、どうやら自分は褒められていたらしい。
「傷、勝手に手当てしました。脇腹のは、浅いですが、化膿しかけていたので」と、銀髪の少女。「熱は、昨夜、下がっています」
「氷枕係はプシュケちゃん! 便利なの、氷魔法!」
「……看病を、三日も。お二人の旅の予定が」
「病人が予定の心配をしないでください」
ぴしゃりと言われたが、正論だった。
飛び起きようとして、脇腹が抗議した。三日…追手は…配備部隊は…焦りが胸を焼く——が、銀髪の少女が静かに言った。
「追手の気配は、ありません。町の出入りは、交代で見ていました。……いまは、治すのが先です」
反論の余地のない、正しい手順だった。フィーリスは枕に体を戻した。
そこで初めて気づいた。
枕元に、彼女の荷物が、綺麗に整えられて置いてあった。泥だらけだった外套は洗われ、破れは繕われ——そして、その横に聖剣が立てかけてあった。
綺麗に刃も磨かれていた。
この逃亡生活で、血と泥と刃こぼれにまみれていた刀身が、曇りひとつなく手入れされ、聖印が窓の光を受けて静かに輝いていた。父の手入れと、同じ丁寧さだった。
「……これ、は」
「あ、勝手にごめんなさい! でも、汚れたままだと錆びちゃうから。……武器は綺麗な方が、心も強くなるので!」
キーラと名乗った少女は、そう言って笑った。
フィーリスは、しばらく言葉が出なかった。
見ず知らずの素性も知れない、しかも何者かに追われている女。その裏を詮索もせず、傷の手当てをして寝ずの番をしてくれた人たちがいる。
「……なぜ、ですか」
声が掠れた。
「なぜ、そこまで。私が何者かも、ご存じないのに」
「んー……」
キーラは少し考えて、あっけらかんと答えた。
「崖を背にして、九人相手に、剣を下ろさない人だったから?」
「傷の手当てに、理由は要りません」とプシュケが言った。「要るなら、あとで請求書を書きます」
「え、書くの?」
「冗談です、書きません。……ですが、ひとつだけ対価をいただくなら。目が覚めたら、事情を話せる範囲で話してほしい、とは思っていました。あなたの事情と正体を知らないと、見張りの立てようがないので」
理由は要らないと言いながら、実務は完璧だった。この小さな魔導師の頭の中は、どうやら優しさと段取りが同じ棚に並んでいる。
✦ ✦ ✦
夕方、傷に障らない範囲で、と三人で宿の裏庭に出た。用件は折れた槍の手当てだった。
穂先と折れた柄、今は折れている古槍だったものが、布の上に丁寧に横たえられていた。キーラの家の店先で防犯用に立てられ、海賊の根城に連れ出されたかと思うと、その後にワーラビットなどの魔物、最後に帝国の暗殺者と渡り合った、一本の古い槍。
「この子はね、お店の槍だったの」
キーラは、しゃがんで柄の木目を撫でた。
「おじいちゃんの代からうちにいて、たぶん、わたしよりずっと年上。旅に出るとき、他に得物がなかったから連れてきちゃったけど……ほんとは、お店の隅で、のんびり錆びていく予定の子だったんだよね。ごめんね。……でも、ありがと。あなたがいたから、わたし、ここまで来られた」
お葬式すると谷では言った。言ったが、いざ布の上の姿を見ると、キーラはできなかった。穂先と柄を綺麗に拭いて、油紙に包み直して、荷物の底へ、そっと戻した。
「……もうちょっとだけ、一緒に旅しよ。お葬式は、次の得物がちゃんと決まってから。じゃないと、この子、心配で休めないから」
プシュケは何も言わずに頷き、フィーリスは——騎士の流儀で、包みに短く剣礼を捧げた。騎士の正式な礼を初めて見て、キーラが目を丸くした。
「……戦友でしたので」とフィーリスは言った。「あの谷で、私はこの槍に命を救われました。礼を尽くすのが筋です」
作法は三人ばらばらだったが、気持ちだけが揃っていた。
✦ ✦ ✦
その夜、フィーリスは身辺や帝国で起きた事情を全部話した。
初めは話すつもりはなかった。事情に巻き込めば、二人まで追われる身になることを分かっていたからだ。しかし分かっていたのに、粥を三杯食べさせられ、白湯を飲まされ、「話せる範囲でいいよ」と言われたら、言葉は堰を切った。
帝国の聖騎士団に所属しており、上層部の特殊魔石の計画に触れたが、それを拒否したこと。そしてその結果訪れた、静かな迫害と暗殺部隊、——最後に両親と燃えた屋敷のこと。
二人は、最後まで遮らなかった。
キーラは何度か泣きそうな顔をして、そのたびに唇を結んだ。プシュケは目を伏せて、静かに聞いていた。
「……以上が、私の事情です」
語り終えて、フィーリスは、頭を下げた。
「危険な話です。聞かせてしまって、申し訳ありません。夜が明けたら、私は発ちます。あなたがたは、どうか私と会わなかったことに」
「いやです」
即答だった。
「え……」
「いやだ、って言いました。会っちゃったもん。会わなかったことには、できません」
キーラは身を乗り出した。
「あのね、フィーリスさん。わたし三日間ずっと考えてたの。九人相手に、たった一人で、崖を背にして戦ってた人のこと。あの人は、何を守ろうとしてたんだろうって。……いま、答え合わせができました」
「キーラさん、これは、遊びでは」
「わかっています」
キーラの目は笑っていなかった。その目は、谷で見たあの時と同じだった。
「魔石が落ちるのって、ゼネライトとか、サークライトとか、なんだよね。……ゼネライトには、うちの国のみんなの商売があるの。サークライトには、プシュケちゃんの家族がいるの。——もう、他人事じゃないよ」
「わたしからも、ひとつ」
プシュケが手を挙げた。
「わたしたちの旅には、目的があります。わたしは母を治す華を探しています。キーラさんは、世界を見て回っています。それは、変えません。……ですが」
淡々と、条件を並べる声だった。
「道の方角は、きっと同じです。情報は、多いほうが強い、戦力もです。あなたは剣と盾、わたしは氷、キーラさんは風と槍——組み合わせは、悪くないと思います。谷でも既に実証済みです。よって、同行を提案します。」
「対等な、契約として」と、プシュケは付け足した。「主目的は互いに曲げない。ただし、場面に出くわしたら、力を貸し合う。……いかがですか」
フィーリスは、二人の顔を順番に見た。
理屈はプシュケの言うとおり、筋が通っていた。感情はキーラの言うとおり、もう他人事ではなかった。それでもまだためらう自分の中に、最後に残っていたものが口からこぼれた。
「……私は、その」
小さな、小さな声になった。
「今、一人でいるのは——寂しいです」
言ってしまってから、ひどく子どもっぽい言葉だと思った。聖騎士団副団長の言葉ではなかった。二十二歳の言葉でもなかった。
でも二人は笑わなかった。
キーラが右手を、まっすぐに差し出した。
「じゃあ、決まり! ようこそ、フィーリスさん!」
その差し出された手を、フィーリスは握った。手首を捻る支払いの握手ではない、ただの、仲間としての握手だった。ただの握手がこんなにあたたかいものだと、彼女は久方ぶり——たぶん生まれて初めて知った。
「……ありがとうございます。では、あらためて」
握手のまま、フィーリスは背筋を伸ばした。
「ライナスト・フィーリス。元・ダルケン帝国聖騎士団副団長。得物は剣と盾、属性は聖。……現在は、しがない反逆者です」
「キーラ! ナビアの商人の娘で、冒険者! 得意な物は、槍と風!」
「ダイヤスト・プシュケ。ストラル王国の王立省調査員という名目で、探しもの中の魔導師です。メインは氷魔法ですが、聖も少しだけ扱えます」
三人は、白湯の椀を掲げた。酒は出はないが、それでも立派な乾杯だった。
「反逆者と、冒険者と、調査員……」
椀を合わせながら、キーラがしみじみ言った。
「なんか、すごい組み合わせだね、わたしたち」
「肩書きは、ばらばらですが」とプシュケ。「探しものをしている、という点は、三人とも同じです」
フィーリスは、椀の湯気の向こうで二人の顔を見た。母を治す華を探す子。名前のないものを探す子。そして私は——奪われないための、証拠と道を。
その夜、フィーリスは二人が寝静まってから、窓辺の椅子に座った。
寝ずの番を今夜から自分の番だと申し出て、二人に「病み上がりが何を言ってるの」と却下されたが、それでも眠れなかったのだ。三日ぶんの眠りは、足りている。足りていないのは、この状況の呑み込みのほうだった。
つい先日まで味方はゼロだった、しかし今夜、この部屋に寝息が二つある。窓辺の毛布は畳まれ、看病の記録には「えらい!」と書かれ、荷物の横にある剣は磨かれている。
(……お父さん。お母さん)
胸の中で、報告した。
(生きています。それどころか——拾われました。背中を預けられる、まぶしい人たちに)
そして目を瞑り、混みあがる感情と決意を胸に、続けた。
(この人たちの探しものの隣で、私の戦いを続けます。そして魔石は必ず止めます。ただ、そのなんと言いますか……思っていたより、あたたかい道行きになりそうです)
報告の最後が、我ながら締まらなかった。締まらない報告を許してくれる相手に宛てて書けるのが、胸の中の手紙のいいところだった。
探しものの旅は、その夜から三人になった。