次の日の朝、フィーリスは荷物の奥から、あの包みを取り出した。
逃亡の時に母が持たせてくれた、あの硬い包み。状況が状況だったため、一度も開けられなかったもの。
開けるなら今夜だと思った。一人の部屋でではなく——この、灯りのあたたかい部屋で。同行者になったばかりの二人が、旅の予定を広げているこの部屋で。
あの夜開けられなかったのは、これを開けたら母の手が「最後」になる気がしたからだ。だけどそれが今なら逆だったと分かる。開けないかぎり、母の手は「最後の夜」に閉じ込められたままになる。開けて使って、暮らしの中に迎え入れて初めて、あの手は「最後」ではなく「いつも」に戻れる。
その理屈に気づかせてくれたのは、たぶんこの二人との出会いだ。傷の手当てや看病の記録、折れた槍への剣礼と、白湯の乾杯……。この二人は、大事なものを仕舞い込まず、一緒に抱えて歩く。だから——私も。
「フィーリスさん、それは?」
「……母が、逃げる夜に持たせてくれたものです。まだ、開けていなくて」
それを聞いて、二人が静かになった。
フィーリスは結び目をゆっくりとほどいた。油紙が開く。中から現れたのは——
小ぶりの茶壺がひとつ、茶杯がふたつ、茶葉の缶が三つ。それから匙と、茶漉しと、砂時計。
「————紅茶の、道具」
茶葉の缶を、ひとつずつ手に取った。
一つ目の缶には、母の字で『あさ』。朝の目覚めの軽い配合。父が毎朝、庭の素振りのあとに飲んでいたものだ。
二つ目には『ゆう』。夕食後のあの濃いめの配合。疲れた日ほど濃くなる、母の「おつかれさま」。
三つ目の缶には——『フィーリスへ』。
開けてみると、ベリーの香りが立つ、フィーリスがいちばん好きな配合だった。よく見てみると、缶の底に小さい紙が貼ってあった。母の字で、一行だけ。
『どこにいても、ちゃんとお茶の時間をとりなさい。 母より』
「————、」
この人は、逃げる娘の荷に着替えや金目のものでもなく、朝と、夕と、娘の好みの茶葉と——暮らしそのものを、持たせたのだ。
母はあの夜、燃える寸前の家から娘の荷物に、紅茶の道具一式を入れたのだ。
「…………ふ、」
笑いが漏れた。泣くところなのに、先に笑ってしまった。ああ、お母さん。あなたという人は、逃亡者の荷物によりにもよって茶会の道具を。
でも分かってしまった。分かる娘に育てられてしまった。
これは母の言葉だ。言葉の少ないあの家の、精一杯の長い手紙だ。——生きて、そしてちゃんと幸せに暮らして。どこかで誰かと、お茶を飲めるような生き方をして。
「……お二人とも」
フィーリスは顔を上げた。
「紅茶は、お好きですか」
✦ ✦ ✦
湯は、宿の厨房を借りて沸かした。
厨房を借りる交渉はキーラが済ませ、水汲みはプシュケが行き、フィーリスはその間に道具を並べた。並べる手が、手順を覚えていた。全部の記憶の中で、この手順だけはどの夜にも汚されずに残っていた。
茶葉は三つ目の缶——『フィーリスへ』と書かれたものを選んだ。母がフィーリス用に詰めた配合だと、その甘酸っぱい香りで分かった。茶壺を温めた後、葉を量って湯を注ぎ、砂時計を返す。
手順は体に入っている。何度も繰り返し、母の手元を見て育った手順だ。湯の温度や蒸らしの時間、注ぐ速さ全部に理屈があって、全部に理屈以上のなにかがある。
しばらくすると砂が落ちきる。
茶器を傾けると、琥珀色の液体が注がれた。今回は茶杯が二つしかないので、フィーリスは宿の湯呑みを使った。
「どうぞ。……お口に合えば、よいのですが」
キーラがひとくち飲んで固まったあと、驚きと称賛の声を上げた。
「…………おいしい!! なにこれ、おいしい!! 葉っぱなのに!?」
「は、葉っぱなのに、とは」
「だって、普段お茶として飲むサピエト草ってこう、もっと『効きそう』な味じゃない? でもこれ、『うれしい』の味がする!!」
語彙はめちゃくちゃだったが、言いたいことはなぜか完璧に伝わった。プシュケは両手で杯を包んで、ひとくち、またひとくちと、猫が水を飲むように飲んでいる。
「……おいしい、です。とても。……体の、内側から、あたたかい」
「ふふ。……嗜みですから」
それを言って、フィーリスは自分の口元が緩んでいることに気づいた。
自分も紅茶を飲もうと湯呑を手に取ると、三日間の眠りでも戻らなかった何かが、湯気と一緒に胸の中に戻ってきていた。誰かにお茶を淹れて、おいしいと言ってもらう。それだけのことが、こんなに。
——あなたがこの家を出て、自分の誰かに、自分の一杯を淹れるようになったら。
母の声が耳の奥でした。
(お母さん。……淹れました。私の一杯を、私の……たぶん、仲間に。勝ち負けは、また今度教えてくださいね)
✦ ✦ ✦
「ね、ね、フィーリスさん。おかわりって、あり?」
「ありです。二煎目は、少し軽くなりますが」
「軽いのも飲みたい!」
「わたしも、お願いします」
二煎目を待つあいだ、キーラは茶道具をひとつずつじっくりと眺めた。
「この砂時計、綺麗ですね。砂が、ちょっと青い」
「ストラルの硝子細工です。母がその……嫁入りのときに、持ってきたものだと」
「え、フィーリスさんのお母さんって、ストラルの人なの!?」
「いえ、帝国の生まれです。ただ、道具の産地にはこだわりのない人で。『良いものは、どこの国のものでも良いのよ』が口癖でした。帝国の茶葉を、王国の硝子で計って、商国の茶器で淹れる。……母の茶卓は、ちょっとした国際会議だと、父がたまに言ってました」
言ってから気づいた。父の冗談を人に話したのは、生まれて初めてだ。あの寡黙な人は、年に数度だけ母にだけ通じる冗談を言った。母はそのたび、宝物を拾ったみたいに笑った。
「いいなあ、それ。国際会議の紅茶」
「……ふふ。では、これからは毎晩、開催しましょう。議題は、その日の振り返りと、明日の道順です」
そんな話をしながら二煎目を注いでいると、ふと手元が震えた。
ほんの一瞬だった。茶壺の注ぎ口が、かち、と杯の縁に触れた。母の道具で、母の手順で、母のいない場所でお茶を淹れている——その事実が、ふいに一瞬指先へ届いてしまった。
キーラは話の続きに夢中で気づかなかったが、プシュケはその些細な変化に気づいた。
銀色の目が、震えた手元を一度だけ見た。そして、何も言わなかった。何も言わずに、空になった杯をそっと差し出した。
「……三杯目も、いただいても?」
「ええ。……ええ、もちろん」
手の震えは、三杯目を注ぐころには止まっていた。
「あの、フィーリスさん。……もしよかったらですけど、お母さまってどんな人だったの?」
三杯目を飲み終えたキーラが、恐る恐る母親について聞いた。地雷を踏むかもしれない、という顔で。
フィーリスは、茶壺を拭く手を止めなかった。止めずに答えられたのは、この道具のおかげかもしれない。
「……言葉の少ない家で、言葉のいちばん多い人でした。それでも、世間の標準からすれば静かな人です。怒った顔を、見たことがありません。いえ、一度だけ——私が初陣で無茶をして、腕を折って帰った日。あの日だけは」
「怒られた?」
「『おかえりなさい』と言ったきり、三日間紅茶が出ませんでした」
「こっっわ……!」
「効きました。二度と無茶はすまい、と」
「それは……とても効果的ですね。」
プシュケが真顔で頷き、キーラが「メ、メモしないで!?」と慌てた。笑い声が、狭い宿の部屋に湯気と一緒に満ちた。
その後、三人は湯気の向こうで旅の計画を話した。行き先は旧タイラー共栄国帝国領方面へ、その前にまずは配備部隊の経路を追って帝国の都市デンタルへ。キーラの新しい槍もそこで探そう。
話しながらフィーリスは思っていた。
もう、この茶道具を奥にしまうのは止めて、荷物のいちばん取り出しやすい場所に入れ直そう。これは形見ではなくて——道具なのだから。使ってこその、母の手紙なのだから。
片付けの段になって、キーラが茶杯を洗いたがり、プシュケが「絹の茶器に、井戸の水は」と止めた。しかしフィーリスが「丈夫が取り柄の茶器です」と笑って、結局三人で洗った。拭き上げた道具が油紙の上に並ぶと、キーラが感慨深げに言った。
「なんか、いいね。道具が並んでると。……お店みたい」
「明日から、毎晩開店します。……常連さんが、二名いらっしゃるので」
「常連一号!」
「番号より、席の確保を」
三人の笑い声に、心なしか、茶器が一層輝いて見えた。