その日のフィーリスは、朝から働きすぎだった。
夜明け前に起きて全員の武具を手入れし、キーラが当番だった朝食を作り、キーラの型稽古に千回付き合い、昼は先頭で歩き、休憩のたび周囲を警戒し、夕方は野営の設営を三人ぶん進め、プシュケが当番だった夕食の後片付けまで終えて、それからいつもの紅茶を淹れた。
「フィーリスさん、今日、当番ぜんぶ横取りしてない!?」
「体が、なまっていたので。……リハビリです」
「リハビリで、薪は三日ぶん割りません」
指摘されても、フィーリスは綺麗に笑うだけだった。
思えば、兆候は他にもあった。荷物の紐の結び直しが、日に日に増えたこと。地図の確認が、必要以上に細かくなったこと。夜の紅茶のあと、片付けの所作が一日ごとに丁寧に——丁寧すぎるほうへ——磨かれていったこと。どれも働き者の美徳に見え、美徳の顔をしているから指摘の糸口がなかった。
その夜の寝ずの番は、キーラとプシュケの組だった。
フィーリスは先に休んでいる。夕食のあと、いつもどおり三人ぶんの紅茶を淹れて、いつもどおり食器を整えて、いつもどおり「おやすみなさい」と綺麗にお辞儀をして、毛布に入った。
焚き火を挟んで、しばらく薪の爆ぜる音だけが続いた。
キーラが夜食の堅焼き菓子を焚火で炙りながら、小声で言った。
「今日の薪割りさ。手伝おうとしたら、『これは私の楽しみですので』って笑うんだよ。楽しみで、三日ぶんは割らないよねえ」
「割りません。……あの、キーラさん」
プシュケが、火を見つめたまま小さく口を開いた。声はフィーリスに届かない大きさに、正確に絞られていた。
「ん?」
「フィーリスさんは——笑いながら、無理をする人です」
キーラは、串に刺して炙っていた堅焼き菓子を下ろした。
「……うん。わたしも、ちょっと思ってた。元気、だよね。元気すぎるくらい」
「はい。……今夜の紅茶のとき、見ました。注ぎながら、手が、震えていました。ほんの一瞬です。本人は、隠せていると思っています」
「……震え、いつから?」
「最初の夜からです。母君の道具を使うたび、必ず一度。それから——寝ずの番を代わるとき、フィーリスさんは毎回、私たちの寝顔を確認します。数を、数えるみたいに。……あれはたぶん、守るものが、まだ減っていないかの確認です」
キーラは、毛布の膨らみのほうを見た。
規則正しい寝息に、乱れのない寝姿。あの人は、眠り方まで綺麗だ。むしろ、何もかも綺麗すぎるのだ。家が燃えて両親を亡くし、さらに国に追われて、まだひと月も経っていない人の所作として。
「今日だって、そうです。薪を三日ぶん割って、稽古に千回付き合って。……働いているあいだは、考えなくて済むんです。手を止めた瞬間に、来るものが」
「……来るものって」
「ご家族のこと。ご友人のこと。故郷のこと。あの人が置いてきた、ぜんぶ」
キーラは、炙りかけの菓子をじっと見た。
「わたしがナビアを出たときは、みんな『行ってらっしゃい』って言ってくれた。帰る場所があって、手紙も書けて。……でも、フィーリスさんには、それがないんだ」
「はい。帰る家は焼かれ、手紙の宛先は失われました。……あの人の『いつもどおり』は、全部この旅で初めて作った『いつもどおり』です。当番表も。紅茶の時間も。だから、あんなに丁寧なんです」
「泣いてるの、見たことないね。わたしたちの前で。……ひと月経ってないんだよ、まだ。ぜんぶから」
「はい。……悲しみの処理を、後回しにしています。悲しむ時間を、任務と私たちへの気遣いで埋めている。あの当番表も、紅茶も、稽古も——ぜんぶ本物で、ぜんぶ少しずつ逃げ場所です」
プシュケの声は診断のように正確で、しかし診断よりずっとやさしかった。
「……本で、読んだんです。喪失の悲しみは、生き延びるための後回しができる、と。でも、後回しにした分は、消えない。いつか、必ず、利息をつけて戻ってくる、と」
「どうしよっか」
キーラが、膝を抱えた。
「無理しないで、って言う? 泣いていいんだよ、って」
「言えば、あの人は『ありがとうございます』と、綺麗に笑います。そして、無理の隠し方が、一段、上手くなるだけです」
「……だよねえ」
「あの人の無理は、二十二年ものです。副団長という仕事は、たぶん、無理を隠す仕事でもあったはずですから。……付け焼き刃の声かけでは、歯が立ちません」
「じゃあさ、プシュケちゃん。もし……もし、わたしがフィーリスさんの立場だったら、どうしてほしいと思う?」
プシュケはめずらしく、長く考えた。その間、火が薪をひとつ崩した。
「……わたしなら。事情を全部知っていて、それでも普通に接してくれる人が、ほしいです。腫れ物に触るのでもなく、無理に励ますのでもなく。……九年前のわたしに、そういう人は、いませんでした。だから、九年かかりました」
九年前の広間の、黒い服の大人たち。やさしい声で葬式の日取りを話した人たち。あの人たちの誰ひとり、六歳のプシュケと「普通に」話さなかった。キーラは、その話の重さを黙って受け取った。
プシュケは火に細い薪を一本足した。
「何も、しません。……ただ」
炎が、少しだけ明るくなる。
「気づいている人がいることは、いつか、効きます。あの人が後回しにした悲しみを、いつか取り出す日が来たとき——隣に、驚かない人がいる。それだけで、取り出しやすさが、ぜんぜん違うんです」
キーラは、しばらくプシュケの横顔を見ていた。
「……プシュケちゃんって、すごいね」
「本の、受け売りです」
「ううん。本に書いてあることを、人のために使えるのが、すごいの」
プシュケの耳が、焚き火のせいではない色になった。話はそこで終わった。二人はそれ以上フィーリスの話をせず、見張りの残りを静かに務めた。
✦ ✦ ✦
数日後の夜、それはふいに訪れた。
「フィーリスさんの紅茶って、誰に習ったの?」
夕食のあとの紅茶の時間、キーラが何気なくフィーリスに聞いた。それを聞いて、フィーリスは湯気の向こうで少しだけ黙った。
それから——初めて聞く側ではなく、話す側に回った。
「母に、です。……母の紅茶は、帝都で評判だったのですよ。湯の温度は、沸かしきる少し手前。茶葉は、缶を振って音で量を確かめて。注ぐときは、最後の一滴まで――『最後の一滴に、味の芯があるのよ』と言って、それはもう、真剣な顔で」
ぽつり、ぽつりと、フィーリスは母の手順を語った。父が毎朝、素振りのあとに飲んでいた軽い一杯のこと。疲れた日の夕食後は、頼まなくても濃くなったこと。娘が味の違いに気づくと、母がどれだけ嬉しそうだったか。
母のことを話し始めると、そのまま自然と父の話へと移っていった。
「父は、その……無口な人で。母の紅茶の感想を、私の前では一度も口にしませんでした。ただ、毎回必ず最後の一滴まで飲むんです。母はそれを『世界一の褒め言葉』と呼んでいました」
「世界一の褒め言葉……」
「はい。ですから、うちの食卓は、静かでしたが——会話が、なかったわけでは、ないのです。今にして思えば」
思い出をひとつ話すたび、フィーリスの手の中で、杯が少しずつ傾きを直していった。過去形と現在形が、話の中で行ったり来たりした。行ったり来たりできること自体が、たぶん快復の傾向だった。喪失は過去形に閉じ込めることでも、現在形にしがみつくことでもなく——両方の時制を、行き来できるようになることなのかもしれない。
キーラはフィーリスの話にいっぱい笑って、いっぱい相槌を打った。プシュケは静かに、三杯目のおかわりをした。誰も泣かなかったし、誰も「無理しないで」と言わなかった。
「最後の一滴に、味の芯……。じゃあフィーリスさんの紅茶がおいしいのは、いっつも最後まで、ちゃんと注いでくれてるからなんだ」
「……ええ。母の教えは、絶対ですので。破ると、三日、紅茶が出ません」
「いい教えです」
「ふふ。……母も、喜びます」
母も喜びます。——現在形でそう言えたことに、フィーリス自身がいちばん驚いていた。焚き火のそばに、母の紅茶の話をしても大丈夫な場所ができたのかもしれない。
その夜、フィーリスの寝顔の確認は一回で止まった。
気づいていたのは、寝たふりの上手な魔導師、ひとりだけだった。
(何度も確認が、なかった夜は、初めてです。……効いて、いるといいのですが。わたしたちの、貯金)
寝たふりの魔導師は頭の中にそう書き足して、今度こそ本当に眠った。
翌朝の紅茶は、なぜだかいつもより少しだけ甘い香りがした。
「茶葉、変えました?」
「いえ。……蒸らしを、少し長くしただけです。母がよく、いい朝には、そうしていたので」
「じゃあ、今日は、いい朝なんだ」
「……ええ。そのようです」
いい朝、と言った本人は気づいていないようだった。キーラとプシュケは、湯気の向こうでこっそり目配せをして微笑んだ。何も言わない、という約束の目配せだった。
言わない代わりに、キーラはその日の道中、母仕込みの堅焼き菓子の焼き方をフィーリスに教えた。プシュケは夕方、『十二騎士物語』の続きの議論を、自分から持ちかけた。
フィーリスがいつかこの旅で、後回しにしていた悲しみを取り出す日が来るかもしれない。来る日のために、二人は温かい普通の日々という、いちばん強い貯金をしておくのだ。しかし、その名前のない温かい思いが「友情」であることには、彼女たちはまだ気づいていなかった。