出立の朝、まだ燻りが残る焚き火を挟んで、地図の会議が行われた。会話の先陣は、まだ不安が残るフィーリスが切り出す。
「……白状します。本当は、一刻も早く関所へ、と気ばかり急いています。ですが、急ぐ先を、私はまだ知らないのです。輸送の経路は、掴めていない。……一人のときは、それでも、走るしかありませんでした」
「走らなくて、いいと思います」
プシュケが、地図を開いた。
「フィーリスさんが逃亡中に拾った痕跡。……『祭りの先触れにしては、重すぎる轍』。あれが、答えだと思います。輸送は、星導祭前の物流に紛れて、中継地で荷を集めながら進む。つまり、今はまだ荷馬車の速さでしか、動けません。そして、西へ抜ける荷は、必ず関所を通ります。追うべきは、走る荷馬車ではなく——荷の通る、結び目です」
「関所町には、記録が溜まります」と、プシュケは地図の一点に指を置いた。「通行記録。荷改めの台帳。飼い葉の発注。通った分も、これから通る分も、紙が教えてくれます。それに、星導祭前の増便は、これからが本番です。手遅れでは、ありません。……ですから、『治すのが先』は、看病の話だけでは無いです。この追跡の、正しい速さの話です」
急ぐことと、焦ることは違う。一人で走って、消耗して、狩られかけた身に、その理屈は痛いほど正しく刺さった。思えば、焦りは影布の思う壺ですらあったのだ。あちらは、こちらが磨り減るのを待っていた。
「……承知しました。隊の速さは、頭数ではなく、目的が決める。——参りましょう。私たちの、結び目へ」
「よーし! 目指せグレンツ! 寄るとこは寄って、着くとこに着く!」
グレンツへの道は、その日から山にかかった。
朝の山道は、針葉樹の匂いや鳥の声で気持ちがよかった。予定どおりキーラが先頭を歩き、プシュケが真ん中で地図を確かめ、フィーリスがしんがりを固める。すれ違う下りの旅人と挨拶を交わし、湧き水で水筒を満たし、キーラが「山の水、暫定二位!」と品評し——
「……ん? なんか、上のほう、騒がしくない?」
キーラが足を止めた。耳を澄ますと、たしかに峠の上から人の声がする。それも、一人二人ではない。
登り切ってみれば、その峠道は荷馬車の列で栓をされていた。
「……渋滞、ですね」
「山道で渋滞って、初めて見た」
先頭のほうから、御者たちの困り声が流れてくる。三人が列をたどって登っていくと、原因は峠のいちばん狭い岩場の区間に鎮座していた。
甲虫である。
大人が両腕で抱えるほどの、鉄色の光沢を持つ甲虫が——ざっと見て、二十匹あまり。狭い岩場の道の上に我が物顔で群れて、日向ぼっこをしていた。陽を受けた甲羅は、磨いた鎧よりつややかで、正直ちょっと綺麗だった。
「……大きい。図鑑の記述より、二回りは」
「つやつやしてる。……あ、いま、あくびした。あくびかな、あれ」
「魔物は、あくびを——いえ、するかもしれません。記録します」
「アーマービートル、です」
プシュケが、記録帳をめくった。
「岩地に棲む、硬い甲殻の魔物。性質はおとなしく、こちらから手を出さなければ、襲ってはこない、と」
「おとなしいのに、この騒ぎ?」
「おとなしいから、この騒ぎなんだろうよ」
キーラの疑問に答えるように、近くにいた隊商の親方が苦い顔で言った。
「ここにいる連中、てこでも動かねえんだ。追い払おうと棒で突けば、甲羅で弾かれる。若いのが剣で試したら、刃こぼれした。かといって崖っぷちの道だ、馬車で強行突破もできん。……もう半日、こうしてる」
辺りを見ると、道の脇に刃の欠けた剣と折れた棒が転がっていた。試行錯誤の跡である。
「火で炙るのも試したぜ。だが、びくともしねえ。水をぶっかけたら、喜んでやがった」
「行水……。あの、それで、皆さんのお荷物は」
「北の市に卸す反物と、塩と、収穫祭用の酒だ。祭りは四日後。ここで二日止まりゃ、間に合わねえ。回り道は三日かかる。……詰みってやつよ」
親方の後ろで、若い衆が力なく賽子を振っていた。峠の上の詰み、である。
プシュケは群れをじっと観察し、キーラは荷馬車の数を数えていた。フィーリスは——二人の顔を見て、答えの出る前の顔だと分かって静かに待った。この待ち時間が、この隊の強さだと最近は思っている。その間、隊商に現在の状況を聞いた。
「ギルドには」
「朝いちで報せた。討伐依頼が出とるはずだ。……が、この峠の向こうから冒険者が来るにも、まず、この峠が通れんという寸法よ」
つまり、依頼人と依頼対象と、通りすがりの冒険者三人が、峠の上で鉢合わせていると言う状況だ。フィーリスが二人に目を合わせると、頷きがすぐ返ってきたので、本題に入った。
「——受けましょう」
親方は、三人をまじまじと見た。若い女が三人。うち一人は、どう見ても本の虫。
「……悪いこたぁ言わねえ、やめときな。うちの若いのが、剣を折られてんだ」
「では、まず腕前の確認を」
フィーリスは、道端の若い衆が「歯が立たなかった」という転石を指した。人の頭ほどの石だ。
「プシュケさん」
「はい。——氷華」
石が、一瞬で凍りつく。
「キーラさん」
「はいっ!」
風を纏った石突の一撃で、凍った石は、ぱぁん、と小気味よく砕けた。
親方と若い衆が、あんぐりと口を開けた。
「腕前の確認、以上です。……お受けして、よろしいですか」
「た、頼んます」
✦ ✦ ✦
まず、偵察からだった。
フィーリスとキーラが岩場の縁から観察し、プシュケが記録帳の知識と突き合わせる。
「甲羅の硬さは、見た目どおりです。並の斬撃は通りません。ただ、記録によれば——ひっくり返すと、腹は柔らかい、と」
「じゃあ、ひっくり返して……って、駆除しちゃうの? おとなしい子たちなんだよね」
「そこ、なのですが」
プシュケは、群れの奥を指した。
「見てください。あの岩の割れ目。……あれが、たぶん彼らの巣です」
岩壁の中腹に、大きな亀裂が走っていた。そして亀裂の縁が、真新しく崩れている。先日の大雨の跡だ。
「巣が、崩れたのだと思います。彼らは家を失って、行き場がなくて、いちばん日当たりのいいこの道に、座り込んでいる」
とはいえ、確かめる必要はあった。もし群れが好戦的なら、話は変わる。
「一匹だけ、試します。キーラさん——例のを」
「りょーかい。……いくよ、プシュケちゃん!」
群れの端の一匹に、いつもの連携を仕掛けた。氷華の冷気が甲羅を包み——包んだ、はずだった。
ぱき、と音を立てて、氷のほうが割れた。
「「「え」」」
甲虫は、何事もなかったように、つやつやの甲羅のままちらを見た。薄氷程度では、あの甲羅は冷えもしないらしい。念のため放ったキーラの突きも、こん、と乾いた音を立てて弾かれた。槍は無事だったが、手応えは「岩を突いた」それだった。
「わ、わたしたちの必殺技が……!」
「……なるほど。刃こぼれの理由が、分かりました」
そして、大事なことも分かった。攻撃された甲虫は、反撃をしなかった。攻撃を受けると迷惑そうに半歩ずれて、また日向ぼっこに戻っただけだった。
「……戦う気が、ないのです。徹頭徹尾」
「うん。ただ、座ってたいだけなんだ。……つまり、通せんぼの正体は」
「はい。——引っ越し難民です」
それを踏まえて再び群れを見ると、鉄色の甲羅が陽を浴びて、じっと動かない。魔物というより、途方に暮れた生き物の群れに見えてきてしまった。
「討伐依頼、ですが」
とプシュケが話を切り出した。
「移動でも、依頼は達成です。前例なら、森の古老の一件で、あります」
それを聞いて、キーラも頷きながら返した。
「うんうん。よし、それじゃあ決まりだね!」
親方が「おいおい、討伐じゃねえのか」と目を丸くしたが、三人の会議はもう次の段階に進んでいた。
✦ ✦ ✦
問題は、二十匹の重い甲虫をどうやって動かすかだった。
「持ち上げるのは、無理です。一匹で、樽より重い」
「氷で滑らせる、のは、坂の向きが悪いです。滑らせると、崖のほうへ落ちます」
「風で転がすには、まるっこすぎるし……あ、でも、待って」
キーラが、ぽん、と手を打った。
「転がすんじゃなくて。——歩いてもらえば、いいんじゃない?」
「歩いて、もらう」
「うん。だってあの子たち、足はあるんだもん。動かないのは、動く理由がないからでしょ。……なら、理由を作ればいいの。市場と同じ。お客さんは、呼べば来るの」
甲虫の、呼び込み。
前代未聞の作戦会議が、峠の上で始まった。プシュケが記録帳から生態の頁を総ざらいする。アーマービートルの好むもの——日当たり。乾いた岩。それから、樹液と、熟れた果実の匂い。
「果実……。親方、荷に、果物はありますか」
「あるにはあるが……傷んで売り物にならんのが、ひと籠」
「買います。定価で」
「や、やけに話の早い嬢ちゃんだな!?」
日当たりのいい岩場は、プシュケが地誌の地形図から、峠の南側に見つけた。崖から離れた、広い岩棚。水も近く、新居として申し分ない。
「経路は、私が確保します」とフィーリス。「群れが道から逸れないよう、盾で壁を作りながら誘導を。……本職が、隊列誘導で助かりました」
「本職の使い方、絶対違うけどね!?」
本日は夕暮れが近いので、決行は明朝と決まった。理由は二つ。プシュケの記録帳にあった通り、甲虫は朝の陽で体が温まると活発になること。そして、雲の流れから、朝の峠は南からの風が吹く可能性が高いこと。匂いで誘うなら、風は追い風でなければならない。
隊商は峠の手前で野営し、三人は焚き火を分けてもらって、傷んだ果実の籠を選り分けた。
夜、焚き火を囲んだ隊商の若い衆が、遠慮がちに聞いてきた。
「なあ、あんたら、ほんとに戦わねえのか。おれの剣の仇、討ってくれてもいいんだぜ」
「お気持ちだけ。……ときに、その剣、拝見しても」
フィーリスは刃こぼれの剣を検めると、砥石を取り出して、焚き火の明かりで研ぎはじめた。
「え、いや、悪いよ、そんな」
「どうせ、明朝まで手が空いています。それに——刃こぼれを放っておく剣士を見ると、手が疼く性分でして」
研ぎながらフィーリスが刃の返し方を語り、キーラが果実の配置図を石で地面に描き、プシュケが記録帳に明日の手順を書き記す。焚き火の周りは、いつのまにか即席の作戦本部になっていた。若い衆は「変な冒険者だなあ」と三回言って、三回とも楽しそうだった。
火の番の交代どき、親方がふと聞いてきた。
「あんたら、この先は、どっちへ行きなさる」
「南へ。……グレンツの関所へ」
「なんだ、道連れじゃねえか。うちはマロウで酒と反物を下ろして、祭りがすんだら南へ回る。冬前の仕入れは、毎年グレンツでやるんでな。発つのは、祭りの二日あとだ。……どうだい、門の前で落ち合って、うちの列に混ざんな。明日の礼だ。それに、関所ってのは、隊商の列で入るのが、いちばん通りがいい。三人旅で並ぶより、よっぽどな」
顔と荷の多い列は、検問の目を薄める。——その申し出の値打ちを、フィーリスは誰よりも正確に量れた。人相書きの網が探しているのは、急いで国境へ向かう単独の女剣士だ。祭り帰りの隊商の荷台の間を歩く三人連れは、包囲網の目を簡単に抜けられるかもしれない。
「……ありがたく。では、門の前でよろしくお願いします」
✦ ✦ ✦
甘い匂いが、籠から立ちのぼっていた。明日の朝、この匂いが二十匹の引っ越しの道しるべになる——はずだ。
「……なるといいねえ」
「なります。理屈は、通っています」
「理屈の通った作戦が、理屈どおりに行った例しって、あったっけ?」
「「「……」」」
三人は無言で、果実の籠にもうひと籠、追加を検討した。備えは多いほうがいい。
寝る前、キーラがプシュケの記録帳を覗き込んで、「わっ」と声を上げた。
頁いっぱいに、アーマービートルのスケッチが描かれていた。甲羅の節の数。脚の付き方。触角の長さの比。余白にびっしりの注記。数字と注記は、測ったように正確で——ただ、肝心の虫の顔だけが、なぜかまるっこくて、ひげが生えていて、どう見ても猫だった。
「あ、味があって、かわいい……!! でもプシュケちゃん、この子、顔が猫になってるよ」
「絵では、ありません。記録です。顔は、資料価値に影響しない範囲の、誤差です。……図鑑の挿絵と、今日の実物は、甲羅の節がひとつ違いました。図鑑が古いのか、地域差なのか。リブロンのベシルさんに、手紙で聞いてみます」
「甲虫の絵で文通する学者町のおじいちゃん、絶対よろこぶやつだ」
明日、世界初の大仕事を控えた野営地は、いつもより少しだけ早く静かになった。