店の灯りが見えたとき、その灯りより先にお母さんが飛び出してきた。
「キーラ!!」
息が止まるかと思うくらい、強く抱きしめられた。それから体を離されて、頭にげんこつが落ちた。
「いったぁ……」
「『仕入れに行ってきます』!? あなたねえ……! 組合から帰ってきたら書き置き一枚で、心臓が止まるかと思ったわよ!!」
「ご、ごめんなさい。でも、ほら、無事だし……」
「無事じゃなかったらどうしてたの!!」
ごもっともすぎて、何も言えなかった。
お父さんは黙ってキーラの頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でた。怒鳴られるより、そのほうがずっと効いた。それから、後ろに立つ白髪の旅人に目を留める。
「……そちらさんは?」
「ラース。しがない旅人。娘さんとは——リンゴ仲間」
「リンゴ仲間」
事情を全部話し終えるまでに、お茶が三杯いった。
海賊の根城。壊滅していた警備隊。幹部との戦い。奪われた品物の回収。話が進むごとにお母さんの顔から血の気が引いていき、「海賊の根城ぉ!?」と途中でもう一発げんこつが落ちた。
いちばん驚かれたのは、魔法の話だった。
「キーラが、魔法……?」
「風の魔法。槍にこう、風がしゅるしゅるって……自分でもよく分かってないんだけど」
「うちは代々、そろばんの家系だぞ。爺さんも婆さんも、魔法なんてからっきしだ」
「素質は、家系だけで決まるものじゃないよ」
ラースがのんびりと口を挟んだ。
「娘さんのは、元から本人の中にあったもの。ボクはちょっと、扉を叩いただけ」
両親は顔を見合わせた。それから二人そろって、娘の顔を初めて見るもののように、まじまじと見た。ちょっとやめてほしい。
最後には二人とも、言葉をなくして黙り込んだ。
長い沈黙のあと、お父さんが立ち上がって、ラースに深々と頭を下げた。
「……うちの娘が、世話になりました」
「ん。娘さんは、勇敢だったよ」
その一言に、お父さんの眉がぐっと歪んで、また元に戻った。泣くのを堪えた顔だと、キーラが気づかないふりをできる程度にはすぐに戻った。
宿を取ると言うラースを、両親は許さなかった。命の恩人を宿になんて泊められるか、というわけで、ラースはその晩から店の二階の客間に収まった。
✦ ✦ ✦
夜更け。家じゅうが寝静まったころ、キーラとラースはこっそり裏の蔵へ下りた。
「誰もいない?」
「いません。……たぶん」
「たぶん、かあ」
ラースは蔵の戸を開け、中と、外と、屋根の上まで確かめてから——ぱちん、と指を鳴らした。
空っぽだった蔵が、一瞬で満杯になった。
麻袋の豆。干し魚の箱。粉の樽。時元コインの箱と、うちの鉄箱。そして、艶のいいリンゴの山。月明かりの下で、それはちょっとした宝の山に見えた。
「……何回見ても、すごい」
「明日の朝、ご両親の顔が見ものだね」
「なんて説明しよう……」
「『仕入れてきました』でいいんじゃない? 書き置きのとおり。嘘じゃないし」
✦ ✦ ✦
翌朝、キーラはお父さんの叫び声で目を覚ました。
蔵の前で、両親そろって腰を抜かしていた。
「ど、どうやって運んだんだ、これ……!? 荷車の跡もないぞ!?」
「き、企業秘密です」
「企業秘密って、お前……」
ラースは素知らぬ顔で、朝いちばんのリンゴを齧っていた。
✦ ✦ ✦
昼過ぎ、警備隊が戻ってきた。
縛られた海賊たちが数珠つなぎで大通りを歩かされ、しんがりの荷車には、ぐるぐる巻きの頭領。沿道は大変な騒ぎになった。罵声を飛ばす人、泣き出す人、万歳をする人。
そして警備隊の詰所の前で、奪われていた時元コインと時間の返却が始まった。
名前を呼ばれた人が進み出て、係の隊員と右手を握り、手首を捻る。そのたびに、誰かの数ヶ月が、誰かの数年が、持ち主のところへ帰っていく。列はいつまでも途切れなかった。
列の中ほどに、サリおばあちゃんの姿があった。
返ってきたのは、ほんの数十Øぶんだったらしい。それでもおばあちゃんは、返却の握手を終えた自分の手首を、しばらくじっと眺めて——それから、袖でそっと目元を押さえた。
キーラは、見なかったふりをした。かわりに、明日の朝いちばんの魚を、二匹よけいに取っておこうと決めた。
「オーレン製パン、粉三箱と——」
「うちの秤! 秤も戻ってきた!」
ルカの家に粉が戻り、夕方には窯の煙突からいつもの倍の煙が上がりはじめた。
「今夜は宴だぞーっ!!」
誰かが叫んで、町が沸いた。
✦ ✦ ✦
広場には成星式の飾りがそのまま残っていた。二日遅れの、祭りのやり直しだった。
屋台に火が入り、樽が開き、笛と太鼓が今度こそ最後まで鳴り響く。主賓の席に据えられたラースは、質問攻めにあいながら、のらりくらりと躱し、その膝には貢ぎ物のリンゴが山と積まれていた。リンゴの山を見ると、上機嫌だった。
「あんた、命の恩人だ」
お父さんが酒盃を片手に、あらためて言った。
「礼は何でもする。言ってくれ」
「じゃあリンゴ。あるだけ」
「……いや、遠慮するな。金でも、店の品でも」
「リンゴ。あるだけ」
「…………はっはっは! 変わり者だ!」
サリおばあちゃんはラースの隣に陣取って、せっせと皿に料理を積み上げていたし、ルカは「あんたが例の旅人か」と目を輝かせて、握手を求めていた。額に布を巻いた若い隊員も、松葉杖をつきながら挨拶に来た。
「あんたたちのことは、隊長から聞いた。……その、なんと言ったらいいか」
「リンゴが返ればいいの。乾杯だけしてって」
キーラはキーラで、大変だった。
「マルコんとこの娘が、槍で海賊を八人倒したんだと」
「風を纏ってたって話だぜ。魔法だ、魔法」
「〝風の嬢ちゃん〟だな!」
「ち、違……いや違わないんだけど、八人じゃなくて、その、勢いというか……!」
尾ひれはもう、キーラの手の届かないところを泳いでいた。
「〝風の嬢ちゃん〟ね」
隣に来たルカが、焼きたてのパンを差し出しながらニヤニヤした。
「二日前まで、リンゴ数えてた人が」
「今も数えてます。本業は商人です」
「……でもさ」
ルカは急に、声を落とした。
「かっこよかったって、みんな言ってる。俺も、そう思う。……ありがとな。うちの粉も取り返してくれて」
「……どういたしまして」
新成人は礼だけ言うと、さっさと友達の輪へ戻っていった。照れているのが背中から分かって、キーラはちょっと笑った。
お母さんを探すと、壁に立てかけたキーラの古槍を、複雑な顔で眺めていた。お父さんはその隣で酒盃を傾けながら、「商人の娘が槍働きとはなあ」と、困ったような、どこか誇らしいような声で笑っていた。
✦ ✦ ✦
夜が更けて、宴の輪が少しずつ小さくなったころ。
酒場の隅の席は、祭りの中の凪だった。
「ラースさん。旅の話、聞かせてください」
ラースは葡萄水の杯を置いて少しだけ考え、それから、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。
南の果ての、空が緑色に暮れる土地の話。夕暮れどきになると、空も海も丘も、ぜんぶ同じ緑に染まって、どこまでが世界でどこからが空か、分からなくなるのだという。
「綺麗、でしょうね」
「うん。……でも、三日いると飽きるよ。緑ばっかりで」
「言い方!」
図鑑のどこにも載っていない、名前のない魔物の話。静かで、綺麗で、誰にも見つからないまま生きて、誰にも見つからないまま消えていく生き物たち。
歩いても歩いても地図の白いままの、未開の地の話。
「北の果てには、季節がぜんぶ冬の土地もあるよ。海も、滝も、みんな凍ったまま。氷の下に、太古のなにかが眠ってる——なんて話も、あったかな」
「見たんですか?」
「さあ。……氷は、覗き込むと吸い込まれそうになるから、あんまり長く見ないことにしてる」
キーラは、瞬きも忘れて聞いた。ナビアの海しか知らない自分の中に、見たこともない景色が次々と灯っていく。胸の奥がむずむずして、じっと座っているのが難しいくらいだった。
——いつか。
言葉になる前のそのひとかけらだけが、胸の底にぽとりと落ちた。
「あとは——そうだな。リゴース、って果実の話」
「リゴース?」
「世界でいちばん美味い果実。リンゴのご先祖様、みたいなものかな。滅多なことじゃ実らなくて、実がなると、中に種が十二粒入ってる」
「十二粒……縁起がいいんですね」
「うん。——とても」
ラースはそこで言葉を切って、手の中のリンゴをゆっくりとひと口齧った。
「リンゴってさ、いいよね。どこで食べても、はずれがない」
それは質問の答えみたいな言い方だったけれど、誰も何も聞いていなかった。
「あの。ラースさんは……なんのために、旅をしてるんですか」
聞いてから、少し不躾だったかなと思った。
ラースはすぐには答えなかった。
ほんの一瞬——瞬きひとつぶんの、間があった。
「…………探しものかな。うん、探しもの」
声はいつもどおり軽かった。話はそこから、また別の土地の笑い話に移っていった。だからそれきりになったのだけれど——その瞬きひとつぶんの間を、なぜだかキーラは、ずっとあとまで覚えていることになる。
そういえば、と、ふと気づいた。
この人は宴のあいだじゅう、一度も上着を脱いでいない。袖もまくらない。火照るほど賑やかな夜なのに。暑くないのかなと思って、キーラはそれきり忘れた。誰も、気に留めていなかった。
窓の外では、星が冴えていた。
「……星が、綺麗な夜だ」
ラースがぽつりと言った。それは今夜いちばん、静かな声だった。
宴の灯が、ひとつ、またひとつ消えていく。旅人の隣で、キーラはいつまでも旅の話を聞いていたかった。